五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五 高 の 狐

2010-01-27 04:41:29 | 五高の歴史
五高が開校して半世紀即ち開校五〇周年記念祭は昭和十二年十月十日開催され
ている。既に二年半前の昭和十年四月には記念祭実施計画が検討されたことが発
表されている。八号の読み物としては木下順二の『小泉先生と五高』がある。文科二
年であった木下順二の「小泉先生と五高」というのは研究報告というべきもので、当
時の九州新聞に連載したものを、同窓会報編集者の方から会報に転載したいとの
依頼を受けたので少々焼きなおしたものという本人の注釈が付けられている。以下  
五高の狐を掲載する

五高の狐 先生(小泉八雲)がチャンバレン氏に与えられた書簡のうち、二つばかり  
狐に関することがある。一つは廿六年六月十九日附きの、出雲の頃の狐の話と、老
俥夫の話した狐の事、今一つは、多分廿七年の初頃に書かれたもので、五高の狐
の話である。五高の狐に就いて先生は、前記廿七年初頭の書簡に、二つの事を書
いて居られる。うち一つは、今五高のある所に昔寺院が建って居て、その住職が狐
にばかされて、汚水溜に飛び込んだ、と云う話であるが、これは果たして先生の創作
なのか、或は本当にここらで云い伝えて居るものなのか知らない。  
 
五高の狐のも一つの話と云うのは、之は本当の話で、 五高生が狐を飼って居ると
云うものである。 第五高等中学校の生徒が、二日前の運動場で、雌狐を一匹殺し
ました。それは下水道の一つに其の巣を作って居たのであります。眼の見えぬ小さ
な子狐が其の処で見つかりなした生徒はそれを寄宿舎に持ち帰って、それへ牛乳を
飲ませる為に銘々三四厘宛出しました。だから私達は今狐を養って居るのでありま
す。本年九月廿六日、明麗館での座談会席上、十時校長先生が、此の狐に就いて
御話になったが、それは大要次の通りであった。  
 
 武夫原の横の溝に土管があったが、或る時その中に狐が居るのを発見した。みん
なで之を捕えようとしたがその親狐を木刀で殴り殺したのは、確か有田仁作氏だっ
たと思う。それからこれを燻して、五匹の子狐を生捕りにした。之を寄宿舎で育てよ
うと云う事になり箱を作ったり、生徒から金を集めて牛乳を買ったりした。或る日、丁
度自分が此の居る部屋に居た時、小泉先生が、有馬純臣氏と狐を見に来られた。
先生は非常に興味を持って居られた様で、例の眼鏡を出しては、随分長く熱心に眺
め、有馬氏の催促に依ってやっと去られた程であった。そして立ち去る前、このみな
しごの狐の為に、五円の金を与えられた。(十円だと云う人もあるが、私は五円だっ
たと思う。)当時五円と云えば大金で、何しろ寮の一日の食費が七銭だったのであ
る。此の狐は学校が休みになったとき、世話を小使に頼んで置いたら、小使の世話
の不行届で殺してしまった(文責木下)此の、後日譚は、菅野氏の御話によれば詳
細に分る。即ち十月十日の記念日から、三週間続いてあった修学旅行の留守中
に、使の不注意から、皆死んでしまったそうである。そして誰かが噫悲哉野狐之塚と
云う墓標を樹てたそうである。
 
昨日の赤星水竹居の「五狐の家」と言うのは学生時代の当事者としての思い出と
して書かれたものでありより現実味が見えるのではなかろうか(tH)