毎週一回火曜日の出である。そのため今朝は五高の歴史の思い出を記載している。我が家のパソコンはどうも調子が悪く自分の思いのようにUPしてくれない。今日も又記念館のパソコンで書いている。
明治政府は日本の将来の柱石になるべき人材を育成するための教育制度「高等中学校令」を明治19年に公布した。この高等中学校令により第五高等中学校(明治27年高等学校令で五高)は設置されたのである。明治20年10月に古城の県警察署跡地に仮住まいして五中は開校された。そして敷地を飽託郡黒髪村の龍南の地に確保し21年2月より文部省の直轄工事として、文部技師山口半六と久留正道の設計・監督の下に校舎の建築に入った。その後1年半の歳月を要して、翌22年7月に、この熊本における最初の煉瓦造りのクイーン・アン様式の建物は完成し五中は晴れて黒髪村へ移転することになった。時の初代文部大臣森有礼は明治19年に開校した第一高等中学校長野村彦四郎を、あえて熊本の第五高等中学校の校長として送り込んだことは、森文相の日本の教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。この「高等中学校令」で、今までの中学は尋常中学として残っていくことになった。熊本は済々黌、福岡は伝習館、明善中学等々である。高等中学校は文部省の直接管理とし全国を5区に分け各区にナンバースクールを配置した。五中設置については九州各県で特に長崎・福岡とは激しい誘致合戦を行ったが、藩政時代の教育、地域の特性を考慮した森有礼の英断により、熊本県に設置が決まったものである。
新校舎の落成は明治22年7月で、落成早々の7月28日深夜には熊本地区はマグニチュード6,3と言う大地震に見舞われている。しかしこの建物には聊かの亀裂も見出せなかったので、それ以後この建物の評価が高まり、世間の評判になり修学旅行を初めとする一大観光地の様相を示すようになった。地震時は深夜にも拘らず野村校長以下学校関係者は学校に駆付け被害調査し何事も無かったことを確認している。・・・・次に当時の報告を掲載する(原文のまま)
明治22年7月29日校長への報告、起案者 余田 司馬人
7月28日午後11時40分地大ニ震動直ニ駆付タル人名左ノ如シ
肝属左右、町野一清、益永長平、林 惟喜、野村彦四郎、上野盾次、廣岡武七郎、笠井真、上野広八、中原淳蔵、余田司馬人(蒲原忠蔵、・高井信敦・、大場景定・・建築掛) 前田元敏、井上元吉、立山儀平次、瀬高準八 以上拾八名
同時に文部大臣宛に校舎は無事と電報で報告している。
明治22年7月29日
大臣へ自身の件報告電報(案) 昨夜11時過ぎ熊本大地震
サクヤ ジュウイチジスギ クマモトオホジシン シチュウハハレツセシガショアリジンチク コウ ブジ
翌年の23年10月10日二代目校長平山太郎のもとで落成式とともに開校式を開催した。建築に掛かった費用は10万円、財源は県の地方税から8万円。旧藩主細川家から1万円。残りの1万円は県下の篤志家の寄付により賄われている。このことからも地域ぐるみで新しい学校を建設しようとの意気込みが伺える。敷地面積51,300坪(168,000㎡)、坪あたりの単価25銭、この面積は全国五区の高等中学校では最大規模の広さであった。当時の熊本の交通機関は馬車と徒歩の時代であり黒髪のこの構内には兎やキツネ等々が多数出没していたという状態であった。
初代校長野村彦四郎は乗馬が得意だったそうで、官舎から度々遠乗りを楽しんでいたと言う。そのためか五高に乗馬部が出来たのは全国の高等中学では最初であったが、約半年後に森文相が凶刃に倒れたので、最大の理解者を失った野村校長は非職になった。2代目文相は旧幕府の軍艦奉行であった榎本武揚で、校長には平山太郎が着任した。平山校長の業績は前記の開校式の行事を行ったことが上げられるが、在任中に死去してしまった。 3代目校長が世に知られている講道館の創始者、嘉納治五郎である。嘉納治五郎は柔道家と言うより教育家であり24年秋に赴任した時は、若干31歳の独身校長であった。彼の来校に当たってのエピソードは鉄の柄のついたこうもり傘を引きずり出校したので出迎えた教職員、生徒を驚かせたと言うエピソードがある。嘉納校長が野村彦四郎や秋月胤永等によって育まれてきた剛毅木訥の、龍南精神を五高カラーとして定着させたといえる。この剛毅木訥の龍南精神はその後の五高生に多大の影響を与えた。嘉納治五郎、秋月胤永の生活は厳格であったが暇を見ては生徒の相談にも応じたと言う。嘉納校長は26年3月には文部省参事官として転出してしまった。
明治24年に松江の尋常中学からハーン(小泉八雲)が着任して、赤星晋作の家を借り日本式の神棚を作らせた。月給は200円、邦人教師に比べ外人教師は高給であった。これは当時の校長と同額である。五高には人力車で現在の水道町から子飼商店街の道路あたりを通勤していたと思われる。この赤星晋作の家が現在の鶴屋の裏の小泉八雲旧居である。「高等中学校令」は、明治27年には「高等学校令」に改正されて、明治27年9月以降が、世間にお馴染みであった「五高」、第五高等学校となったのである。明治30年には専門課程として「五高工学部」が設けられた。また34年になると長崎に設置されていた五高医学部が「長崎医学専門学校」として、明治39年には五高工学部が大津街道(現在県道337号線)を隔てた所に「熊本高等工業学校」として分離独立した。その後の五高は国立大学入学のための予備教育機関としての色彩をより強くして行った。
明治29年漱石(夏目漱石)が小説「坊ちゃん」の舞台とした松山の尋常中学校から英語の教師として赴任した。漱石の月給100円も高給であるが八雲に比べると100円安い。イギリスに日本最初の在外研究員として留学するまでの約4年半を熊本で暮らした。着任したとき漱石は池田駅(現在のJR上熊本駅)に降り立ち、人力車に乗って京町台を通り、新坂付近から熊本市を見下ろして町に緑が多いことにひどく感心した様子で、「熊本は森の都だ」と言ったとか、そのため漱石が熊本の異称「森の都」の名付親と言われている。漱石の試験は厳格なもので遠慮なく落第点を付けて。赤点をつけることで有名であったようで、寺田寅彦が親友の赤点を漱石の自宅を訪問して、どうかしてくれと頼んだエピ-ソードは有名である。漱石は赴任早々に端艇部の部長の委嘱を受けた。日清戦争での戦利品ボートを佐世保の港に受け取り百貫港へ回航のため、吉田久太郎をメインとする生徒が引取りに行ったが、その帰り道に宿賃、飲食代等で100円を超える赤字を造ってしまった。生徒たちにそれを弁済する金はなく、部長の漱石は月給全額を出して償いをしてやり即座に部長を辞任したと言う。漱石は熊本時代においては俳句の創作に勤しみ漱石生涯の俳句はその大半が熊本時代のものである。後の作家としての作品「草枕」、「二百十日」、「三四郎」は熊本を舞台にしてあり、熊本との関係が深い。
五高野球部は明治20年の創立とともに野球を始めたが、歴史の残っている活躍はなかったが、明治38年の師走、七高の有志から野球の挑戦状が届き、翌39年正月武夫原でこれを迎え撃ったが14対4で大敗した。これが七高との野球戦の始まりといわれでその後この対抗戦は数年間続いた。
この間に日本は日露戦争を経て国際社会に進出し欧米の文化思想の流入等で日本を取巻く国際環境は大きく変わりこのため五高生の周辺も大きく様変わりしていろいろの思想がぶつかり合った。特に大正2年2月の真冬に習学寮内で発生したチブスで生徒10人が死亡してしまったこと。4月には習学寮の伝染病は一時的には収まったかに見えたが10月には再びパラチブス・赤痢の患者が続出したので、ついには責任を取った校長は依願退官し、学校側は臨時休校を行い寮生の外出禁止、習学寮の閉鎖に踏み切った。そのため学内は騒然とした。学校側は習学寮の解体処分を行った。しかし4年・5年には相次いで移築・改築し新習学寮として建設し面目を一新した。大正8年には七高との野球戦も復活し、県民を沸かせた。15年には寮歌武夫原頭の歌をめぐって、鹿児島七高応援団が「武夫原頭に糞たれて、花岡山に駆け上り枯れ草取っておし拭い・・・・」と囃し立てたので両応援団同士の乱闘 事件にまで発展した。ついには警察を招き入れる事態となり以後中止のやむなきに至った。この後にも五高野球部は全国高専野球大会において明大専門部を破り優勝を飾っている。スポーツも盛んな五高は昭和10年にはボート部が11年には水泳部が全国制覇を成している。
大正時代の卒業生には大臣経験者が多く10年卒の佐藤栄作、11年卒の池田勇人の2人の総理大臣を筆頭として挙げれば枚挙にいとまがない。第1次大戦後の大正中期から後期にかけてデモクラシーの思想が日本を風靡した。学内でも吉野作造の喧伝、河上肇の貧乏物語を生徒たちは愛読した。更には河上肇の社会問題研究の創刊を見るに及んで9年には第1回のメーデーの開催、11年には日本共産党の創立、龍南健児の周囲にもめまぐるしい環境の変化があり学内においても11年5月には後藤寿夫(林房雄)・鶴和人・松延七郎等々を中心に左翼的な思想の社会科学研究会が生まれ郡築小作争議を支援した。政府は左翼思想の弾圧に乗り出した。しかし五高の社研は校長の命により13年11月2日の文部大臣の全国高校社研解散命令に先立ち解散させられた。その後の五高社研は非合法に活動し15年の市電争議にも参加した。これに対し右翼の台頭もあり徳富蘇峰・中野正剛の精神を受け継ぐ五高東光会が江藤夏雄・納富貞雄・星子敏雄。園佛末吉等々で立田山の中腹龍田山荘を本拠地に生まれた。五高東光会は右翼的思想がその精神であったためか当局から睨まれることもなかったので昭和25年の閉校まで存続した。
文部省は大正15年に全国の中学校の専門学科の教員を補うため臨時教員養成所を設置した。五高には高等師範学校として4月1日文部省告示第203号を以って、第13臨時養成所数学科が設置されすぐに授業が開始された。教室は倉庫を改修して使用し、所長は五高の校長で、専任の教官はいなく、職員生徒の参考用図書は五高からの借用で、職員も五高との兼務である。初年度の入学志願者は153名でそのうち35名を入学させている。その後数学科の募集は昭和4年に行われ、その時の受験者300名、合格者は30名であった。昭和3年には国語漢文科が設置され、188名が志願し25名が合格した。給費生徒と言う感覚が定着したのか、昭和4年の受験者300名のうち給費を希望する受験生は269名に達していた。給料貰って学校へ行かれる。受験生が殺到してことが頷ける。その後は中学の専門教員も充足されたのか、各地に出来ていた臨時教員養成所はほとんどが、昭和7年には廃止されてしまっている。
昭和に入ると満州事変、5・15事件,2・26事件から国内の戦時色は益々濃くなり盧溝橋事件で遂には全面的な日支事変に突入すると、学内では防護団の結成、灯火管制の演習、防空演習の見学等々と軍靴の音が響いて来た。軍事教練の強化、勤労奉仕作業が始まり教職員・生徒は菊池の花房飛行場の地均しや大木の除去に汗を流した。五高では15年11月10日の皇紀二千六百年の祝賀式を期して龍南学徒報告団を結成し、総務・鍛錬・国防訓練・文化・生活の各部が設けられ銃後に於ける生徒としての体制を固めて行った。昭和16年12月8日ラジオが臨時ニュースを申し上げます。「大本営発表・・・8日未明西太平洋上において米英軍と戦闘状態に入れリ・・」と叫んだこの朝、日本はハワイ真珠湾を奇襲し太平洋戦争に突入した。この日五高では外国人教師が午前中の授業時間に敵国人として防諜容疑で熊本県警に検挙された。その消息はようとしてわからなかった。
昭和17年9月には繰り上げ卒業が実施され18年になると学徒出陣の命が下りこの年の6月15日には米空軍によるはじめての本土空襲、19年になると通年動員体制が開始されは学生は長崎の三菱造船・八幡製鉄、佐世保海軍工廠へと動員された。10月13日には文科生の学徒出陣壮行会が行われ「天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動す。・・・家門に立ち見送らむ父母にかく語らむ。・・・・・・あ・我等往く、我等未だ学終えず、業成らず、されど晴れて召されるは日本男子の名誉、何ものかこれに過ぎる・・・・」の悲壮な決意の答辞にその心情を推し測ることが出来る。20年の7月1日には武夫原において新入生歓迎ファイアストームの最中に米空軍による熊本市の大半を消失させる大空襲を受けたが、この五高構内にはその被害は及ばなかつた
明治政府は日本の将来の柱石になるべき人材を育成するための教育制度「高等中学校令」を明治19年に公布した。この高等中学校令により第五高等中学校(明治27年高等学校令で五高)は設置されたのである。明治20年10月に古城の県警察署跡地に仮住まいして五中は開校された。そして敷地を飽託郡黒髪村の龍南の地に確保し21年2月より文部省の直轄工事として、文部技師山口半六と久留正道の設計・監督の下に校舎の建築に入った。その後1年半の歳月を要して、翌22年7月に、この熊本における最初の煉瓦造りのクイーン・アン様式の建物は完成し五中は晴れて黒髪村へ移転することになった。時の初代文部大臣森有礼は明治19年に開校した第一高等中学校長野村彦四郎を、あえて熊本の第五高等中学校の校長として送り込んだことは、森文相の日本の教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。この「高等中学校令」で、今までの中学は尋常中学として残っていくことになった。熊本は済々黌、福岡は伝習館、明善中学等々である。高等中学校は文部省の直接管理とし全国を5区に分け各区にナンバースクールを配置した。五中設置については九州各県で特に長崎・福岡とは激しい誘致合戦を行ったが、藩政時代の教育、地域の特性を考慮した森有礼の英断により、熊本県に設置が決まったものである。
新校舎の落成は明治22年7月で、落成早々の7月28日深夜には熊本地区はマグニチュード6,3と言う大地震に見舞われている。しかしこの建物には聊かの亀裂も見出せなかったので、それ以後この建物の評価が高まり、世間の評判になり修学旅行を初めとする一大観光地の様相を示すようになった。地震時は深夜にも拘らず野村校長以下学校関係者は学校に駆付け被害調査し何事も無かったことを確認している。・・・・次に当時の報告を掲載する(原文のまま)
明治22年7月29日校長への報告、起案者 余田 司馬人
7月28日午後11時40分地大ニ震動直ニ駆付タル人名左ノ如シ
肝属左右、町野一清、益永長平、林 惟喜、野村彦四郎、上野盾次、廣岡武七郎、笠井真、上野広八、中原淳蔵、余田司馬人(蒲原忠蔵、・高井信敦・、大場景定・・建築掛) 前田元敏、井上元吉、立山儀平次、瀬高準八 以上拾八名
同時に文部大臣宛に校舎は無事と電報で報告している。
明治22年7月29日
大臣へ自身の件報告電報(案) 昨夜11時過ぎ熊本大地震
サクヤ ジュウイチジスギ クマモトオホジシン シチュウハハレツセシガショアリジンチク コウ ブジ
翌年の23年10月10日二代目校長平山太郎のもとで落成式とともに開校式を開催した。建築に掛かった費用は10万円、財源は県の地方税から8万円。旧藩主細川家から1万円。残りの1万円は県下の篤志家の寄付により賄われている。このことからも地域ぐるみで新しい学校を建設しようとの意気込みが伺える。敷地面積51,300坪(168,000㎡)、坪あたりの単価25銭、この面積は全国五区の高等中学校では最大規模の広さであった。当時の熊本の交通機関は馬車と徒歩の時代であり黒髪のこの構内には兎やキツネ等々が多数出没していたという状態であった。
初代校長野村彦四郎は乗馬が得意だったそうで、官舎から度々遠乗りを楽しんでいたと言う。そのためか五高に乗馬部が出来たのは全国の高等中学では最初であったが、約半年後に森文相が凶刃に倒れたので、最大の理解者を失った野村校長は非職になった。2代目文相は旧幕府の軍艦奉行であった榎本武揚で、校長には平山太郎が着任した。平山校長の業績は前記の開校式の行事を行ったことが上げられるが、在任中に死去してしまった。 3代目校長が世に知られている講道館の創始者、嘉納治五郎である。嘉納治五郎は柔道家と言うより教育家であり24年秋に赴任した時は、若干31歳の独身校長であった。彼の来校に当たってのエピソードは鉄の柄のついたこうもり傘を引きずり出校したので出迎えた教職員、生徒を驚かせたと言うエピソードがある。嘉納校長が野村彦四郎や秋月胤永等によって育まれてきた剛毅木訥の、龍南精神を五高カラーとして定着させたといえる。この剛毅木訥の龍南精神はその後の五高生に多大の影響を与えた。嘉納治五郎、秋月胤永の生活は厳格であったが暇を見ては生徒の相談にも応じたと言う。嘉納校長は26年3月には文部省参事官として転出してしまった。
明治24年に松江の尋常中学からハーン(小泉八雲)が着任して、赤星晋作の家を借り日本式の神棚を作らせた。月給は200円、邦人教師に比べ外人教師は高給であった。これは当時の校長と同額である。五高には人力車で現在の水道町から子飼商店街の道路あたりを通勤していたと思われる。この赤星晋作の家が現在の鶴屋の裏の小泉八雲旧居である。「高等中学校令」は、明治27年には「高等学校令」に改正されて、明治27年9月以降が、世間にお馴染みであった「五高」、第五高等学校となったのである。明治30年には専門課程として「五高工学部」が設けられた。また34年になると長崎に設置されていた五高医学部が「長崎医学専門学校」として、明治39年には五高工学部が大津街道(現在県道337号線)を隔てた所に「熊本高等工業学校」として分離独立した。その後の五高は国立大学入学のための予備教育機関としての色彩をより強くして行った。
明治29年漱石(夏目漱石)が小説「坊ちゃん」の舞台とした松山の尋常中学校から英語の教師として赴任した。漱石の月給100円も高給であるが八雲に比べると100円安い。イギリスに日本最初の在外研究員として留学するまでの約4年半を熊本で暮らした。着任したとき漱石は池田駅(現在のJR上熊本駅)に降り立ち、人力車に乗って京町台を通り、新坂付近から熊本市を見下ろして町に緑が多いことにひどく感心した様子で、「熊本は森の都だ」と言ったとか、そのため漱石が熊本の異称「森の都」の名付親と言われている。漱石の試験は厳格なもので遠慮なく落第点を付けて。赤点をつけることで有名であったようで、寺田寅彦が親友の赤点を漱石の自宅を訪問して、どうかしてくれと頼んだエピ-ソードは有名である。漱石は赴任早々に端艇部の部長の委嘱を受けた。日清戦争での戦利品ボートを佐世保の港に受け取り百貫港へ回航のため、吉田久太郎をメインとする生徒が引取りに行ったが、その帰り道に宿賃、飲食代等で100円を超える赤字を造ってしまった。生徒たちにそれを弁済する金はなく、部長の漱石は月給全額を出して償いをしてやり即座に部長を辞任したと言う。漱石は熊本時代においては俳句の創作に勤しみ漱石生涯の俳句はその大半が熊本時代のものである。後の作家としての作品「草枕」、「二百十日」、「三四郎」は熊本を舞台にしてあり、熊本との関係が深い。
五高野球部は明治20年の創立とともに野球を始めたが、歴史の残っている活躍はなかったが、明治38年の師走、七高の有志から野球の挑戦状が届き、翌39年正月武夫原でこれを迎え撃ったが14対4で大敗した。これが七高との野球戦の始まりといわれでその後この対抗戦は数年間続いた。
この間に日本は日露戦争を経て国際社会に進出し欧米の文化思想の流入等で日本を取巻く国際環境は大きく変わりこのため五高生の周辺も大きく様変わりしていろいろの思想がぶつかり合った。特に大正2年2月の真冬に習学寮内で発生したチブスで生徒10人が死亡してしまったこと。4月には習学寮の伝染病は一時的には収まったかに見えたが10月には再びパラチブス・赤痢の患者が続出したので、ついには責任を取った校長は依願退官し、学校側は臨時休校を行い寮生の外出禁止、習学寮の閉鎖に踏み切った。そのため学内は騒然とした。学校側は習学寮の解体処分を行った。しかし4年・5年には相次いで移築・改築し新習学寮として建設し面目を一新した。大正8年には七高との野球戦も復活し、県民を沸かせた。15年には寮歌武夫原頭の歌をめぐって、鹿児島七高応援団が「武夫原頭に糞たれて、花岡山に駆け上り枯れ草取っておし拭い・・・・」と囃し立てたので両応援団同士の乱闘 事件にまで発展した。ついには警察を招き入れる事態となり以後中止のやむなきに至った。この後にも五高野球部は全国高専野球大会において明大専門部を破り優勝を飾っている。スポーツも盛んな五高は昭和10年にはボート部が11年には水泳部が全国制覇を成している。
大正時代の卒業生には大臣経験者が多く10年卒の佐藤栄作、11年卒の池田勇人の2人の総理大臣を筆頭として挙げれば枚挙にいとまがない。第1次大戦後の大正中期から後期にかけてデモクラシーの思想が日本を風靡した。学内でも吉野作造の喧伝、河上肇の貧乏物語を生徒たちは愛読した。更には河上肇の社会問題研究の創刊を見るに及んで9年には第1回のメーデーの開催、11年には日本共産党の創立、龍南健児の周囲にもめまぐるしい環境の変化があり学内においても11年5月には後藤寿夫(林房雄)・鶴和人・松延七郎等々を中心に左翼的な思想の社会科学研究会が生まれ郡築小作争議を支援した。政府は左翼思想の弾圧に乗り出した。しかし五高の社研は校長の命により13年11月2日の文部大臣の全国高校社研解散命令に先立ち解散させられた。その後の五高社研は非合法に活動し15年の市電争議にも参加した。これに対し右翼の台頭もあり徳富蘇峰・中野正剛の精神を受け継ぐ五高東光会が江藤夏雄・納富貞雄・星子敏雄。園佛末吉等々で立田山の中腹龍田山荘を本拠地に生まれた。五高東光会は右翼的思想がその精神であったためか当局から睨まれることもなかったので昭和25年の閉校まで存続した。
文部省は大正15年に全国の中学校の専門学科の教員を補うため臨時教員養成所を設置した。五高には高等師範学校として4月1日文部省告示第203号を以って、第13臨時養成所数学科が設置されすぐに授業が開始された。教室は倉庫を改修して使用し、所長は五高の校長で、専任の教官はいなく、職員生徒の参考用図書は五高からの借用で、職員も五高との兼務である。初年度の入学志願者は153名でそのうち35名を入学させている。その後数学科の募集は昭和4年に行われ、その時の受験者300名、合格者は30名であった。昭和3年には国語漢文科が設置され、188名が志願し25名が合格した。給費生徒と言う感覚が定着したのか、昭和4年の受験者300名のうち給費を希望する受験生は269名に達していた。給料貰って学校へ行かれる。受験生が殺到してことが頷ける。その後は中学の専門教員も充足されたのか、各地に出来ていた臨時教員養成所はほとんどが、昭和7年には廃止されてしまっている。
昭和に入ると満州事変、5・15事件,2・26事件から国内の戦時色は益々濃くなり盧溝橋事件で遂には全面的な日支事変に突入すると、学内では防護団の結成、灯火管制の演習、防空演習の見学等々と軍靴の音が響いて来た。軍事教練の強化、勤労奉仕作業が始まり教職員・生徒は菊池の花房飛行場の地均しや大木の除去に汗を流した。五高では15年11月10日の皇紀二千六百年の祝賀式を期して龍南学徒報告団を結成し、総務・鍛錬・国防訓練・文化・生活の各部が設けられ銃後に於ける生徒としての体制を固めて行った。昭和16年12月8日ラジオが臨時ニュースを申し上げます。「大本営発表・・・8日未明西太平洋上において米英軍と戦闘状態に入れリ・・」と叫んだこの朝、日本はハワイ真珠湾を奇襲し太平洋戦争に突入した。この日五高では外国人教師が午前中の授業時間に敵国人として防諜容疑で熊本県警に検挙された。その消息はようとしてわからなかった。
昭和17年9月には繰り上げ卒業が実施され18年になると学徒出陣の命が下りこの年の6月15日には米空軍によるはじめての本土空襲、19年になると通年動員体制が開始されは学生は長崎の三菱造船・八幡製鉄、佐世保海軍工廠へと動員された。10月13日には文科生の学徒出陣壮行会が行われ「天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動す。・・・家門に立ち見送らむ父母にかく語らむ。・・・・・・あ・我等往く、我等未だ学終えず、業成らず、されど晴れて召されるは日本男子の名誉、何ものかこれに過ぎる・・・・」の悲壮な決意の答辞にその心情を推し測ることが出来る。20年の7月1日には武夫原において新入生歓迎ファイアストームの最中に米空軍による熊本市の大半を消失させる大空襲を受けたが、この五高構内にはその被害は及ばなかつた