五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

同窓会報には高田保馬の投稿多い

2010-01-22 03:48:33 | 五高の歴史

                                                           昭和初期のサインカーブ風景

この同窓会報については高田保馬の投稿が多く見える。

高田保馬(1883~1972)について佐賀県出身 明治40年1部文科卒 文学博士 我

国の社会界・理論経済界における第一人者、京都大学・大阪大学の経済学部長を

歴任する。 熊本県の波野高原に歌碑がある。

第五号には黒本植の「習学寮十二境記」(今迄何回か紹介した)と高田保馬の「武夫

原の歌の作者恵利武の記事が掲載されている。「習学寮十二境記」は十二境、

十五景として龍南会雑誌第百六十九号(大正8年3月31日発行)に據つたが後の

習学寮史(昭和13年2月11日発行)そして七十年史(昭和32年10月10日発行)

等にも詳しく掲載されている。また高田保馬の恵利武については「武夫原頭の歌」の

出来たいきさつが説明されている。元教授の遠山参良の逝去の記事もある。

 

遠山参良について。

慶応2年(1866)1月13日熊本県八代郡鏡町で生まれる。-昭和7年(1932)10月9日、10歳で熊本洋学校に入学したが、同学校の廃校後、京都の同志社に転学し、さらに長崎の鎮西学院に転じて卒業したの後渡米留学する.帰国後の明治35年五高の教授になる、キリスト者として、また学者として活躍する.

明治44年(1911)九州学院長に就任する.昭和7年まで同学院の経営に心血を注いだ、同時に五高においても非常勤講師として教えていた。教育者、熊本県近代文化功労者。遠山先生の墓所は花岡山にあったが九州学院創立100年を記念して構内に移設されている。(tH)