同窓会報第九号はこれまた前号が八号が発行されて五ヶ月後の昭和十年九月
五日発行されている。この号には付録として秋月先生記念号があることになってい
るがどれがこの時の秋月付録であるかわからない。記事としては三十年の昔という
ことで明治四十年の卒業生の思い出が語られている。私が面白いと感じたのは鈴
木弥直氏の発火演習肉弾戦である。所謂戦争の練習・戦争の仕方である。当時の
学生は真剣に発火演習を行っていた。これ等の文章から想像できることは、その昔
の武士の合戦の延長のような感じである。勿論現代であれば映画のロケーションに
ほかなるまい。以下にその発火演習肉弾戦を転載する
「当時五高の第一部丙組と云えば直ぐ肯れる代表的豪傑組であった。三十九年の
秋であったか例の発火演習が筑後平野に於いて行われた。柳川と矢部川の間に於
いて南北両軍が大衝突を演じた。其の時の出来事であった。其の時不肖北軍の司
令官を承り河を背景にして柳川から来る敵を待った。左翼守備が吉武定雄君の率
いる例の豪傑小隊であった。当日の衝突の中心は主として右翼方面であった左翼
は予備隊の観があり,巨像隊すっかり鞘気で脾肉の嘆をかこっておる所に防備薄し
と見て取り攻撃軍の波江仮設中隊突然襲い掛かったのである。豪傑隊は急に緊張
し笠原啓輔君のごっときは単身陣地を乗り出して波江仮設中隊を迎激したのであ
る。苅田の中に大格闘は演ぜられ遂に井手に陥り肉弾戦は尚も続けられた。笠原
は仮設中隊の隊旗を奪わんとし波江は剣を抜いて之を防ぎ、笠原の洋服は蹴破ら
れ手に少許の傷さえ負うに至った。斯うして休戦喇叭鳴り響き両軍互いに勝利を自
信して分かれたが、続いて講評の場面が展開されたのである。校長教授の厳めしく
控えた円陣の中にて統監の講評がある。当時戦術家の聞こえある松江大尉が居ら
れた。戦績は右翼方面は攻撃軍に包囲されて負け、左翼方面は防御軍兵力不足に
て敗と宣せられた。このとき笹原君奮然として進み出て今の総監の講評は当らん,聊
かも勝敗は兵数の多岐に非ず質にあり、現に敵の中隊は井手に埋められ隊旗は奪
われたるに非ずやと意気昂然と陳述せり。波江君と笠原君とは平素極めて親密の
間柄にて斯くも真剣に相撃ちたることは当時不思議とされたるところである。これは
小生の五高時代のなつかしい親しみある想い出の一つである。」
この思い出が書かれてからも七十余年、この想い出の記はその三十年前の事とい
う。今から百年以上の前のことである。明治は遠くなりというより、明治はのんびりし
た良き時代であったという方がぴったりではなかろうか(tH)