五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

龍南会の成立

2009-06-15 17:22:44 | 五高の歴史
五高初代校長野村彦四郎は文部大臣森有礼の遭難で非職になり、二代校長平山太郎は在職中に死去してしまっている。そのため次の嘉納治五郎三代校長の時代から後の五高精神「剛毅木訥」が培われてきた。今朝は嘉納校長のとき創立された龍南会の成立を眺める。

創建当時の龍南会の構成(当時の解説をそのまま掲載する)

雑誌部  
始め本校生徒中、研志会と称するものを組織し、毎月雑誌を発行し爾来号を追うて20余りに至る本会の起きるに及び主とを加入し今や事務を拡張し並びに初めて本誌第一号を発克するに至れり。

演説部  
学術を研究し品格を高尚にし、弁論を磨き専ら学生の交誼を図るの目的を以て起きたるに土曜会は其の創立実に去る22年5月に会員40余名会員、熱心委員の励精、特に教員諸君の有益なる談話・・益々の本会の隆盛を来たし会員の数既に百を超える本会の興るに及び演説部との加入而め特に幾多の歴史ろ有するを以て旧名を襲って本部を土曜会と称す。

戸外遊戯部
各部中創立最も早い。其の範囲も最も大なるものを本部とす。其の興りは21年、第五高等中学体育会と名づけ体育普及を目的として毎月2回小演習を催す。春秋2期大演習を施行する。
職員、生徒を以て会員、器械新調、事務を整理、範囲益々拡張する。

撃剣部
気力養成の体育に必要は識者の認めるところ。明治23年5月に有志者相謀り平山校長に請う、校長これに賛成し、職員の月給幾分を擲て其の資を助ける武具数十組を揃え雨天体操を以て道場に充て、和田伝氏を招聘、師範とする。組織を整備し撃剣部と称し、会員を募集する。

弓術部
体育隆興の余波で射術部の組織できる。野村校長射の人身に利あるを認め生駒新太郎翁を聘もこれを授け、今の校舎に転するに園助教授に教えさせる。爾来一盛一衰、常無かりしも龍南会に加入するに
及び弓矢を調へ、興隆の時機府に至らんとす。

柔道部
生徒の有志、有るもの柔道を起さんことを謀る但し師範の招聘、会費の徴収に窮す、当地の柔道家、矢野、星野、江口、諸流の門に入門して学ぶ、嘉納校長至る。校長善みす且つ曰く柔道は気力を鍛錬し精神を修養スルを以て目的とす。一般遊戯と同一視すべからず、従来の門に入るもの20余名、校長及び門弟子肝付氏、師範とする。入会者180名に達す。琅々たる読書の声は竹刀の音、弓弦の声に和し、聞くものもの心気先ず爽やかなからしむ、加ふるに本会の興隆を以てす、後日の景况果を如何。

龍南会創成期の役員
役員・各部の状況

会 長 嘉納治五郎 
副会長 桜井房記
委員長 藤本充安 

雑誌部長 大瀬甚太郎
委員 木崎虎太 加藤本四郎 白石英夫 古森幹枝 佐藤伝蔵 中山文次郎  安住時太郎 江口俊博

演説部長 戸沢 鼎
委員  雑誌部委員が月番を以て事務を執る

撃剣部長 秋月胤永
委員  藤本充安・林 市蔵

柔道部長 大倉増次郎
委員  野口弥三・喜入秀三

弓術部長園哲雄
委員  坂田益次郎・江口鎮白

戸外遊戯部長 秋山錬太郎
委員  平松末吉・梅野 實

従来各サークルは独自に活動していたものでこの集合体が龍南会という組織を発足させた。各部の部長は教授である。委員が学生である。先に紹介した漱石の端艇部の龍南会加盟は三年後である。