五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

七代校長  吉岡郷甫について

2011-09-30 04:12:45 | 五高の歴史

 
明治9年(1876)1月6日山口県に生まれる。
明治27年9月10日山口高等学校大学予科文科を卒業する。
東京帝国大学文科大学を特待生で出て第二高等学校の教授なる。、
明治35・ 7・31文部省図書審査官、
  36・ 3・31文部省視学官、
  44・ 9・19東京音楽学校教授等を経て
大正 2・ 6・13文部省督学官になる
大正 2・10・23五高校長兼教授に赴任する。

五高赴任時はまだ30代の意気盛んな人であり、大学を出るときは銀時計組の秀才と謳われた。
五高には大正2年10月23日に着任し、先ず女房役として意気投合の中であった当時修猷館長の小松倍一氏を引っ張り教頭に据え徐に職員の質を検討し大鉈を振るったということであり、そのため教壇を去った職員は十数人に上っている。それ以後大正10年11月9日新設の浦和高等学校長として転任するまで8年間在任して


五高校長時代の業績を眺めれば、

○七高との野球対抗戦を始めたこと。

○赤痢事件で解体、取壊したりした習学寮を・再建、整備したこと

○運動場のトラックの新設、職員室、図書館の改築、集会場の建設 等を行っている、

吉岡校長は徹頭徹尾、理の人であり、権の人であったそうで、人情には凡そ縁のないような感じの様であるが、人の頭にたってリードする才格は持ち合わせ、また規則に明るく、五高学校の不備な規則を根本的に改正している。このことは吉岡校長の業績であろう。また詩歌の作成に優れていたこともかなり有名である。

浦和高校長のあとは東京女高師校長などを歴任している。五高人物史等を参考にすれば五高では官僚的色彩が強いととかくの批評を蒙ったが、後半生では余程角が取れたのか円熟味を帯びていたといわれている。  昭和12年(1937)10月10日没

以上参考文献  五高資料履歴書、五高人物史外