五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の資料整理顛末記 2000

2010-05-31 03:38:15 | 五高の歴史
六月二十日 火 晴
今日は車通勤で三〇分で着いたので八時三十五分の開室、管財からの連絡としてNHKの職員がハーンの資料を見に来たいと言っているということあった。
生徒の綴りの冊子を取出してみる。殆どが内容を判別出来ない。台帳には総数六十九冊存在するように記載されているが、・・・・・・。毀れがひどい物はそのままで封筒の中に入れてある。どうにか判別できるものを中心に整理した。
明治二十七~三十,三十四~三十七,四十一~四十四,大正元、二、の十五,十六冊は表紙を貼ったり綴じたりしたところ冊子として格納できた。生徒綴りの表紙の題目は、転学、退学、休学、の願出、改名届、族籍変更、授業料分納願、等々を綴ってある。

NHKの職員は吉田聡デレクターと言う人であり、ハーンの生誕百五十年にあたりそのための取材であり、先方が期待している資料は一般の人々が楽しむようなものはなかろうかということであった。撮影は建物、復原教室を中心に行うといってその下見をして帰った。

文とは関係ありません

生徒綴りは紙のこわれが酷く生徒の進退を読み取ることさえ難しいが、その中から面白いと感じたものを掲げてみる。
明治三〇年四月二十三日の通知では、各尋常中学校への通牒の件として工学部の設置、土木、機械の二科で定員三十名、受験料二円、授業料一年間二十五円、教室用品十円、と通知してある。

十一月六日から十二日までの七日間、益城、阿蘇へ修学旅行が行われている。兵式体操習練とあり、計画としては大津、高森,三田井、馬見原、浜町、御船に宿泊して帰校になっている。もし六師団の演習と重なるときは逆のコースで実施され、各警察、各郡長等に通知の連絡を出し、そして終了の際には御礼状を出している。百五年も前のことであり、交通は歩くことが最大の交通機関であった。十一月四日にはその先発隊として 山田正雄と岸川太郎の二名が出発している。

その他のものとしては、後に著名になった生徒の退学は高田保馬、明治三十六年四月六日第三部を退学、第一部に再度受験し九月入学している。萩原朔太郎、明治四十一年九月第六高等学校に入学してから退学届けを出している。他の高等学校へ受験するときは学校側に通知連絡しなく黙って受験してよかったのか?