五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

旧制第五高等学校60年の要旨

2010-04-21 06:31:46 | 五高の歴史
1、剛毅木訥の精神の確立と初代校長野村彦四郎、三代目校長は嘉納治五郎、そして古武士の秋月胤永教授
明治政府は日本の将来の柱石になるべき人材を育成するための教育制度「中学校令」を19年公布した。この高等中学校令により第五高等中学校(五高の前身)は設置された。早速に20年10月に古城の県警察署跡地に仮住まいして五中は開校された。敷地を飽託郡黒髪村の龍南の地に確保し21年2月より文部省の直轄工事として文部技官山口半六・久留正道の設計・監督の下に校舎の建築に入った。1年半の歳月を要して、この熊本における最初の煉瓦造りのクイーン・アン様式の建物は翌年7月に完成し黒髪村へ移転した。初代の文部大臣森有礼は19年発足した第一高等中学校の校長であった野村彦四郎を、あえて熊本の第五高等中学校の校長として送り込んだことは、森文相の日本の教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。明治22年は全国一斉に市・町・村制が施行された年で、それまでの熊本区が熊本市に改正された。この高等中学校令で、今までの中学は尋常中学として残っていくことになった。高等中学校は文部省が直接管理とし、全国を5区に分け各区にナンバースクールを配置した。五高設置については九州各県で特に長崎・福岡とは激しい誘致合戦を行ったが、森有礼の英断により、熊本県に設置が決まったものである。
新校舎の落成は明治22年7月で、落成早々の28日深夜には熊本地区は震度6,2と言う大地震に見舞われたが、この建物には聊かの亀裂も見出せなかったので、それ以後この建物の評価が高まり、世間の評判になり修学旅行を初めとする、結構な観光対象地になった。而して翌年の23年10月10日二代目校長平山太郎のもとで落成式とともに開校式を開催した。建築に掛かった費用は10万円、財源は県の地方交付金から8万円。旧藩主細川家から1万円。残りの1万円は県下の篤志家の寄付により賄われている。敷地面積51、300坪(168、000平方)、坪あたりの単価25銭、現在の単価であれば25万円余りか?全国五区の高等中学校では最大規模の広さを誇った。当時の熊本の交通機関は馬車と徒歩の時代であり黒髪のこの構内には兎やキツネ・タヌキ等々が多数出没していたという状態であった。

2、野村彦四郎、講道館の創始者嘉納治五郎、そして秋月胤永初代校長野村彦四郎は硬骨漢で乗馬が得意だったそうで、構内の官舎から度々三里木付近まで遠乗りを楽しんでいた。そのためか乗馬部が出来たのは全国の高等中学では最初であったが、約半年後に森文相が凶刃に倒れたので、最大の理解者を失った野村校長は非職になった。2代目文相は旧幕府の軍艦奉行であった榎本武揚で校長には平山太郎が着任した。平山校長の業績としては前記の開校式の行事を行ったことであるが、在任中に卒去してしまった。 3代目校長が世に知られているに講道館の創始者、嘉納治五郎である。嘉納治五郎は柔道家と言うより教育家であり24年の秋赴任した時は若干31歳の独身校長であった。彼の来校に当たってのエピソードは鉄の柄のついたこうもり傘を引きずり出校したので出迎えた教職員・生徒を驚かせたと言う。野村彦四郎や古武士の風格があった旧幕臣会津藩の副奉行、秋月胤永等によって育まれてきた剛毅木訥の、龍南精神を五高カラーとして定着させたといえる。嘉納校長秋月胤永の精神はその後の五高生に多大の影響を与えた。二人の生活は厳格であったが日曜日には生徒の一身上の相談にも応じたと言う。嘉納校長は26年3月には文部省参事官として転出してしまった。


3、小泉八雲と夏目漱石
明治24年に松江の尋常中学からハーン(小泉八雲)が着任して手取本町の赤星晋作の家を借り日本式の神棚を作らせた。月給200円外人教師は高給でありこれは校長と同額である。五高には人力車で現在の水道町から子飼商店街の道路を通って、五高へ通っていたと思われる。この赤星晋作の家が現在の鶴屋の裏の小泉八雲旧居である。高等中学校令は27年には高等学校令に改正されて、明治27年9月以降が、世間にお馴染みであった五高、第五高等学校となったのである。30年には専門課程として五高工学部が設けられた。また34年になると創立時から長崎に設置されていた五高医学部が長崎医学専門学校として、39年には五高工学部が大津街道(現在の県道336号線)を隔てて熊本高等工業学校として分離独立した。その後の五高は帝国大学入学のための予備教育機関としての色彩をより強くして行った。
漱石(夏目漱石)が小説「坊ちゃん」の舞台である松山の尋常中学校から英語の教師として赴任したのは29年であった。月給100円これも高給であるが八雲に比べると100円も安い。昔から外国人教師は高給であった。イギリスに日本最初の在外研究員として留学するまでの約3年半を熊本で暮らした。着任したとき漱石は池田駅、現在のJR上熊本駅に降り立ち、人力車に乗って京町台を通り、新坂付近から熊本市を見下ろして町に緑が多いことにひどく感心した様子で、「熊本は森の都だ」と言ったとか、そのため漱石が熊本の「森の都」の名付親と言われている。漱石の試験は厳格なもので遠慮なく落第点は付けで、赤点をつけることで有名であったようで、寺田寅彦が親友の赤点を漱石の自宅にどうかしてくれと訪れたと言うエピ-ソードは有名である。漱石は赴任早々に端艇部の部長の委嘱を受け日清戦争での戦利品、ボートを佐世保の港で受け取り百貫港へ回航のため、吉田久太郎をメインとする生徒が引き取りに行ったが、その帰り道に宿賃、飲食代等で100円を超える赤字を造ってしまったので、生徒たちにはそれを弁済する金はなく、部長の漱石は月給全額を出して償いをしてやり即座に部長を辞任したと言う。漱石は熊本時代においては俳句の創作にいそしみ漱石生涯の俳句はその大半が熊本時代のものである。後の作家としての作品「草枕」、「二百十日」、「三四郎」は特に熊本と関係が深い。


4、七高との野球試合の顛末、習学寮にチブス発生、二人の総理池田勇人と佐藤栄作、そして五高に出来た第13臨時教員養成所
五高野球部は明治20年の創立とともに活動を始めた。これと言った活躍の歴史は残っていないが、明治38年の師走、七高の有志から野球試合の挑戦状が届き、翌39年正月武夫原でこれを迎え撃ったが14対4で大敗した。これが七高との野球戦の始まりといわれでその後この対抗戦は数年間続いた。
この間に日本は日露戦争を経て国際社会に進出し欧米の文化思想の流入等で日本を取巻く国際環境は大きく変わりこのため五高生の周辺も大きく様変わりして色々の思想がぶつかり合った。特に大正2年2月の真冬に習学寮内で発生したチブスでは生徒10人が死亡してしまったこと。4月には習学寮の伝染病は収まったかに見えたので慰霊祭を実施した。しかし10月には再びパラチブス患者、赤痢患者が続出したので、ついには責任を取った校長松浦寅三郎は依願退官し、学校側は臨時休校を行い寮生の外出禁止、習学寮の閉鎖に踏み切った。そのため学内は騒然とした。学校側は習学寮の解体処分を行い習学寮の存続さえあやぶれたが、大正4年~5年には相次いで移築したり改築したりして新習学寮を再建設し面目を一新した。
大正8年には七高との野球戦も復活し県民を沸かせた。大正15年の対抗戦で寮歌武夫原頭の歌をめぐって、鹿児島七高応援団が「武夫原頭に糞たれて、花岡山に駆け上り枯れ草取っておし拭い・・・・」と囃したので両応援団同士の乱闘事件にまで発展した。ついには以後中止のやむなきに至った。この年の五高野球部は黄金時代で全国高専野球大会においてエース高橋一(後の輸出銀行総裁)や朝日新聞社の社長になった主将廣岡知男等の活躍で、延長19回1対0で明大専門部を破り優勝を飾っている。スポーツの盛んな五高は昭和10年にはボート部が11年には水泳部が全国制覇を成している。なお、大正時代の卒業生には大臣経験者が多く大正10年卒業の佐藤栄作、大正11年卒業の池田勇人の2人の総理大臣を筆頭として挙げれば枚挙にいとまがない。第1次大戦後の大正中期から後期にかけてデモクラシーの思想が日本を風靡した。学内でも吉野作造の喧伝、河上肇の貧乏物語を生徒たちは愛読した。国内では河上肇の社会問題研究の創刊を見るに及び、9年には第1回のメーデーの開催、11年には日本共産党の創立があったので、そのため龍南健児の周囲もめまぐるしい環境の変化が起こった。学内においては大正11年5月には後藤寿夫(林房雄)・鶴和人・松延七郎等々を中心に左翼的な思想の社会科学研究会(社研)が生まれ郡築小作争議を支援した。政府は左翼思想の弾圧に乗り出した。しかし五高の社研は溝渕校長の命により大正13年11月2日の文部大臣の全国高校車検解散命令に先立ち解散させられた。その後の五高社研は非合法に活動し大正15年の市電争議にも参加した。これに対し右翼的の思想の台頭もあり徳富蘇峰、中野正剛等の国家主義精神を受け継ぐ五高東光会が江藤夏雄・納富貞雄・星子敏雄・園佛末吉等々で立田山の中腹、龍田山荘を本拠地に生まれた。五高東光会はその精神が国の政策と合致したためか当局から睨まれることもなかったので昭和25年の閉校まで存続した。

文部省は大正15年に全国の中学校の専門学科の教員を補うため「臨時教員養成所」を設置した。五高には4月1日の文部省告示第203号を以って、第13臨時養成所数学科が設置され、すぐに授業が開始された。教室は倉庫を改修して使用し、所長は五高の校長で、専任の教官はいなく、職員生徒の参考用図書は五高からの借用で、職員は五高との兼務であった。初年度の入学志願者は153名でそのうち35名を入学させている。その後数学科の募集は昭和4年に行われ、その時の受験者は300名、合格者は30名であった。昭和3年には国語漢文科が設置され、188名が志願し25名が合格した。給費生徒と言う制度が影響したのか、昭和4年の受験者300名のうち給費を希望する受験生は269名に達していた。給料貰って学校に行けるということで受験生が殺到したことが頷ける。その後は中学校の専門教員も充足されたのか、各地に出来ていた臨時教員養成所はほとんどが、昭和7年には廃止されている。

5、真珠湾攻撃と外国人教師クラウダー
昭和に入ると満州事変、5・15事件,2・26事件へと国内の戦時色は益々濃くなった。盧溝橋事件で遂に全面的な日支事変に突入すると、学内では防護団の結成、灯火管制の演習、防空演習の見学等々と軍靴の音が響いて来た。更には軍事教練の強化、勤労奉仕作業が始まり教職員、生徒は菊池の花房飛行場の整備に汗を流した。五高では15年11月10日の皇紀二千六百年の祝賀式を期して龍南学徒報告団を結成し、総務・鍛錬・国防訓練・文化・生活の各部が設けられ銃後に於ける生徒としての体制を固めて行った。昭和16年12月8日ラジオが臨時ニュースを申し上げます。「大本営発表・・・・・8日未明西太平洋上において米英軍と戦闘状態に入れリ・・・・・」と叫んだこの朝、日本はハワイ真珠湾を奇襲し太平洋戦争に突入した。この日五高では外国人教師クラウダーが午前中の授業時間に敵国人として防諜容疑で熊本県警に検挙された。その後のクラウダーの消息はようとして分からなかったが、

それから54年後の平成5年になり自分の自著伝を執筆したいので関係資料はないかと言う1通の問合せ手紙が熊本大学へ送られて来た。それを手がかりとして、かっての同僚の英語教官であった河原畑正行等の調査で、ロスアンジェルスで元気に活躍していることが判明した。

この年の学園祭のメイン行事として実行委員会の学生が「54年目の授業」のビデオを製作にロスアンジェルスヘ飛んだ。このことは同窓生を初めとして、学校内外に一大センセーションを巻き起こし新聞紙上をにぎあわした。後には当時の教え子を中心にクラウダー訪問団まで結成された。

昭和17年9月には繰り上げ卒業が実施され昭和18年になると学徒出陣の命が下り、この年の6月15日には米空軍による初めての本土空襲が、昭和18年になると通年動員体制が、開始され五高生は長崎の三菱造船、八幡製鉄、佐世保海軍工廠へと動員された。昭和18年10月13日には文科生の学徒出陣壮行会が行われ「天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動す。・・・・・・家門に立ち見送らむ父母にかく語らむ。・・・・・・あ丶我等往く、我等未だ学終えず、業成らず、されど晴れて召されるは日本男子の名誉、何ものかこれに過ぎる・・・・」の代表桟熊獅の悲壮な決意の答辞には、当時の学生の心情を推し測ることが出来る。昭和20年7月1日の新入生歓迎パテイ―の最中に米空軍による熊本市中心部の大半を焼失させる大空襲を受けたが、この五高にはその被害は及ばなかった。
次にこの日の寮務日誌を転記する。(原文のまま)
昭和20年7月1日 日曜、曇 宿直者 池田一幸、中原勇、安達隆三 
記事 1年生の新入寮者約250名 未入寮者119名内1名清永繁(1-6)は戦死せし由、
11時40分頃より翌3時頃まで敵襲あり市内の大部分及び近隣に大火災生じたるも本校無事。

6、熊本大学第五高等学校と女性の入学
日本はポツダム宣言を受託し昭和20年8月15日終戦を迎えた。五高ではこの間の3日間だけを休業とし、9月10日から早速に2学期を開始した。以下昭和20年8月15日の寮務日誌を転記する。(原文のまま)
昭和20年8月15日 水曜 晴 宿直者 藤田繁一、和田勇一 
記事 午後1時大詔について学校長よリ発表あり悲痛極まりなく暗涙を催す者あり 
寮内は静粛にして謹慎せるものの如し学校は取りあえず3日間の休養を与え外泊を禁じ
1部を以って校内の警備にあたらしむ

翌21年5月には、高等学校は3年制に復帰したが、政府は昭和22年3月には男女同権とする新教育制度、小学6年・中学3年・高校3年・大学4年のいわゆる633制の「教育基本法」「学校教育法」を制定し実施した。五高は熊本大学第五高等学校となり昭和23年を持って新入生の入学は停止された。男女共学ということで23年には60年にわたる女人禁制の学園が女性にも開放された。初めて数人の女性が入学したことは、消え行く五高に最後の花を添えた趣があった。第十四代校長河瀬嘉一は熊本大学法文学部部長も兼ねていた。

7、結語
五高卒業生の殆どが鬼籍の人であるが、壮健者でも齢は大半が80を越えている。果たして彼等にとって五高での生活、特に習学寮の生活とは何であったろうか?ある者は青春の象徴であったと述懐し、またある者は自分の人生を赤裸々に見つめる時期であったという。既に80歳も雄に過ぎているオールドパワーたちが今においても同窓会でも行えば、オールドパワーを発揮し未だに持って「おい、お前」と60余年前の五高時代そのままの姿で語り合う光景に接すると改めて旧制高等校の教育について考えさせられるものがある。それだから五高に於ける習学寮を中心とした剛毅木訥の生活は忘れられない、懐かしいとする卒業生が多いのだろう。五高60余年の歴史は波乱に満ちたものであったが、この学校から幾多の日本の柱石となった人材を輩出したことは熊本の誇りであったと思う。色紙が蒐集された開校50周年頃は五高が国立大学への登竜門としての大学予備校としての制度が確立されて来た時期ということは前に記したが、特に色紙から見えた事は、この俺を知らないか!と言う思いにかられたのも肯けた思いがした。               

平成17年12月記   五高記念館友の会   (Th)