五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

その後の五高野球部

2009-03-31 05:43:18 | 五高の歴史
昨日は五高野球部の成立を説明したがついでにその後の五高野球部の活動を紹介しよう。
五高野球部は明治20年の創立とともに活動を始めた。これと言った活躍の歴史は残っていないが、明治38年の師走、七高の有志から野球試合の挑戦状が届き、翌39年正月武夫原でこれを迎え撃ったが14対4で大敗した。これが七高との野球戦の始まりといわれでその後この対抗戦は数年間続いた。。
大正8年には七高との野球戦も復活し県民を沸かせた。大正15年の対抗戦で寮歌武夫原頭の歌をめぐって、鹿児島七高応援団が「武夫原頭に糞たれて、花岡山に駆け上り枯れ草取っておし拭い・・・・」と囃したことで、両応援団同士の乱闘事件にまで発展した。ついには以後中止のやむなきに至った。しかしこの年の五高野球部は黄金時代で全国高専野球大会においてエース高橋一(後の輸出銀行総裁)や主将廣岡知男(後の朝日新聞社社長)等の活躍で、延長19回1対0で明大専門部を破り優勝を飾っている。しかしこの事件を背景として五高野球部は廃止に追いやられている。