カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週お一言 B年 年間第二十六主日

2009年09月23日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛する皆様へ!!

断続的に雨が降り続いて、北イタリアではずいぶん寒くなりました。もう暖炉やストーブを焚いて家の中でずっと過ごすようにしています。この頃はその火を囲んで、何か食べながら雑談したりするのも楽しみのひとつです。そしてワイン用のぶどう狩りの季節が始まっています。昔のように足でぶどうを踏むのではなく、高性能の機械を使います。美味しい葡萄酒が期待されています。叉、落ち葉は地面に積み重なり山の色が薄くなって、山の稜線がくっきり見えるようになりました。イタリアでは今週から子供達の学校が始まりました。イタリアでは制服はほとんどありませんが、子供たちは本で一杯の、ランドセルより大きなリュックサックを背負い、親に送ってもらって通っています。それから、この周辺の村の教会はミサの時にいつも人でいっぱいです。それを見ながら日本でもそうなったらいいなあと思っています。そして全世界の宣教地から帰って来た仲間の神父たちと再会を楽しみました。しかし皆の白髪が増えるにつれて、病気や年齢の足跡が体のそこここに見えるようになりました。けれども皆、ほほえみながら自分の心の喜びと満足感を現わしています。皆が神の国のために働くことで、神様は皆の心の中に大きな希望を吹き込み働いたことに対して百倍以上の報いを与えてくださいます。
マルコによる福音書 9・38-48
いきなり当福音書のことばに耳を傾けようとしても、すぐには理解しにくいイエス様の表現がいくつもあります。どうしてイエス様が体から切り離す部分のことについて話すのでしょうか。イエス様が自分の弟子たち、自分に従った者たちに向かって話します。イエス様に従った者たちとはキリスト信者で作られた教会のことであり、イエス様を愛する共同体のことです。だから、イエス様の体である教会は、復活された尊いイエス様の体になっています。さて、イエス様が言われる目を取りのぞくこと、また手足を切り離すこととは、共同体の中で痛むところ、あるいは順調に動かせない部分について話しておられるのです。人間の体全体は普通に考えれば各部分は体のために働き、体全体を支えていてそのために定められています。さて、イエス様が話されたように場合によって、共同体の中には、イエス様の体にふさわしくない部分、支える部分ではない人もいます。その時、イエス様の体である教会全体を守るためにイエス様が究極的な行動を勧めています。つまりイエス様の大事な体である共同体から、一部を切り離すことです。同時に、マルコの福音書ではイエス様の寛大な心も示しています。共同体の思いに同調しない人でも、教会から離れてしまったことがあっても、イエス様の心を再び思い起こし共同体の働きに立ち戻れば、イエス様のみ胸に叶います。言い換えれば一度切り離されたその人も、イエス様の仲間であり、復活されたイエス様の体に属しています。さて、このイエス様の言葉を通して、イエス様の良い訪れを覚えて、寛大な心を持ちましょう。慈しみと憐みで満ちた教会の心はイエス様自身であり、復活されたイエス様の体そのもので、いつもその御心のように働いているべきです。
                            モヨリ神父