カトリック菊池教会 


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「今週の公教要理の錠剤」66

2013年04月05日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 復活の第二主日 2013・4・7
 「カトリック教会の教え」から
「キリストの復活」
使徒パウロがのべたように、イエス様が復活されていなければ、私たちの信仰も無駄だったはずです。イエス様が復活されたことによって、神様が私たちの中に生きておられます。キリスト信者にとってイエス様の復活は、ただ遺体が立ち上がっただけの出来ごとではありません。それだけだった場合、当時珍しい出来ごとではありませんでした。たとえば、ラザロは死んでいたのに蘇り、その後再び死にました。しかしイエス様の復活は見事な出来事として、弟子達の間に、またイエス様に従った者達の間にも新しい力、新しい情熱、今までなかった経験の覚悟として広がりました。そしてイエス様が確実に蘇られて生きておられると言う真実が世界中に知れ渡りました。このような出来ごとによって人間であるイエス様が、人間の本来のあり様を見せられました。つまり人間の死の中に新しい命の種があり、苦しみからより大きな力と喜びを得られるのです。また赦しによって、より大きな愛が得られます。イエス様の復活によって人間は目を覚まし、自分の中を見つめることによって新しい力を見出しました。イエス様と一緒に復活して生きるのです。それにイエス様が神様として、復活によってどんな人間の心にも宿るようになりました。皆と一緒に生き、歩み,働き、共におられるようになりました。このようにイエス様の弟子たちにとって、復活はとても大きな驚きの出来ごとでした。弟子達は新しい目で聖書を読むようになって、新しい心で神様、神の子であるキリスト、大きな力で人の心に働く聖霊を見いだすようになりました。弟子たちの間に広がったこのような新しい情熱は、イエス様の十字架上での死と同じように、復活の出来ごとからも生じることを前提とされています。弟子達には復活されたイエス様が生きておられて話され、触れることも出来ました。同時にイエス様が立ちあがった遺体ということではなく、神様の力によって別の方法で生きておられるものであることは明らかでした。それでこのような出来事は、イエス様に従った者達にとって普通の経験を超える大きな驚きであり、独特な経験でした。
                                  
モヨリ神父

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