「(マックとかのポップなバイトより)こういうの中原は好きだからさ」「そうなんだ」に笑った。人の性格を決め付ける大浦くんにも、それに押し切られて納得しちゃってる佐和子にも。
彼のこういう言い方が押し付けがましくならないのは、彼の態度に佐和子を好きな気持ちが溢れているのと、佐和子の方もそういう大浦くんを好き―そして彼の目に映る自分を好き―なのがはっきりしてるからですね。
・「俺たち絶対長生きするからな。あと80回は(クリスマスが)できるかもな。」
80年後、つまり一生佐和子と一緒にいるのを大前提にした発言に、彼の単純な愛情深さを感じます。
そして「長生き」発言は原作を知ってる人には悲しすぎる。知らない人でも、二人の未来をあまりに無邪気に信じてる彼の姿に何か悪い予感みたいなものを感じたんじゃないでしょうか。二人がまともに会話するのはこれが最後になってしまうんですね・・・。
・佐和子が忘れ物を取りに戻る間に電車のドアが閉まり別れ別れになる二人。これまた不吉なものを感じさせる展開。
何事か口パクで佐和子に訴える大浦くん。メイキングによれば「切磋琢磨、臥薪嘗胆」だそう。なぜこの場面でこの台詞?とも思いますが、二人の思い出の場所である塾に繋がる言葉だからでしょうか。
この場面、大浦くんは頭を掻きつつ一生懸命口を動かし、にっと全開の笑顔を見せるのですが、その仕草も表情も本当に15、6歳の少年のよう。
勝地くん本人は顔立ちは結構幼いにもかかわらず、どちらかと言えば年より落ち着いて見える方なので(実際、22、3歳になっても高校生役を演じる俳優さんが多い中、実年齢より上の役を演じることの方が多い気がする)、この無邪気さ・幼さはもっぱら演技力によるものなのですよね。すごいものだ。
・朝も暗いうちから起きだして大浦くんを待つ佐和子。窓の曇りを手で拭う仕草も健気。
そこまでしながら声をかけるでもなく、新聞を配って走り去ってゆく大浦くんを黙って見守るだけ。何ていじらしい。
・母さんと一緒に毛糸を買い物。何の説明もないが大浦くんに何か編むつもりだということ、自分も毛糸の袋を手にする母さんも誰か(まず間違いなく父さん)に何か編むんだろうとわかる。
この作品、一切の台詞なくシンプルな画面の連続だけで状況からキャラクターの心情までを伝える手法が実に巧みです。
・直ちゃんのいない時間を狙ってやってきたというヨシコ。そういや彼女は何をしてる人なんだろう。日中自由が利くあたりや雰囲気からして大学生だろうか。お中元・お歳暮の余り物を大量に持ってきたところからすると実家住まいのようですが。
・自画像をプレゼントすると決めたヨシコ。手製の品という点ではシュークリームやマフラーも変わらないんですが、これは引くよなあ。つくづく普通な贈り物をしない人だ(シュークリームは殻さえ入ってなければまともなのだが)。
まあ恋人に我が家の鶏を絞めてプレゼントしようとする直ちゃんも相当変わっているので、ある意味似たもの同士。だから案外上手くいってるのかな。
・プレゼントを包みながら明日を思う佐和子。この後の展開を思うと・・・。この頃母さんもマフラーらしきものを編んでいますが、翌日までに完成しそうに見えないなあ。
・楽しげに明日のことを語る佐和子の姿に父さんは「子供はいいなあ。次の日が楽しみになるなんて大人になるとそうそうないからな」と言う。
実際には佐和子の「明日」はとんでもないことになってしまったわけですが、父さんのこの言葉は、深く傷ついてもやがては立ち直ってゆけるだろう佐和子の、若者の精神の復元力・逞しさを予言するものでもあります。
・クリスマスの朝、今まで無言で見守るだけだった佐和子ははじめて「大浦くん」と声をかける。大浦くんの方も「おう!」と返事を。最後にわずかなりとも言葉を交わせたのがせめてもの慰めです。
自転車で遠ざかっていく大浦くんの後ろ姿をやけに長々と映すのに、このまま彼がどこか遠くへ行ってしまいそうな不吉な感じを匂わせています。夜明けの町の薄暗さもその不吉感をなお強めている。
・説明は一切抜きのままお通夜のシーンに。父さんの自殺未遂に続き、悲劇はまた雨の日に起きる。
生徒たちの断片的な会話と佐和子の暗い表情で「まさか、まさか」と思わせておいて、遺影でとどめを差す。この遺影の表情がまた・・・。そんないい顔で笑わないでくれぇ。何度も映さないでくれぇ・・・。
・焼香の順番が来ても無表情のまま動かない佐和子。回りが不審がる中すっと身体が傾いたのに、一瞬そのまま倒れるのかと思いました。
その代わりに後ろに向かって走る(逃げ出す)ところへ、大浦くんの声を聞いた気がして振り向くけれど、そこには遺影の彼が笑っているだけ・・・。
原作では正体なく泣き崩れるシーンですが、一滴の涙も見せずどこか力の抜けた表情で遺影を見つめるばかりの映画の方に、目の前の現実を受け入れられない佐和子の深い悲しみをより強く感じました。
メイキングのインタビューによると、このシーン本来は原作通り号泣するはずがきいちゃんが上手く泣けなかったので現行の形になったそう。でも父さん役の羽場さんは「あえて悲しみの描写を抑えて、後になって初めて一筋の涙を流す表現が実に良い」(概要)とかえってこの演出効果を高評価してました。私も羽場さんに同意です。
・ベッドに制服で突っ伏したまま朝を迎えた佐和子。お通夜から帰ってそのままベッドに倒れこんだのでしょう。カーテンを少し開けて下を覗いてみても、もうそこに大浦くんはいない・・・。
ここで初めて佐和子は一筋の涙を見せるのですが、その涙以上に、再びベッドに突っ伏して枕に顔を埋める動作の方に、何をする気力もわいてこないほどの大きな喪失感を感じました。
・ベッドに仰向けに横たわる佐和子の姿から暗転する数秒のシーンが入る。
ストーリーの動きにも心理描写にも何ら関係のないカットですが、このカットが挿入されたことで、それから(無気力のままに)数日が過ぎたという時間経過を自然と観客に感じ取れるようにしている。こうした間の取り方もシンプルだけど(ゆえに)巧みです。
・鳥のさえずる声・朝の光とともに目覚め身体を起こす佐和子。いかにも爽やかな朝の情景が、対比的に傷ついた佐和子の姿を強調する。
同時に、そうした周囲の明るさが、起き出せる程度に立ち直りつつある、いずれは健康に復するだろう佐和子の心の状態を象徴しているように思います。
・佐和子が階段を降りてきても食卓についても、直ちゃんは本を読み続け、父さんも黙っている。話をするのはもっぱら母さん。
男性陣が傷ついた年頃の娘にどう声をかけてよいかわからずにいるこんな場合、力を発揮するのはやはり女親ですね。母さんもそう思えばこそやってきたのでしょうし。
もしかしたらこれまでの数日も毎日、佐和子が起きて来るときに備えて顔を出していたのかもしれません。
・「死にたい人が死ななくて、死にたくない人が死んじゃうなんておかしいよ。」
いつも「いい子」だった佐和子のひどい暴言。口調は静かですが、それだけに素直な心情の吐露という感じで、なまじ責める口調よりも相手を傷つけるかも。
でも沈黙のあとに「ごめんなさい」と謝るところはやはり佐和子ですね。「変だよ。おかしいよ」と何度も繰り返すのも、彼女の抑えきれない苦しみを感じさせました。
・佐和子の暴言を誰も責めることなく、ややあって直ちゃんが「そんなこと言うほど、傷ついてんだよな」と彼女を思いやる発言をする。それもどこか泣き出しそうなトーンの声で。
家族だからこそ何も言わずに許してくれる。彼女の傷に同調して痛みを共有してくれる。そんな皆の心に触れて初めて佐和子は静かながらもしゃくりあげて泣く。
ここで感情の捌け口を見つけたことで、彼女は少しずつ再生に向かってゆきます。
・佐和子が一人部屋で膝を抱えているころ、母さんは神社にお参りをし、塾で講義中の父さんは物思わしげな表情をし(後の展開からすれば、佐和子のためにも受験を諦めて塾に就職する決意を固めてたんだろう)、直ちゃんはヨシコを「いきなり」呼び出す(これも少し後の展開を思えば、佐和子を励ましてくれるよう頼むためだったと推測されます)。
ここの場面、バックに映画のメインテーマ(?)が流れています。静かだけれど長調の穏やかなメロディーは今だ苦しんでいる佐和子の姿には不似合いなようですが、彼女が遠からず立ち直ること、彼女を支えようとする家族の現在進行形の行動の温かさを示しているものでしょう。
以前にもこの曲に合わせて家族がそれぞれ別の事をしている(直ちゃんはギターを弾き、佐和子と父さんはそれぞれに受験勉強をし、母さんは洗濯物を干している)場面がありましたが、その時はみな自由に自分のことをしていたのに対し、今回は全員が佐和子のための行動を取っているという形で、ちょうど表現を対にしてあります。
・ヨシコに佐和子を励ましてくれるよう頼んでいる(とおぼしき)直ちゃん。以前佐和子が直ちゃんに言ったように、「他人じゃないと救えないものがある」と思ったからですね。
それはヨシコの存在が自分にとっての「救世主」だったから、佐和子にとってもそうなれるだろう、という直ちゃんのヨシコに対する無条件の信頼を思わせます。
・食器を片付け、洗濯物を干しに出る佐和子。日常の雑事を普通にこなしている姿に、彼女が生活力を取り戻しているのがわかります。
そしてあんな暴言を吐いたのに、父さんと特にわだかまりもなく会話している。何の変哲もない、いつもと変わらず彼女を受け止めてくれる家族と家庭生活のあり方が、自然と佐和子を癒していったのですね。
・鶏小屋のガブリエルに「あんた、まだいたんだ」と佐和子は声をかける。
父さんの出勤時間を訝しんだこともですが、回りの物事に少しずつ目が向いてきている。彼女の回復を改めて思わせるシーン。
・佐和子を大浦くんのお母さんが訪ねてくる。原作にあるような憔悴した感じはしないが、その暖かな眼差しには大浦くんへの愛情が感じられる。
「よかった。あなたのようなお嬢さんで」という発言からすると原作と違い二人は初対面らしい。二度クラクションとともに(クラクションのみで)、佐和子と大浦くんの間に水を差すような形で登場してきた、姿を見せないまま恋の邪魔者的緊迫感を纏っていたお母さんと初めて、それも二人きりで対峙する。
大浦くんのバイトが佐和子にプレゼントを買うためだったことを思えば、お母さんとしては佐和子を逆恨みしたくなってもおかしくないところですが、お母さんはたえず穏やかに佐和子に対する。大浦くんの存在がなくなったことで、顔を合わせる以前に争いの種が消えてしまい、同じ人間を愛する者同士の共感が残ったというところでしょうか。
穿ちすぎかもしれませんが、あえて深読みした方が味わいが増すシーンかと思えたので。
・佐和子に「よかった。あなたのようなお嬢さんで。」 一瞬俯いてから涙をこらえるようにしてお母さんは言う。
ごく素朴な可愛らしさを持ち礼儀正しい佐和子は、「息子の彼女」としてはもっとも望ましいタイプだと思うので、説得力のある発言です。
・「人は時々いつもと違うことをする」で始まる佐和子のナレーション。
一人称小説を原作にしながら、この映画はごく序盤の一部分以外ナレーションを一切使ってこなかった。それがここでもう一箇所だけナレーションを用いたのは、それだけここの場面への製作側(脚本家?)の思い入れが強かったんでしょうね。
・今は亡き大浦くんの姿が、口語文体の手紙と勝地くんの台詞を通してリアルに蘇る。懐かしい「切磋琢磨」の文字も。
パンフレットの勝地くんインタビューによると、「手紙を読むシーンは、暗くなりすぎても明るくなりすぎてもいけなかったので難しかったです」とのことで、この場面の台詞回しは、大浦くんらしくも(結果的に最後の手紙になったという内容柄)軽すぎないようにと大分試行錯誤したのだそうです。
・学力の違いから二人が同じ大学に進むのは絶対無理だと確信している大浦くん。「女の子の方が頭がいいカップル」というのは佐和子の両親と同じパターン。
母さんがそうしたように佐和子が大浦くんのレベルに合わせた大学に一緒に進むというのもありだと思うんですが、それは大浦くん的には佐和子の可能性を潰すみたいで嫌なのかな。
・OLに言い寄られるとか上司に惚れられるとかの不吉な?未来予想をつらつら綴った手紙。勝手な想像をどんどん膨らませてゆくあたりの暴走っぷりがその内容もあいまって実に大浦くんらしくて、その予想が決して現実にはなりえない今となっては、微笑ましいだけにより切ない。
・自宅の机で手紙を書く大浦くんの映像。文章に困って頭を掻く仕草やその時の表情が本当に高一の、天真爛漫な少年そのもの。
勝地くんの出演作品は何本も見ていますが、どの作品でも初めて見る表情に出会う。勝地涼自身のものではない、他の役のものとも違う、そのキャラクターに固有の表情。彼がその時々で、演じる役の人間性を体現していればこそですね。
・大浦くんボイスが途切れたところで手紙のアップ。これを見ると音声は手紙の内容を適宜要約したもののよう。文末のサインが「大浦」だけなのが、転校当時の、下の名前を嫌がっていたのを思い出させる。
結局大浦くんは直接佐和子を名前で呼ぶことは出来ませんでしたね。
・手紙を読み終えた佐和子はマフラーを取り出して首に巻きつける。大浦くんの最後の文章に触れ、最後のプレゼントに触れながら、彼女は泣くのではなく微笑んでいる。「おう」と彼の口真似をするときのような柔らかな表情で。
この時彼女の心を占めているのは悲しみよりも彼への愛おしさ。この笑顔が、彼女はもう大丈夫なのだと、大浦くんのことを辛い記憶でなく美しい思い出に変えてゆけるのだと予感させてくれます。
・玄関の鍵が開いてたとはいえ、チャイムも鳴らさずに勝手に入ってくるヨシコ。このあたりの不躾さは大浦くんのお母さんの訪問とは対照的。勝手に佐和子のマフラーを取り出して首に巻いてしまうのも。
こうした傍若無人ぽく見えるヨシコだからこそ、荒療治的なあの台詞がいえるんですが。
・「家族は作るのは大変だけど、その代わりめったになくならないからさ」と語るヨシコ。
確かに中原家は父さんの自殺未遂をきっかけに傍目には崩壊とも見える様相を呈しながらも、家族がちゃんと互いを思いやり繋がっている。父さんが父さんをやめたのも、母さんが家を出て通常の形での母親の立場を放棄したのも、ある意味家族の絆を信じて子供たちに「甘えた」結果なのでしょう。だから今度は佐和子が甘える番。
こうした家族の形を見据えているヨシコ自身はどんな家庭に育った人なんでしょうね。
・ヨシコのシュークリームを食べる佐和子。久しぶりに物を食べている場面がここで登場する。
生きることに直結する食べるという行為、シュー生地のほっこりした形と生命の源である卵が材料に使われていること、カスタードクリームの暖かい黄色と甘さ。シュークリームという食べ物の全てが生きる活力を暗示しているように思います。
そしてこの夜の中原家の献立は鍋。家庭(集団で食べる)料理の代表ともいえる鍋物がこの日のメニューなのに、家族の歯車がまたちゃんと回り始めたのが象徴されている。母さんはまだ不在のままですが。
・父さんに生きててくれてよかったと思いを伝える佐和子。他人を思いやれるいつもの佐和子の完全復活。
同時に長らく「あのこと」にはっきり触れずに来ただろう中原家の中で、4年前に佐和子が伝えられなかった言葉をちゃんと伝えられた瞬間でもあるのでは。
・「何だかヨシコさんに迷惑かけちゃった。」 初めて佐和子が「小林ヨシコ」でなく「ヨシコさん」と呼ぶ。彼女がはっきりヨシコを兄の彼女として認めたのがわかります。
佐和子のおかげでこれまで命拾いしてたガブリエルですが、いよいよローストチキンの運命は目前でしょうか・・・。
・直ちゃんは机の引き出しから遺書を取り出し、ヨシコの自画像に目をやったのち破り捨てる。
これまでのいい加減な処世術を捨てる、ヨシコとも真剣に恋愛していこうという意志が、細かく何度も遺書を破く動作に表れています。
・大浦くんの霊前に手を合わせる佐和子。お通夜の席では受け入れられなかった大浦くんの死をきっちり形にして受け入れた瞬間。
制服を着ているので新学期が始まってからの出来事ですね。中三一学期の始業式の朝から始まった物語が、始業式かはわかりませんが高一三学期の始めで終わるのが、実に綺麗な幕の引き方です。
・佐和子の編んだマフラーを取り出して、「あの子すごく喜ぶと思うわ」と笑顔ながらもしみじみと呟くお母さん。
ヨシコの言うように、恋人はまた作れるけど家族はそうはいかない。若さゆえの回復力もあって次第に立ち直りつつある佐和子以上に、息子を亡くしたお母さんのダメージはより深く長く続いてゆくのかもしれません。
・弟の寛太郎登場。クワガタ柄のセーターはこんな場面なのに笑わせてくれます。「弟はクワガタのことだけ」という大浦くん発言がこんなところで生きてきました。
この寛太郎くん、眉のあたりとか少しお兄ちゃんに似ているかも。
・大浦家を出た佐和子はガレージの隅に思い出の電動自転車を見つけて足を止める。今は乗り手を失ったあの自転車も、いずれ弟くんが乗ってくれるでしょうか。
・わざわざ佐和子を追いかけてきて「だいじょうぶ、僕、大きくなるから」と宣言する寛太郎。
相手が若くて可愛いお姉さんだけに、にこりともしない(できない)愛想のなさは思春期初めの少年らしいですが、マフラーが大きすぎるかと気にしていた佐和子をフォローしにやってくるあたりの気遣いはさすが大浦くんの弟です。
そしてもう年を取ることのない兄と違い寛太郎は生きて成長しつづけてゆくこと、佐和子が「家族になりそこねた」大浦家も佐和子自身も、ゆっくりと時の流れとともに大浦くんの死を乗り越えてゆくだろうことが、彼の発言に凝縮されています(寛太郎自身にそういう意図はないでしょうが)。
この場面、寛太郎が坂道の上側に立っているため佐和子より背が高く見えるのも効いている。大浦家を坂の上の設定にしたのは、このシーンのためもあったのかも。
・大浦くんとホームで別れたときのことを思い出す佐和子は、それでも一瞬のちには笑顔に戻る。彼との思い出を幸せな記憶に変えてゆけた証。
・佐和子は寛太郎に「切磋琢磨って書ける?」と尋ねたあと、「じゃ行くね」と声をかける。
これは寛太郎にというより、大浦くんに向けて言ったように聞こえました。大浦くんの時間は止まってしまったけれど、自分は歩き続けてゆくという意志の表明ですね。
・大浦くんの言葉を思い起こし呟きながら一人歩き続ける佐和子。そこに主題歌であるMr.Childrenの「くるみ」がかぶさる。全コーラスを流しきる間、映像はほとんど佐和子が歩き続ける姿だけを映す。
このラストシーンについては賛否両論ありますが、個人的にはこれで正解だったと思います。パターン通り1コーラスのみ流して2コーラス目でスタッフロールに入る手法だと、佐和子の心情にぴったりマッチしている歌の最後部分の歌詞を本編で使えないし、何より最後を佐和子の笑顔で締めるためには、1コーラスでは短すぎる。彼女の歩く距離、笑顔が浮かぶまでの間の長さが、佐和子が大浦くんを失った痛みを乗り越えるのに必要な時間を示しているのだから。
「ミスチルのPVみたい」という批判も覚悟のうえであえてこの演出法を選んだプロデューサーの英断に拍手したいです。
・間奏部分で中原家の食卓に母さんがお皿を並べる場面が挿入される。真っ白い揃いのお皿が4枚並んだ食卓の在り様は、母さんがこの家に戻ってくることを予期させる。
ごく当たり前の(でも今まで中原家では当たり前でなかった)家族全員が揃う予定の食卓の光景に、間奏部ラストの盛り上がりが重なる。この映画の中で一番胸が熱くなった場面です。
・一人歩く佐和子の表情はやや沈んでいて足取りもゆっくりだが、何度か振り返り振り返りしながら(きいちゃんいわく、佐和子が振り向くのは大浦くんに呼ばれた気がしたからだとのこと)歩き続けるうち、表情にはうっすらと微笑みが浮かび、肩の揺れもリズミカルになってゆく。
そこへ最後の歌詞「引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上」。これがとどめという感じです。
最初「くるみ-for the Film-幸福な食卓」を聴いた時、桜井さんのエモーショナルなボーカルはこの静かな映画には合わないんじゃないかと思ったんですが、全体に淡々としたトーンの作品だからこそ最後は盛り上げて締めるのもまた良しですね。
♪おまけ♪ 以下は公開当時「Yahoo!映画」に投稿したレビューです。リアルタイムの感想ということで、見比べていただければ。
先日二回目を見て来ました。一回目はついつい原作と比較して、切られたエピソードや台詞を惜しむ気持ちが大きくなってしまったのですが、二回目は原作と切り離して映画そのものを楽しむことができました。
この映画には近年失われつつある日本的情緒が詰まっているように思えます。大浦くんを失った佐和子の悲しみを号泣芝居でなく一筋の涙と食卓での小さな嗚咽で表現し、佐和子に対する家族の思いやりも、そもそもの発端だった三年前の事件に関することもはっきりとは描かれない。
ちょっとした台詞やエピソードを注意深く拾っていくことでそれらが浮かび上がるような構成をとっている(例えばお母さんがアパートの風呂を掃除する場面と大雨にもかかわらず銭湯に出かける場面は、彼女が夫の自殺未遂を想起させる浴室を使えないこと、使ってもない浴室を掃除しないではいられないことを暗示して、三年を経てもなお塞がらない心の傷の深さ=家を離れずにいられなかった気持ちがわかるようになっている)。そこに一から十まで説明せず、「匂わす」「行間を読む」ことを良しとする感性を感じました。
それだけに一度見ただけでは見落としてしまう部分も多いと思うので、是非二度三度と見ることをお勧めします。そして、「もっと説明的に作らないと観客に理解されないのではないか」という不安は当然あっただろうに、その不安に負けることなく映画を作り上げたスタッフに拍手を贈りたいです。
今のところお客の入りはあまり良くないようですが、是非この映画にはヒットしてほしい。そして今作のような奥行きのある上品な映画が今後も続々生み出される地盤となってほしいなと思います。