対して映画『幸福な食卓』を見た場合、たとえば父さんが受験に失敗した直後の夕食の席で直ちゃんが「人間には役割ってあるよね。我が家はそれをみんな放棄してるんだよな。」と呟く場面がある。
原作でも直ちゃんはこれと似た台詞を口にしているし、そのきっかけがヨシコに「フラれた」ことなのも映画と共通しているが、急に家庭内での役割を重んじ始めた結果佐和子に「(呼び方を「直ちゃん」でなく)お兄ちゃん、もしくは兄貴に変更すべきだ」などと要求したりした直ちゃんは、ヨシコとよりが戻るなり「気持ち悪いなあ。そういう不似合いな呼び方するのやめてくれる?」と態度を一変させる。
つまり「人間には役割・・・」は原作では恋の悩みで半ノイローゼに陥った直ちゃんの一過性の世迷言に過ぎないのだが(その台詞に対する佐和子の反応も「別にこれでいいんじゃないの?母さんも一人暮らしを楽しんでるし、父さんだってバイトだけど、ちゃんと仕事してるんだし・・・・・・。誰も困ってないよ」である)、それを映画は中原家の「崩壊した」現状を表すものとして扱っている。
この一点だけを取っても、家庭内での役割-しかるべき家族の枠組みに対する原作と映画のスタンスの違いを見ることができる。
(そういえばプロのライターによる映画評で直ちゃんをニートと誤認しているものを見かけた。日中家にいるシーンが多いので誤解するのもわかる気はするが、「家族の崩壊がテーマ」とも書いていたので、ニートの方が農業従事者より以上に現代の「崩壊家庭」にふさわしいという認識が無意識に直ちゃんの職業をすりかえさせたのかもしれない)
また、映画で追加・改変されたエピソードや設定は多分に中高年好みであるように思える。
佐和子が大浦くんに語る「携帯なんかなくても、話したいことがあれば会って話せばいい」という主張や佐和子の発言には「けど」が多いというツッコミ(物事を曖昧に濁したがる現代人らしい喋り方へのやや否定的言及)は新聞の投書欄にでも載っていそうだし、一見自堕落そうなヨシコは、脱いだ靴の先をドア側に向けて揃えたり平飼い鶏の卵をわざわざ購入したりする存外「きちんとした女性」であることが示されている。
一方、削除されたエピソードを見ると、たとえば大浦くんが亡くなって少し経った頃に、佐和子が彼女を励まそうとした友人たちに連れ出される場面がある。
ここで佐和子は無理にカラオケで歌い無理に笑いながら「マキコも智恵もたぶん親友だけど、正直に不機嫌な態度をとって許されるほど、深くない。」と淡白な友人関係を表明するのだが、映画ではここのくだりは完全にカット。
さほど重要度の高いエピソードじゃないので尺の関係で切ったのだろうが、佐和子の現代っ子らしい一面を描くのを避けようとした部分もあるのではないか。
パンフレットのインタビューで脚本の長谷川さんが「この年代の少女が主人公の映画を、五十を挟んだジジイたちが作っていいのか?って(笑)。」と書いてらっしゃるが、まさにこの中高年男性の感性-保守性が、執筆当時30歳になるかどうかだった若い女性の手になる原作との相違を生んだのではないか(『卵の緒』あとがきにある瀬尾さんの生育史と先輩夫婦との関係も大いに影響しているだろう)。
そして映画版についてのレビューを見ると、これら映画独自の解釈こそが観客に大きな感動を与えたようなのである。
携帯に関する佐和子の見識に快哉を叫んでいるブログも見かけたし、私自身、鑑賞中最も心を揺すぶられたのはラストで母さんがお皿を並べる、まさにそのシーンだった。
そしてほとんどの感想が「家族がそろって食卓を囲むことの大切さ」「佐和子と大浦くんのプラトニックな初恋」を取り上げている。
この両方ともが近年では珍しくなりつつあるもの。大人しいけれど芯の強い礼儀正しい佐和子も、見た目も性格も柔弱さを微塵も感じさせない男らしく気のよい大浦くんのどちらも、今時の少年少女らしくない。
そんな二人の今時らしからぬ初々しい純愛、常に手作りの料理が並ぶ家族全員が揃う食卓・・・。
以前私はこの映画を「日本的情緒が詰まった」作品と評したのだが(こちら参照)、映画『幸福な食卓』の魅力とは要は「古き良き時代」への郷愁だったのではないか。
対する原作はむしろ木村氏が指摘するような「「ちょうど良い温度」をもって広がる関係性」」「心地よい関係」※――「近代家族」モデルが上手く機能しなくなった現代に見合った、「新しい時代」の家族像を描いている。
こう考えていくと『幸福な食卓』もまた「映画化にあたって原作とは全く別物のようになってしま」った作品なのだが、それをマイナスに評価する気持ちは不思議と起こらない。
雰囲気もキャラクターも、基本テーマの違いにもかかわらず原作のイメージを損なっていないこと、スタッフが非常な情熱と信念をもって、細部まで丁寧に作り上げた作品なのが随所から伝わってくるゆえだろう。
そしてリアルな存在感を持ってスクリーンの中で動いていた登場人物たち。
およそあらゆる要素において、原作の「ほっこり」に加えて凛としたものを感じさせる映画版は、原作とは別のベクトルを持った、甲乙付け難い名品になっているのではないだろうか。
※木村浩則『「完全な家族」から「つながりの家族」へ―『幸福な食卓』にみる家族のかたち―』(『教育』2007年6月号掲載)