さて、いよいよ京都入りです ・・と言っても、奈良からの方が便利な当尾 この「当尾」の読みですが、私も含め、多くの人は「とうの」とよんでいます でも、木津川市の 観光ガイド では「とおの」となっています そして京都府のホームページには・・ |
【浄瑠璃寺】
国宝三重塔 よく見る写真は、池を入れた構図ですね
境内は浄土式庭園(特別名勝)で、中心にある大きな池の東岸には薬師如来を安置する和様の三重塔(国宝)が 西岸には九体の阿弥陀像(国宝)を横一列に安置した本堂(国宝)があります 薬師如来は東方浄瑠璃世界に住み、現世の苦しみを除く仏であり、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主 東に薬師如来を、西に阿弥陀如来を安置することはこのような意味を持ち、東は此岸(現世)、西は彼岸とも言えます |
【吉祥庵で休憩】
【海住山寺】
五重塔(国宝)
国宝・重要文化財に指定されている、屋外の木造五重塔では室生寺に次いで 日本で二番目に小さく、初層の屋根の下に裳階と呼ぶ庇があります |
寺伝では・・ 平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろう と夢告を受けた聖武天皇が天平7年(735)、瓶原を一望におさめる海住山の中腹に建立させたとあります |
【恭仁宮跡(山城国分寺跡)】(国指定史跡)
海住山寺から瓶原盆地に下りてくると恭仁宮跡(山城国分寺跡)があります 恭仁京は疫病や戦乱にたびたび見舞われて世情不安の中、こうした事態を打開するため、天平12年(740) 聖武天皇によって造られた都ですが、4年後には廃都され、その後 宮域は大極殿を中心に山城国分寺として 再利用されることになりました 山城国分寺跡は、恭仁京の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m) の広大な寺域をもつ寺で、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています |
塔跡基壇
周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石から考えて七重塔であったと推定されます
瓶原盆地から海住山(左手前の山)を望む
【恭仁小学校】
明治6年(1873)創立の恭仁小学校は恭仁京の国指定史跡に建っています 当初の校舎は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、同11年(1936)に建て替えられました 地域住民の恭仁小学校への思い入れは強く、建て替え工事の費用の4割は寄付でまかなわれたそうです 良質な桧や杉が使われたことで、「柱を補強する筋交いを増やす程度で震度6強に耐えられる」と判断され 木造校舎が減少し続けるなか、恭仁小学校は木の香る学舎として存続しています |
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