
「ケセラセラ(Que Sera, Sera)」—一見単純な言葉ですが、その奥深さに私はいつも心惹かれます。「なるようになる」「なるようにしかならない」というこの考え方は、まさに人生の真理を映し出しているように思えます。
人生は予測不能で、私たちの思い通りにはなかなか進みません。計画を立て、努力しても、結果は必ずしも期待通りではないことがあります。そんな時、この「ケセラセラ」の精神が心の支えになります。
ただし、これは決して退廃的に何もしないという意味ではありません。日常の中で私たちは様々な努力をし、工夫を凝らします。「こうしたらいいだろう」と考え、実行に移す—それは大切なことです。
しかし長いスパンで人生を振り返った時、「結局そういうふうになっていた」と感じることが多いのではないでしょうか。だからこそ、時には楽天的に物事を捉え、肩の力を抜くことも必要なのです。
一生懸命に努力しても望む結果を得られないこともあります。そんな時、「生きる上で楽しく生きる」「あまり心配せずに生きる」「神様に任せる」というおおらかな気持ちが大切なのではないでしょうか。私はそのような意味で「ケセラセラ」という言葉が好きです。
一方で、仏教の「縁」という概念も私の心に響きます。「縁日」「縁側」「縁談」「縁起」—日本語には「縁」を使った言葉がたくさんあります。どれも私たちの生活に密着した、温かみのある言葉です。
私たちの日常生活はすべて「縁」で成り立っています。今この場所にいることも、出会った人々も、経験したことも、すべては「縁」によるものです。考えてみると、非常に深い意味を持つ概念だと感じます。
先ほどの「ケセラセラ」と仏教の「縁」は、根本的には似たような考え方かもしれません。ただ、仏教の場合は内面をより深く追求するため、少し思索的になる傾向があります。明るさと暗さで言えば、「ケセラセラ」の方が前向きで明るい印象を受けます。
結果的には同じことを指しているのでしょうが、仏教の「縁」はやや深刻に考えられがちです。しかし、どちらの概念も私たちが「縁」につながっていることを教えてくれます。
あまり深刻に考えすぎず、その場その場で自分の精一杯を尽くすこと—それが良い「縁」につながっていくのだと私は解釈しています。
人生の道筋を完全にコントロールすることはできません。しかし、「ケセラセラ」の精神と「縁」の理解を持って生きれば、もう少し肩の力を抜いて、人生の流れに身を委ねることができるのではないでしょうか。
そして、それこそが人生を楽に、そして豊かに生きる知恵なのかもしれません。明日への不安や過去への後悔ではなく、今この瞬間を大切に、ケセラセラの心で日々を過ごしていきたいものです。
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