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『寺田寅彦の科学エッセイを読む』 新型コロナパニック下の現代にも示唆を与えてくれる、寺田寅彦の慧眼を味わう

2020-07-20 06:43:00 | 本のお噂


『寺田寅彦の科学エッセイを読む』
寺田寅彦著、池内了編著、祥伝社(祥伝社黄金文庫)、2012年
(1998年に夏目書房より刊行された『椿の花に宇宙を見る 寺田寅彦ベストオブエッセイ』に、前書きと解説を加えて文庫化)


日本における日常的な現象から着想を得た、独特の物理学理論を研究した科学者であり、夏目漱石門下の文人として、科学的なものの見方と芸術的センスが融合した随筆を多数遺した寺田寅彦。寺田についての本も何冊か出しておられる、宇宙物理学者の池内了さんが、寺田の科学随筆の中から35篇を選んで解説を付したのが、本書『寺田寅彦の科学エッセイを読む』です。
寺田寅彦の随筆集といえば、岩波文庫に収められている全5巻の『寺田寅彦随筆集』があり、わたしもそれを座右に置いて愛読しているのですが、本書にはその岩波版『随筆集』には未収録の作品が11篇収められていることもあり、購入して読んでみた次第です。

茶碗の中のお湯の動きや湯気の上がりかた、温度の変化などの観察から、地球規模の気象へと話を広げていく「茶碗の湯」。混雑して遅れた電車のあとに空いた電車が来るという現象を、実地での観測に基づいて解明しようとする「電車の混雑について」。『古事記』などの記紀神話にみられる記述を、地球物理学の視点から検証した「神話と地球物理学」・・・。寺田流科学随筆の名作といえる作品が並ぶなか、わたしがとりわけお気に入りなのが「線香花火」です。
先端に点火され、しばらく静かに燃えていったのちに無数の火花をあたりに放ち、やがてまた静かに燃え尽きていく・・・そんな線香花火の挙動を細かく描写したあと、寺田はそれを音楽に喩え、こう表現します。

「荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで哀れに淋しいフィナーレに移っていく」

そして、近代になって流行り出した花火について「焔の色は美しいかもしれないが、始めからお終いまで、ただぼうぼうと無作法に燃えるばかり」と評した上で、「線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である」と述べていきます。音楽の比喩を巧みに織り込んだ語り口はさすが、さまざまな芸術にも深い造詣を持っていた寺田ならではという感じです。
さらに寺田は、線香花火に見られる現象は興味ある物理学上ならびに化学上の問題であるにもかかわらず、わが国においてはきちんと研究されることもなく放棄されている理由がわからない、とした上で、このように述べるのです。

「西洋の学者の掘り散らした跡へ、はるばる遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くもいいが、我々の足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う」

茶碗の湯や椿の花、藤の実、尺八といった、日本の風土の中における身近な存在から、地球や宇宙全体にも通じる独自の物理学を切り開いていった、寺田寅彦の面目躍如なことばだといえましょう。

本文庫版が刊行されたのは2012年のこと。その前年に起きた東日本大震災と福島第一原発事故を受け、「もう一度、現代の科学を見直すため」の「格好の道標」(いずれも、編者である池内了さんによる「まえがき」より)としての、寺田随筆の再評価の流れの中で文庫化されたものでした。
本書に収められた寺田の科学随筆には、震災や原発事故後の状況のみならず、新型コロナウイルスが引き起こしている、現在のいささかヒステリックなパニック状況にも十分通じる、と思われるような作品もありました。「蛆(うじ)の効用」と「こわいものの征服」の2篇です。
「蛆の効用」は、腐肉などに群がったり伝染病の運搬者として毛嫌いされている蛆と、その成虫である蠅が、実は動物の死骸を処理したり、化膿した傷をきれいにするという「市井の清掃係」としての側面があることを指摘します。そして、そのような側面がある蛆や蠅を絶滅させれば、そこら中で腐敗したものがいろいろな黴菌(ばいきん)を繁殖させ、それがまわりまわって人間に「仇をする」かもしれないとして、このように述べます。

「蠅が黴菌を撒き散らす。そうして我々は、知らずに年中少しずつそれらの黴菌を吸い込み呑み込んでいるために自然にそれらに対する抵抗力を我々の体中に養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会に蠅以外の媒介によって多量の黴菌を取り込んだときでも、それに堪えられるだけの資格がそなわっているのかもしれない」
「例えば、野獣も盗賊もない国で安心して野天や開け放しの家で寝ると、風邪をひいて腹をこわすかもしれない。◯を押さえると△が暴れ出す」

新型コロナに対する最低限の対策は必要だとは思いますが、不安と恐怖心から来る過剰な除菌対策やゼロリスク思考がわれわれの免疫力を脆弱にし、そのことで思わぬ副作用がもたらされる可能性を忘れてはいけないのではないか・・・ということを、この「蛆の効用」は警告しているように思えました。

もう一篇の「こわいものの征服」(岩波版『随筆集』に未収録の作品のひとつ)は、子どもの頃に雷鳴を恐れ続けたのちに電気の研究に進み、「恐ろしさの変形したものと思われる好奇心と興味」によって雷への恐怖心がなくなったのみならず、やはり子どもの頃に恐れていた地震に対する恐怖心が、地震現象の研究を手がけることで恐怖が「全く忘れたようになくなってしまった」という「ある年とった科学者」(おそらくは寺田自身)の経験談が綴られます。

「もちろん、烈震の際の危険は十分わかっているが、いかなる震度の時に、いかなる場所に、いかなる程度の危険があるかということの概念がはっきりしてしまえば、無用な恐怖と狼狽との代わりに、それぞれの場合に対する臨機の処置ということがすぐ頭の中を占領してしまうのである」

そう語った上で、「私は臆病であったおかげで、この臆病の根を絶やすことができた」という「ある年とった科学者」の話を綴ったあと、寺田はこれが子どもを教育する親たち、そして「すべての人々にとっても、『こわいもの』に対する対策の一般的指導原理を暗示するようにも思われる」と結んでいます。
連日のように新型コロナの新規感染者の増加ばかりを強調し、危険性と恐怖心を煽るようなマスコミの報道もあって、多くの人々が過剰なまでの不安と恐怖を募らせています。しかし、ただただ恐怖を募らせて狼狽するばかりの状況では、真に有効な対応や対策をとることすらできなくなるのではないでしょうか。
正確な知識で「こわいもの」の正体をしっかりと見極め、恐怖心を「征服」することで、新型コロナはもちろんさまざまな災厄に対する有効な対応ができるのだ、ということを「こわいものの征服」は今の世のわたしたちに教えてくれます。

やはり岩波版『随筆集』には未収録の作品である「蜂が団子をこしらえる話」の末尾の一文も、今のわたしの気持ちに響くものがありました。獲物である毛虫の体を噛みちぎり、団子にして巣へと持ち帰る蜂の生態を観察した寺田は、「虫のすることを見ていると実に面白い。そして感心するだけで決して腹が立たない」と述べた上で、「私は人間のすることを見ては腹ばかり立てている多くの人たちに、わずかな暇を割いて虫の世界を見物することをすすめたい」と締めくくります。
新型コロナパニックによりさまざまなことが制限され、それにより生じている抑圧的で重苦しい雰囲気の中で、多くの人が不安と苛立ちを募らせ、「自粛警察」なる醜悪な存在がはびこったりもしている現在。われわれは虫の世界をはじめとした別の世界に、もっと目を向ける必要があるのではないか・・・そう痛感させられました。

いくつもの時代を越えてもなお、読むものに随筆を読む愉しさと興趣、そして汲むべき示唆と教訓をたっぷりと詰めこんだ、寺田寅彦の慧眼が光る名科学随筆の数々。本書を含め、あらためて多くの人たちに読まれて欲しいと思います。


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