読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『猫』 なりふり構わぬ猫への愛が、古風な文章とともにたっぷり詰まった愉快な一冊

2016-11-06 09:53:20 | 本のお噂

『猫』
石田孫太郎著、河出書房新社(河出文庫)、2016年
(親本は1910年に求光閣書店より刊行、1980年に誠文堂新光社より復刻刊行)


勤務先の書店に入荷していた河出文庫の新刊の中にあった、この『猫』という本。表紙となっている、気持ち良さげに寝ている猫の写真とともに、猫好きの端くれとしてはなんだか気になるものがあり、パラパラとめくってみました。
初刊は今から106年前の1910(明治43) 年。猫の種類や性質、毛色などの基礎知識をはじめ、食事や睡眠、病気と治療法などといった日常生活全般にわたる注意点、猫の知恵や感情についての考察、猫と人間社会との関わり、猫にまつわる美談や伝説、「猫」という言葉を使った慣用句やことわざ、さらには猫を詠み込んだ俳句集・・・と、まさしく猫についてのさまざまな事項を盛り込んだ「猫百科」といった趣きの一冊。これはなんだか面白そうだわいと購入し、読んでみました。いやあ、これが確かになかなか、面白かったのであります。

冒頭の「自序」にて、著者の石田孫太郎が語った本書執筆の動機によれば、「悉(ことごと)く嘲罵憎悪で美談は実に少な」く、「残酷なる批評を受けている」猫の「冤を雪(そそ)ぐ」、つまり「汚名を晴らす」べく、本書を著したんだとか。しかしながら、著述にかかったものの知らないことも多いゆえ、「知らぬことは知らぬとして後日の研究に譲り」「猫の科学的研究を公にするものではな」い、とも記しております。
確かに本書は、猫についての正確で科学的な知識を得ようとする向きには、いささか首をひねるような箇所も散見されます。自分の飼っている3匹の猫に赤、白、青の紐やリボン、よだれかけを引き摺ったり首に巻いたりして行った「調査」をもとに、「猫は赤色を好む」と言い切っておきながら、そのすぐあとに「或いは偶然の結果かも知れぬのであるから、間違っても責めは負わないのである」なんて言っちゃってたりしてますし。

ですが、猫の魅力と素晴らしさをこれでもかと語った博物誌的な随筆として読むと、これがまことに愉しくて味わい深いのであります。たとえば、子猫の愛らしさを述べた、こんな一節。

「妙な顔をしたり、妙な手付きをしたり、上になり、下になりして、戯れ廻るところの愛らしさ実に言語に絶する。猫の子の戯れ廻るところは誠に一つの楽園である」

猫好きの方なら「うんうん、すっごくわかるわかる!」と、首が痛くなるほど頷きたくなるような一節ではないでしょうか。
また、猫の色彩や勢態について述べた節では、猫の勢態は愛着を引くのに適していると語った上で、こう続けます。

「美わしき少女(おとめ)が小猫を懐けるを見よ、いかなる猫嫌いの男も振り返って見るであろう。猫を見たのではない、乙女のみを見たというのは一場の弁疏(べんそ)に過ぎぬ」

美わしき乙女の抱いた子猫を振り返って見た猫嫌いの男の「猫を見たのではなく乙女のみを見た」という言葉は、その場限りの言い訳だ、ですと。ここまで言われると、ちょいとヒイキの引き倒しという感じがしなくもないのですが・・・。まあ、気持ちはわからなくもありませんけども。

著者・孫太郎さんの猫かわいがりっぷりが遺憾なく発揮されているのが、猫の皮と毛の用途について述べた節でしょう。
その節の冒頭で孫太郎さんは、「猫の皮と毛の用途については、直ちに猫を殺すことを意味しているから陳述すまいと思ったけれども、これまた猫の用途の一つであるから忍んで記述することにした」と断った上で、猫の皮が三味線に、毛が筆に用いられていることを述べます。そしてその節の結びには「皮や毛の精製法は我輩においてこれを記するの勇気がない。しかり猫の皮が三絃(しゃみせん)に用いられて高価に売れることを述べるさえも不快の極みである」と、まことに率直な言葉を綴っているのです。
猫についての書物を上梓する以上は仕方なしに書くけど、猫が殺されるなんて酷いことはわしゃ大嫌いじゃ、てなことを臆することなく記述するという孫太郎さんの猫かわいがりっぷりに、わたしはニャンとも、もとい、なんとも好ましいものを感じたのであります。

猫について語りつつ、卓抜なる人間批評がところどころで顔を覗かせているのも、本書の面白味のひとつでしょう。
時に猫が怒って獰猛なる一面を見せるのは、なにも猫の本性が獰猛なわけではなく、人間が怒らせるようなことをするからだ、という孫太郎さんは、以下のように自説を展開します。少々長いのですが、引用いたしましょう。

「先祖代々彼らが忿(おこ)るように仕向けておいて、また彼らが爪牙(そうが)を磨がねばならぬようにしておいて、忿りて爪牙を出せば獰猛なりとするは道理に合わぬ。則ち人間の本性が柔和である如くに獅子も猫もみな本性は柔和である。獰猛なるは忿怒(ふんど)の状態においてのみしかりである。明治の人間にこれぐらいなことを知らぬ者はないはずであるけれども、(中略)特に一言しておく次第である。爪牙を有する猫を以て猛悪なりとする人は、銃砲を以て戦争する人間を以てただちに獰悪なりとする謬見(引用者注:びゅうけん=誤った考え)を懐ける者である」

いやはや、まことにごもっともな卓見ではありますまいか。上のようなことって、「明治の人間」のみならず、平成の御代に生きるわたしたちにとっても、もっともっと知られていいことのように思いますねえ。
また、一見弱肉強食の関係にあるような、犬と猫といった異なる種類の生きものを「親友」にすることはそれほど難しいことではない、と述べたあと、こう続けます。

「弱肉強食は永久に真理であるけれども、また或る強者と或る弱者との親和も必ずなしうることであってみれば、世の中は弱者なるが故に嘆ずべきではない。いわんやその弱者もまた或る者に対しては強者たるにおいてをやである」

このくだりもまた、動物同士の関係性を超えた真理を語っているかのようで、深くふかく頷かされたのであります。

後半に収録されているのが、雑誌での連載中で孫太郎さんが亡くなったために未完となった「虎猫平太郎」。孫太郎さんの飼い猫だった「平太郎」の口を借りて、猫についての薀蓄を綴ったものです。
猫を「語り手」として設定した著作というと、本書の数年前に発表された夏目漱石の『吾輩は猫である』が直ちに思い浮かびますが、この「虎猫平太郎」では『吾輩〜』のことを、やれ「あながち猫でなくてもよいのではなかろうか」だの、やれ「俳味がどこにあるのやら解らない」などとクサしていたりして実に痛快というかなんというか。
さらには、「ねこ」の語源についての貝原益軒や荻生徂徠、賀茂真淵、新井白石といった錚々たるメンツのご高説を「国文学者なんていう者はコジツケを言う者で、我輩不学ながらおかしくなる」と一笑に付したりもしております。孫太郎さん、なかなかしたたかな御仁ですな。
この孫太郎さん、本職である養蚕研究のかたわら、猫に対する愛と情熱で猫の研究にもいそしみ、本書を著したとか。その他の著作はほとんどが養蚕関連のようですが、その中になぜか『嫉妬の研究』なる一書も。なんだかいろんなコトを研究しまくっておられた、この孫太郎さんという人物自体、けっこう興味を惹かれるものがありますねえ。

明治時代に上梓された本ということもあり、文体や言葉遣いは現代の感覚では古めかしくわかりづらいところがあるのも確かですが、それもまた本書の味わいを増してくれております。
本書を執筆していた当時には、ドイツの細菌学者コッホの提唱により、ペスト菌を媒介するネズミを駆除するために猫を飼養することが奨励されていたようで、本書にはコッホが発表した「猫を使用して鼠を駆除せしむるの注意」7か条が紹介されています(「毎戸必ず猫を飼養すべき制度を設け、時々警察官をして臨検せしむること」とか「家屋建築中に一定の制限を設け、必ず鼠の棲息する屋根裏等に猫の出入口を開かしむること」など)。
また孫太郎さんは、当時の東京市内各区の戸数とそれぞれにおける飼猫の数から割り出した「飼猫比例」の一覧を掲げて、猫とペスト病との関係を考察したりしています。こういったところにも、当時の世相が窺えたりして興味深いものがあります。

孫太郎翁の猫への愛と熱意が、なりふり構わないまでにたっぷりと詰め込まれ、読んでいて実に愉快で楽しい気分になる本書『猫』。106年の時を経て文庫として蘇ったことを、猫好きの端くれとして喜びたいと思います。
猫を読み込んだ俳句を取り上げた第九章では、小林一茶の句をはじめとして、けっこう多くの猫俳句が集められております。最後にそこから、わたしお気に入りの句を3つ挙げることにいたしましょう。

猫の尾の何うれしいぞ春の夢 賢明

爺も婆も猫も杓子も踊かな 蕪村

異見聞く耳すぼめけりねこの恋 蓼太

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