読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『鹿児島学』 知っているようでまだまだ知らなかった、鹿児島の意外な歴史と魅力をとことん深掘りした一冊

2017-12-30 19:05:43 | 本のお噂

『鹿児島学』
岩中祥史著、新潮社(新潮文庫)、2017年
(親本は2012年に草思社より刊行)


鹿児島・・・わたしの大好きな場所であります。わたしの住む宮崎県のお隣であり、小学校の修学旅行以来、幾度となく訪れている場所なのですが、桜島に代表される美しい自然や豊かな歴史ロマン、そして美味しい食べもの飲みものに対する興味と愛着は、歳を重ねるごとに増してきているように思います。
その鹿児島は、来年(といってももう間近に迫っているのですが)のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の放送が始まるということで、また盛り上がりを見せることになりそうです。ということで今回は、そんな鹿児島の歴史と風土、県民性などをとことん深掘りした一冊『鹿児島学』をご紹介いたしましょう。
著者の岩中祥史さんは、これまでにも『博多学』『札幌学』『広島学』(いずれも同じく新潮文庫に収録されています)など、日本各地の県民性についてとことん深掘りした著作を出しておられる方。本書『鹿児島学』も、文献資料の博捜に加えて、離島部を含む徹底した現地取材により、鹿児島の歴史と県民性をしっかり “学問” 的に探究していきます。

幕末から明治にかけて、近代日本の礎を築き上げてきた薩摩人ですが、彼らが実にさまざまなモノ、コトの発祥に関わっていたということを、本書で初めて知ることができました。
国歌としての「君が代」や、国旗としての「日の丸」あたりは、薩摩の歴史性を考えればわかるような気がするのですが、意外だったのは「北海道ビール」の生みの親も薩摩人だったということでした。
ビール醸造所の建設、事業化の責任者に任ぜられたのが、元薩摩藩士であった村橋久成。当初、醸造所は東京の青山に設けられる予定だったのですが、ドイツ風のビールを造るにはドイツの気候・風土に近い北海道のほうがいいと村橋が進言。かくて、北海道の開拓を進めるために導入された「屯田兵制度」(これ自体、薩摩藩の郷士制度をもとにした制度でした)による事業の一環として、初の国産ビールの製造がスタートしたといいます。その評判は上々だったそうで、本場ドイツの専門家たちからも高く評価されたとか。
また、「baseball」に「野球」という訳語をあてたのも、薩摩人である中馬庚(ちゅうまんかなえ)なる人物。明治の初めにアメリカから伝えられたばかりの頃、ベースボールは「底球」と訳されていたそうですが(「base」と「ball」それぞれの直訳?)、それでは「庭球」(テニス)とまぎらわしい上、どういうスポーツなのか伝わりにくいということで、「野球」という訳語をあてたそうな。中馬はその後も、日本で初めてとなる一般向け野球専門書を上梓するなどして野球の普及に尽力し、その功績から1970年に野球殿堂入りを果たしたのだとか。
さらには、日本において豚肉が食べられるきっかけをつくったのも、やはり薩摩人であり、紙巻きタバコの普及に大きな役割を果たした岩谷松平だったことを知って驚きました。明治時代に売り出した紙巻きタバコ「天狗煙草」の大ヒットで得た利益を社会に還元しようと、養豚事業とともに豚肉の普及・啓蒙活動を展開したのですが、当初は失敗に終わったのだとか。しかし大正時代、とくに関東大震災以降に豚肉を使ったメニューが次々生まれ、カレーライスやかつ丼に人気が出たことで豚肉の需要が高まったことで、全国に養豚ブームが波及していった、といいます。
ほかにも、JRの駅売店=キヨスクを生み出したのも元薩摩藩士だった人物ということで、薩摩人は近代日本の礎ばかりでなく、いまのわれわれの暮らしに深く根付いているモノ、コトの発祥に関わっていたということがよくわかりました。すごいぞ薩摩人。

さまざまなものを生み出し、作り上げていく才覚のみならず、薩摩人はその「やさしさ」においても歴史を動かしました。その最たる例が、遠く離れた山形県との結びつきのエピソードでしょう。
幕末の戊辰戦争のとき、旧幕府側の中心として新政府軍に最後の最後まで抵抗したのが、山形の庄内藩でした。降伏後、切腹覚悟で現れた当時の庄内藩主に対して、新政府軍の代表として対応した薩摩の黒田了介(のち清隆)は「切腹して詫びるなどとんでもない」などと語った上、庄内藩が保有する武器一切の保有も認めるという、当時としては破格の寛大な処置を施します。この黒田の対応はすべて、西郷隆盛の意向であったといいます。
西郷による一連の寛大な処遇に感動し、感謝と尊敬の念を抱いた庄内藩の人びとはたびたび西郷のもとに訪れては教えを乞い、それは『南洲翁遺訓』として今に伝えられています。また、酒田市にある「南洲神社」には、西郷の座右の銘であった「敬天愛人」の石碑や、島津家の家紋である◯に十文字をあしらった水屋などもあるのだとか。
山形との結びつきのエピソードが端的に物語るように、西郷隆盛という人物は素朴な意味での「やさしさ」が意識の根本にあったと、著者の岩中さんはいいます。同時に、西郷の素朴な「やさしさ」が、現実の政治を担っていくことの難しさも指摘しています。
鈴木亮平さんが西郷を演じる大河ドラマ『西郷どん』が、これからどのような西郷隆盛像を描いていくのか、気になるところであります。

歴史ロマンあふれる鹿児島の意外な一面も、本書は統計を引きながら明らかにしています。
鹿児島のお寺の数は、なんと47都道府県中44位という少なさ。これは明治維新の直後に行われた廃仏毀釈が、全国でもっとも徹底していたことによるもので、当時薩摩藩が支配していたわが宮崎県も、鹿児島に次いで寺院が少ないのだとか。また、国宝・重要文化財の数も極端に少なく、47都道府県中45位と最下位近くというのも驚きでした。・・・ちなみにこちらのほうの最下位は、なんとわが宮崎県でした(泣)。
そう、本書では鹿児島のお隣であり、かつて薩摩藩の支配下にあったわが宮崎との関わり合いについても、いくつか触れられております。その中でも意外だったのは、「そこそこ、適当に」を意味する「てげてげ」(大概大概)という方言についての記述でした。宮崎ではごく日常的に使われているコトバだけに、宮崎弁だと信じて疑わなかったのですが、どうやらこれも鹿児島から伝わったらしいのであります。ちょいとショック・・・。でもまあ、そこは「てげてげ」に流しとくことにいたしましょう。

本書は歴史的な面ばかりではなく、鹿児島の「いま」もつぶさに伝えています。
鹿児島市の中心街である天文館。「南九州一の繁華街」であるショッピングと飲食のメッカですが、鹿児島中央駅の駅ビル「アミュプラザ鹿児島」のいちじるしい伸長に加え、郊外型のショッピングセンターに客を奪われているというのが現状だといいます。一方で、市の南部にある宇宿(うすき)商店街は100店舗と小規模ながら、年間20回を超える多彩なイベントを開催し、地域の人はもちろん地域外の人びとも取り込もうという、実に意欲的な取り組みで効果を上げているのだとか。
わたしもこよなく愛する天文館が元気になってくれることを願いつつ、こんど鹿児島に出かけるときには宇宿の商店街も訪ねてみようかな、と思った次第です。
このほかにも、薩摩藩独自の教育制度だった「郷中(ごじゅう)教育」についての記述や、こちらもそれぞれに個性豊かな種子島や屋久島、奄美大島などの離島部の紹介、さらには欧米では温州ミカンが「satsuma」と呼ばれているというトリビアなどなど、挙げていけばキリがないくらい興味深いお話が詰まっていて、大いに楽しみながら一気に読むことができました。

お隣の県であり、これまでたびたび訪れている鹿児島ですが、まだまだ知らないことや、知っているつもりでいて実はよく知らなかった意外な歴史や奥深い魅力がある場所であることを、本書は教えてくれました。
これからは本書を手がかりにしながら、さらにディープな鹿児島の魅力にたっぷりと触れていきたいと思うわたしであります。