九州北部を襲った記録的な豪雨により、福岡と大分が甚大な被害を受けております。亡くなった方や行方不明の方が出ているほか、これを書いている8日現在も土砂崩れにより孤立状態の地域があり、いまだ被害の全容がつかみきれていないという状況にあります。
熊本と大分を襲った地震から1年あまり、またも九州を襲った自然災害(ことに大分は、地震と豪雨のダブルパンチを受けたかたちです)。つくづく、天を恨めしく思いたくなります。同じ九州に住む人間の一人としても、気持ちが締め付けられる思いがいたします。
被害に遭われたすべての地域にお住まいの皆さまに、心からお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々にお悔やみを申し上げます。そして、行方不明となっている方々が一刻も早く見つかるよう、願ってやみません。
甚大な被害の状況が伝えられる中で、被災した地域に何か支援を・・・とお考えの方も多くいらっしゃることとお察しいたします。しかし、たとえ善意からくる支援であっても、それが本当に被災した地域と人びとの役に立つとは限りません。
ファイナンシャル・プランナーでウェブメディアの編集長でもある、中嶋よしふみさんがお書きになった「九州で発生した大雨の災害で、シロウトが被災者支援をすべきではない理由。」(Yahoo!ニュース、7月7日掲載)という記事は、被災した地域と人びとに本当に役立つ支援のあり方はどうあるべきなのかを、冷静に考えさせてくれる良記事です。
中嶋さんは、何かを選ぶことは別の選択肢(とそこから得られるメリット)を捨てること、という経済学における「機会費用」という考え方を紹介し、それを被災地支援に敷衍して論じます。
災害時、輸送インフラが限られてしまっている状況で、必要なのかどうかわからない物資を送ろうとしたり、むやみにボランティアと称して現地へ行こうとすることで、結果的に役に立つ支援を邪魔してしまう可能性がある、と中嶋さんはいい、復興支援においても「機会費用」の考え方が重要であることを強調します。
続けて、メディアやSNSで「◯◯が必要」「◯◯が足りない」といった情報が拡散され、そこで挙げられていた特定の物資ばかりが被災地に集中して届く、といったことが、結果的に他の物資が届くことを邪魔してしまう、と中嶋さんはいい、そのことを工場の生産現場で使われる「ボトルネック」と「リードタイム」の考え方で説明していきます。
全国から集まってくる大量の支援物資を仕分けし、それらを被災地に送り届けることには膨大な手間がかかるため、それが制約=ボトルネックとなってしまいます。そして、現地で必要とされる物資は刻一刻と変わるため、必要な物資の要請を受けてから被災した人びとに届けるまでの時間=リードタイムを考慮せず、数日前の情報に基づいた支援をしようとすることもまた、他の支援物資の輸送の邪魔をしてしまう、と。
中嶋さんは以下のように述べます。
「この記事を書いている時点では、一般人からのボランティアや支援物資の受け入れが出来る状況ではないようだ。善意で何かをしたいという人には不快な話かもしれないが、善意が迷惑になってしまっては不本意だろう。それでも何かをしたい、というのは迷惑を顧みない自己満足に過ぎない。
自衛隊並みに自力で完結するだけの支援能力を持っていないのであれば、節約をしながら募金の開始を待つ、くらいの対応で十分だ」
中嶋さんは最後に、元防衛相の石破茂氏が、災害支援のために常設の防災省を作るべきでは?とコメントしていたことに触れ、次のように述べておられます。
「ここ数か月、国会という希少なリソースを消費して話し合われたことは国民のためになっていたのか。もし、防災省はどう作ればいいのか? 次の災害が起きる前に早く作るべきでは? という建設的な議論がなされていたら、被害の規模はもっと抑えられたのではないか。
おそらく機会費用の考え方を最も理解すべきは国会でスキャンダルを追及し、追及されていた政治家だろう」
この中嶋さんの記事は、被災した地域と人びとのためになるような支援について、あらためていろいろと考えさせてくれる、実に有益なものでした。
メディアから伝わってくる、深刻で悲惨な被害の状況を知るにつけ、とにかくなんとかしなければ、という思いに駆られることはよく理解できますし、わたしもこの数日、何もできないことにもどかしい思いを募らせてもおりました。
しかし、それがいかに善意に基づいたものであったとしても、被災した地域と人びとにとって本当に役立つものとならなければ、やはりそれは「ありがた迷惑」にしかならないということは、肝に銘じておかなければいけないなと思いました。自分のやろうとしていることは、本当に被災地のためになることなのか、それとも単なる自己満足に過ぎないのかという問いかけは、折に触れてなされる必要があるのでしょう。
個人ができることには限りがあるのですから、自分がやれないことは専門のノウハウやスキルを持つ方々や組織に任せながら、自分ができる範囲のささやかな支援(義援金や現地の産品購入など)に徹することが一番なのではないか、そう考えております。
中嶋さんが最後になさっておられた政治に対する問いかけにも、政党の党利党略や、偏狭で視野狭窄なイデオロギーで停滞するいまの政治の不幸を思い、頷きつつ溜息をつくばかりでした。
このような時こそ、被災した地域と人びとを想う「熱い心」と、本当に必要とされる支援とは何なのかを見極める「冷たい頭」を持つことが大切なのだと、中嶋さんの記事を読んで思います。
ぜひとも、多くの方々に読まれて欲しいと切に願います。
熊本と大分を襲った地震から1年あまり、またも九州を襲った自然災害(ことに大分は、地震と豪雨のダブルパンチを受けたかたちです)。つくづく、天を恨めしく思いたくなります。同じ九州に住む人間の一人としても、気持ちが締め付けられる思いがいたします。
被害に遭われたすべての地域にお住まいの皆さまに、心からお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々にお悔やみを申し上げます。そして、行方不明となっている方々が一刻も早く見つかるよう、願ってやみません。
甚大な被害の状況が伝えられる中で、被災した地域に何か支援を・・・とお考えの方も多くいらっしゃることとお察しいたします。しかし、たとえ善意からくる支援であっても、それが本当に被災した地域と人びとの役に立つとは限りません。
ファイナンシャル・プランナーでウェブメディアの編集長でもある、中嶋よしふみさんがお書きになった「九州で発生した大雨の災害で、シロウトが被災者支援をすべきではない理由。」(Yahoo!ニュース、7月7日掲載)という記事は、被災した地域と人びとに本当に役立つ支援のあり方はどうあるべきなのかを、冷静に考えさせてくれる良記事です。
中嶋さんは、何かを選ぶことは別の選択肢(とそこから得られるメリット)を捨てること、という経済学における「機会費用」という考え方を紹介し、それを被災地支援に敷衍して論じます。
災害時、輸送インフラが限られてしまっている状況で、必要なのかどうかわからない物資を送ろうとしたり、むやみにボランティアと称して現地へ行こうとすることで、結果的に役に立つ支援を邪魔してしまう可能性がある、と中嶋さんはいい、復興支援においても「機会費用」の考え方が重要であることを強調します。
続けて、メディアやSNSで「◯◯が必要」「◯◯が足りない」といった情報が拡散され、そこで挙げられていた特定の物資ばかりが被災地に集中して届く、といったことが、結果的に他の物資が届くことを邪魔してしまう、と中嶋さんはいい、そのことを工場の生産現場で使われる「ボトルネック」と「リードタイム」の考え方で説明していきます。
全国から集まってくる大量の支援物資を仕分けし、それらを被災地に送り届けることには膨大な手間がかかるため、それが制約=ボトルネックとなってしまいます。そして、現地で必要とされる物資は刻一刻と変わるため、必要な物資の要請を受けてから被災した人びとに届けるまでの時間=リードタイムを考慮せず、数日前の情報に基づいた支援をしようとすることもまた、他の支援物資の輸送の邪魔をしてしまう、と。
中嶋さんは以下のように述べます。
「この記事を書いている時点では、一般人からのボランティアや支援物資の受け入れが出来る状況ではないようだ。善意で何かをしたいという人には不快な話かもしれないが、善意が迷惑になってしまっては不本意だろう。それでも何かをしたい、というのは迷惑を顧みない自己満足に過ぎない。
自衛隊並みに自力で完結するだけの支援能力を持っていないのであれば、節約をしながら募金の開始を待つ、くらいの対応で十分だ」
中嶋さんは最後に、元防衛相の石破茂氏が、災害支援のために常設の防災省を作るべきでは?とコメントしていたことに触れ、次のように述べておられます。
「ここ数か月、国会という希少なリソースを消費して話し合われたことは国民のためになっていたのか。もし、防災省はどう作ればいいのか? 次の災害が起きる前に早く作るべきでは? という建設的な議論がなされていたら、被害の規模はもっと抑えられたのではないか。
おそらく機会費用の考え方を最も理解すべきは国会でスキャンダルを追及し、追及されていた政治家だろう」
この中嶋さんの記事は、被災した地域と人びとのためになるような支援について、あらためていろいろと考えさせてくれる、実に有益なものでした。
メディアから伝わってくる、深刻で悲惨な被害の状況を知るにつけ、とにかくなんとかしなければ、という思いに駆られることはよく理解できますし、わたしもこの数日、何もできないことにもどかしい思いを募らせてもおりました。
しかし、それがいかに善意に基づいたものであったとしても、被災した地域と人びとにとって本当に役立つものとならなければ、やはりそれは「ありがた迷惑」にしかならないということは、肝に銘じておかなければいけないなと思いました。自分のやろうとしていることは、本当に被災地のためになることなのか、それとも単なる自己満足に過ぎないのかという問いかけは、折に触れてなされる必要があるのでしょう。
個人ができることには限りがあるのですから、自分がやれないことは専門のノウハウやスキルを持つ方々や組織に任せながら、自分ができる範囲のささやかな支援(義援金や現地の産品購入など)に徹することが一番なのではないか、そう考えております。
中嶋さんが最後になさっておられた政治に対する問いかけにも、政党の党利党略や、偏狭で視野狭窄なイデオロギーで停滞するいまの政治の不幸を思い、頷きつつ溜息をつくばかりでした。
このような時こそ、被災した地域と人びとを想う「熱い心」と、本当に必要とされる支援とは何なのかを見極める「冷たい頭」を持つことが大切なのだと、中嶋さんの記事を読んで思います。
ぜひとも、多くの方々に読まれて欲しいと切に願います。