読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【閑古堂アーカイブス】没後1年•••あらためて噛み締める「小沢昭一的ことば」

2013-12-12 21:34:13 | 本のお噂
おととい、12月10日。敬愛していた小沢昭一さんが亡くなってから1年となりました。
思い出しますねえ。小沢さんが亡くなられた、というニュースを知ったときには、もう頭の中が真っ白になるような思いがいたしました。そのあと1週間くらいは、喪失感から気が抜けたようになっていましたっけ。
俳優としてのお仕事、放浪芸研究のフィールドワーク、ラジオ番組での軽妙にして巧みな語り•••いずれにも畏敬の念を抱いておりました。つくづく、惜しい方を亡くしてしまったなあ、という気持ちが、1年経ってもなお、わたくしの中にあります。
小沢さんはエッセイストとしても、数多くの著作をお出しになりました。それら著作から感じられる小沢さんのお人柄も、またすごく好きでありました。
今回は、それら小沢さんの著作から、わたくしの気持ちに響いた「小沢昭一的ことば」を、いくつかのテーマに沿って引いてみたいと思います(今回は引用がメインです•••)。
とはいえ、残念ながらすべての著作に目を通しているというわけでもございませんゆえ、わたくし閑古堂の手元にある、ごく限られた著作からのチョイスであることを、あらかじめお断り申し上げておきます。



まずは「芸」について語ったことばをいくつか。映画や舞台で演じ続けながら、あるいは芸能者を訪ねるフィールドワークを重ねながら、折にふれ「芸」について考えたことばには、味わい深いものがあります。

「笑」は常に新しく現代的なものである。笑わせる作業を続け、それが成功する限り、演者は必然的に現代に生きるのである。
『私のための芸能野史』(芸術生活社、1973年。のちに新潮文庫とちくま文庫)より。

〝芸〟というものは、元来、保守的なものである。だからこそ積み重なり深まってゆくものだと私は思っている。
「アマチュアを志す」より。『言わぬが花 小沢昭一的世界』(文藝春秋、1976年。のち文春文庫)に収録。

規範というか、規則を破るということは芸の上でものすごく必要なことなのですね。規則を破るにはね、よく、ちゃんとした規則ができた上で破れとかいうのですけど、そういうものでもないような気がしてね。破る人はもともと破る人なんだけど、破って大丈夫な人(にん)か人(にん)でないかというので決定するもので、往々にして破ってもくずれない人(にん)の人は破りたがらないのですね。それで、破ると存在すらもがたがたになっちゃうような人が破りたがっているのですがね。
江國滋さんとの対談「落語、そして志ん生」より。『言わぬが花』に収録。

私は、芸の面白さは結局のところ演者の人柄のおもしろさと決めこんでおります。つまり、芸以前の、人間としての幅とか奥ゆきとか、あるいはその人の道楽の深さとか••••••ひっくるめていえば、その人間の魅力に酔うことが、私の芸に接する楽しみなんです。
「浪花節で深い眠り」より。『芸人の肖像』(ちくま新書、2013年)に収録。

俳優は、「自分」の及ばない「他人」を演じなければならないことも多いのですが、そういう「他人」を演じ続けることで「自分」を多少はふとらせる、深めることも出来るようです。
『句あれば楽あり』(朝日新聞社、1997年。のち朝日文庫)より。

よくいるだろ、若いやつが。「こんどは役づくりがどうのこうの」って。「なにを、このー、ばか!」ってね、怒鳴りたくなる。役づくりなんてないんだよ。「読書百遍意自ずから通ず」という言葉があるけど、「稽古百遍意自ずから通ず」。なんでもいいんだよ。早く行って稽古を何回でもやればいいの。
(中略)
もう俳優はね、稽古に始まって稽古に終わるということですな。遺言だ、おれの(笑)。
北村和夫さんとの対談「芝居、この面白くて、疲れる仕事!」より。『話にさく花』(文藝春秋、1995年。のち文春文庫)に収録。


次は「遊び」についてのことば。小沢さんは芸を深める一方で、遊びやゆとり、ムダというものの持つ効用を大事にされていた方でもありました。そのような姿勢も、とても好きでした。

もともと、「遊び」の意味するものは、飲む・打つ・買うだけではありませんでした。ハンドルなどを廻すとき、その作用がすぐ機械に及ばずに、多少のゆとりのあることも「遊び」といいます。また、野球で、勝負玉を生かすために、一、二球ムダ球をほおるのを「遊び玉」などといいます。
この遊びーーゆとりやムダは、何事にも必要のようですね。人間の魅力も、ムダ、遠廻り、ゆとり、余裕、ブレなどから出てくるものであることも確かなようです。

「『遊びは芸のコヤシ』か」より。『裏みちの花』(文藝春秋、1989年。のち文春文庫)に収録。

俳句は、どんなにシリアス、深刻であっても、どこかでコトバをあそんでいる、たわむれている。別にいえば余裕がある。冷静な目で表現を客観的にし、格調の高いおどけをやっているように思えます。
「俳句と俳優」より。『裏みちの花』に収録。


最後は、「人間」について語ったことばを。俳優として、ラジオの語り手として、そしてエッセイストとして培われた観察眼は、小沢さんの人間を見る目をも養っていたのでしょうね。でも、それは人間の本質に迫りながらも、ホッとするような温かみにも満ちていました。

当節、みんな大人になり急ぐので、大型美人、本格派美人が少なくなったのではあるまいか。
長いこと女優さんの、花が咲き、しぼみ、散るのを見てきた者の意見を申そうなら、原則として花は早く咲けば早く散ります。しかも、おそく咲き出せば、コヤシがそれだけ蓄積しているためなのか、長く咲いております。お若い方にはわかってもらえますまいが、大人になり急いでロクなことはありません。いえ、〈早咲き〉が珍重された時代もありましたが、それはもう古い、今やありきたりです。
これは男のコにもいえますが、大人になり急ぐので、どうも日本列島人がコモノばかりになってきたような。美人でいえば、ウスデ美人が氾濫しすぎていやぁしませんか。

『美人諸国ばなし』(PHP研究所、1986年。のち新潮文庫)より。

人間、本当の仲よしというのは、決してお互いのすばらしいところで結びつくものでもなさそうですね。むしろ、お互い相手の欠点が分かった時に、その欠点と欠点がピタッとくっついて仲よしになる。本当の仲よしってそういうもんじゃございませんか。
「話術話芸の不徹底的研究」より。『話にさく花』(文藝春秋、1995年。のち文春文庫)に収録。

わたくしはここでキッパリと申し上げたい。笑い者になることが人間にとってダメなことだと思うことは、開発途上人の証拠である、と。つまり、笑われることは恥である、という意識はあまり上等ではないのです。調子にのってもっと言わせてもらえば、笑われまいとつっぱって生きようとするその裏側には必ず自信のなさというものがあるんですよ。自信がないと、つっぱって自分を飾る。自分を飾ろうという心根がある限り、笑いというものは生まれてこないんです。自信があって余裕を持たないと、笑いは生み出せないんですね。
本当に力があれば、笑われようが何されようがへでもない、ということなんじゃないでしょうか。

「話術話芸の不徹底的研究」より。

人間というものは、みんな面白い。それぞれがそれぞれに面白い、と思わざるを得ないのです。よく「経験豊富」なんてことを言いますが、なにも波瀾万丈だけが経験豊富なんではないのでありまして、単調な生活の中にも、深く広い経験というものがあるのでございます。
「話術話芸の不徹底的研究」より。


まだまだ引くべき「小沢昭一的ことば」はありますし、まことに狭い範囲とテーマからのチョイスではありましたが、ひとまずこのあたりにいたしましょうか。
上に引いたことばが収録された本には、現在では品切、絶版になってしまったものもいくつかあります。まことに残念であります。
とはいえ、小沢さんが残してくださった珠玉のことばの価値は、今でもまったく衰えてはいないのではないか、と強く感じております。
願わくは、これからも多くの方が「小沢昭一的ことば」に触れていっていただけたら、と思います。
不肖わたくしも、この先も折々に「小沢昭一的ことば」を繙きながら生きていきたい、と思っております。