創造

創造主とセルフイメージの世界

神の言葉

2012-05-16 12:46:57 | 福音

聖書は、単なる歴史文献でなくそこに書かれているのは創造主の語りかけであります。

旧約聖書の時代は、聖なる神は人間の外におられましたから、選ばれた祭司や預言者に接近され、時には天使を介在させてご自身の思いを語られました。従って旧約聖書の特徴は「主なる神はこう言われる」という表現に現われています。預言者や祭司が超越者なる主のみ声を聞き取って、それを伝え編纂したのです。

新約聖書になると「私は言う」という主の語りかけが神の言葉として記されていることです。創造主なる聖霊が主の内に住まわれて主と共にお語りになるので外側からでなくひとりの人物の内面から神がみ声を発せられます。主イエスの心の動きは、まさしく内住の御霊の思いと一体であります。かれは時には叫び、悲しみ、涙され、喜ばれ、感動され、そして烈火のごとく怒ることもありました。その瞬時の心の表出がそれ自体、神の言葉として福音書に記されました。

しかしこの時点でもマタイやマルコ、ルカなどの共観福音書記者にとっては、依然としてかの人、主が語られた耳から聴き取った神の声でありました。

ところが同じ福音書でもヨハネの福音書はかなり、趣を異にします。書かれた対象の事情の違いや最も後に書かれたという理由によるものでしょうが、ヨハネは自らの内に住まわれた聖霊なる神の御声に聴きつつ、追体験的に主の言葉を反芻し理解したうえで生涯に光をあてたのだと思います。

パウロ書簡やペテロ書簡では「主が語られた」という形態ではなく、直接その思いが語れてきます。

しかもそれらが同じく神の言葉なのです。つまり旧約時代、神殿の至聖所に住まわれそこから語られた神が、時至って、主イエスの中に住まわれ、そのみ口を通して語り、使徒以降、彼らの霊に住まわれ彼らの言葉とと共に語られたということです。

2000年を経て、神は現在私たちと共に私たちの内面から日々語りかけておられるということは驚くべき真理であります。客観的なロゴスとしての聖書の言葉と、内住の御霊が語られるレーマとしての神の言葉が火花を散らすように交叉する時に活ける神を生活の中で実感します。

それは超越者なる創造主が、被造物としての日常性のなかに内住されて、外面的自然的科学法則を内側から超えられる瞬間でもあります。すなわち時間と空間の中に永遠が入り込んで有限の中に閉じ込められた被造物を無限のかなたに解放されるのです。

絶望の闇を照らし出す永遠の光との邂逅は、神の言葉を読む時、あるいはそのメッセージに耳を傾けるとき、あるいは自らの非力を思い知らされて全能者の助けを求めた時、かならずや与えられるものです。

ペンテコステ(聖霊降臨日)を待つ復活節の中で、5月12日(土)福山のリーデンローズにおいて第19回備後イースターフェスティバルが開催されました。賛美はハンナ・ゴスペルとシンガーソングライターの福原タカヨシ氏、講演は「確かな希望に生かされて-尼僧からクリスチャンへ-」と言う題で藤井圭子氏、ゴスペルフラダンスはアロハ・エンジェルス(伊予キリスト教会他)が出演されました。

小児科の医師でもある藤井先生は出家をこころざして尼僧校および仏教大学専攻科で学ばれたの後も、自らの闇を脱却できずにいましたが、遂に復活の主と出会い、永遠のいのちを与えられるにいたった体験をお話しされました。

初心者の方々も多く参加されました。人生と言う時の流れの中で永遠なるお方に出会い、創造主のいのちの次元に引き上げられることはすばらしい恵みであります。第20回記念イースターフェスティバルは2013年4月6日(土)尾道駅前のしまなみ交流館「シェルネ」で開催されることになりました。

 

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