今はレント(四旬節・受難節)です。40日間の荒野での主の試みの時を覚え受難週を迎え、そして復活節
(イースター)を待ち望みます。太陽は被造物ですから、これを拝んだり崇めたりすることは偶像礼拝でありますから聖書で厳しく禁じられています。しかし私たちの住む惑星を日々照らし温めてくれる太陽の光は、しばしば創造主のシンボルあるいは比喩として語られます。
クリスマスが光の祭典と時期を同じに祭られたことや初代教会の神学者たちやニュートンやガリレオなどの物理学者たちが熱心な信仰者であったがゆえに、光の究明に多くを費やしたことからも分かります。
ところでクリスマスから受難週まで、北半球に住む私たち厳しい冬の寒さを過ごします。まことの光である創造主が、この被造物の世界に入られた時、そこは罪によってサタンの支配に陥り、神と分断された世界でした。その意味で主イエスの地上における33年間の生涯は青銅(十字架)の時代と言えます。
その光は肉体という被造物のころもをまとわれましたので、表層的な栄光は隠されたのです。
青銅で彩られた幕屋の大庭で、清い小羊が罪の清めと贖いのため血を流して殺されたように、主は私たちの罪の呪いを負われて血を流され死に渡されました。
旧約聖書に「いのちは血にある」とありますが、主の血は聖霊による神の血でありました。(使徒20:28)聖霊はその血と共に注がれました。すなわち主は創造主ご自身のいのちをわたしたちに与えるために十字架に架けられたのです。永遠のいのち(ゾーエー)です。被造物としての自然的生物的いのち(ビオス)も、人間の脳神経の働きとしての精神的いのち(プシュケー)もやがて朽ち果てます。
しかし創造主は永遠であり、Spiritとして時空を超えて存在されます。被造物としての光ではなく創造者である光が、地上を支配する闇のただなかに入られたのは失われたまことのいのちと世界を回復してくださるためでした。
それゆえに十字架上で「すべてが完了した。」主は叫ばれたのです。
さて地中深くに沈んだと思われたその光は三日目の朝、再び姿を現わされました。夜明け前の厳寒は身に答えますが、地平線の彼方から太陽が昇り始める時、まだ光線が見えなくても、太陽の放出する不可視な波長と粒子はエネルギーとして私たちを照射します。否、たとえ地球の裏側にある時でさえもその力は働いています。
主は地獄に囚われた人々さえお救いになりました。
厳しい冬の後に早春の光が輝きはじめるように、青銅の大庭の先に黄金の聖所があるようにレントの後に必ずイースターがやってきます。
今や被造物のころもを脱がれた創造主は、その永遠の光をまとわれるのです。
パウロの肉眼は、その栄光の輝きに耐えることができず三日間失明状態に陥りました。しかし彼の霊の目は覚醒され、永遠のいのちを生きる者へと変えられました。被造物としての限界を突き抜けて創造主のいのちの中に、その交わりの中に招き入れられたのです。
ヨハネ福音書に「見ないで信じる者は幸いです。」とあります。復活された主は神の光の中で全人類、全被造物を照らしておられます。私たちは兄弟ラザロの死を目撃し、しかもその腐乱した死臭のただよう中のマリヤとマルタ姉妹のような状況に遭遇するかももしれません。
これは被造物として置かれた現実であります。しかしそのただなかに創造主が立ちたもう時、いかなる絶望もそのままで終わりません。死は復活に飲み込まれるのです。
無から有を創造されるのは永遠から主の働きだからです。主がその全貌を現わされ時、全被造物は創造の新たな光の中に呼び覚まされます。
すでに主は復活されて私どもと共に歩まれている事実は、私たちの内に住まわれる聖霊の光によって明らかにされています。