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鎮守の杜から

葛木御歳神社神職が、神道についてや、日々感じたことなどを思いつくままに綴った私的なページです。

2017年08月31日 | 理ーことわり

バラバラに無秩序に起こっている出来事が、ある日突然、一つの線でつながることがあります。
なるほど!そういうことなのか。。。
そうすると様々な向きにむいていたことが、一つの方向に集約されていく。
様々な事象がクリアに見えてくる。
毎回、大変ですが、今回もようやく少し見えてきたかな。
そうして、また原点にもどるのかもしれない。
まるでコイルのように、らせん運動は行ったり来たりで、なかなか進まないけれど、気がつけば、長いトンネルのようなものの出口に向かっているのかもしれませんね。

嵐の中では羅針盤の通りには進めません。流れに身を任せて腰を低くして回避するしかありません。
しかし、そのうち穏やかに晴れるはず。
その時に遠回りでも羅針盤のさす方向へ進めば良い。
人生は長いのだ。

そして、いつかたどり着くつもりの行き先は本当は何もないのかもしれない。
でも、それでも進んできた軌跡は確かな道程なのだから、それこそが生きる目的なのだろうからと、達観してしまえば、それもまた一つの生き方なのだと思えます。

行き先を目指すだけでは、いつまでも辿り着けないもどかしさが残ります。
今歩く道こそが目的なのだと思えれば、いつ命尽きても、それはそれで、良い。
私は私なりに不器用だろうが何だろうが精一杯生きてきた。
それが生きた証になるのだからね。

信仰といふこと

2016年08月22日 | 理ーことわり
9年前の文章です。突然本殿からの奇しき風に驚いたのです。
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〔信仰といふこと〕No.185 思うこと / 2007年05月12日


信仰という言葉はなかなか使いづらい言葉です。
でも、あるとき、この言葉でしか言い表せない気持ちが内面に沸き起こったことを知るのです。

神職は皆、信仰を持っているのかと問われて、
間違いなく持っていますと答えられるかといえば、ためらいを感じます。
世襲が多く、家業として避けられないから継ぐという構図も多く、
他の宗教のように、強い信仰からこの世界に身を置く人も少ないからです。

私もある時「そうだ、神社を継ごう」と振って沸いたように思い立ちました。

その時には信仰という言葉は思いつきませんでした。
僅かに宿命かもしれないと思いましたが、
血を持たぬ私で良いのかと不安や恐れの方が強かったです。

「信仰」という言葉は、突然強いインパクトで心に沸き起こりました。

「ああ、いらっしゃるのだ」と疑いなく思えるようになったのです。

見ていてくださる。
見守っていてくださる。
導いてくださる。

祈りによって答えてくださる存在が確かに在ると確信したということでしょうか。

いつも見ていてくださる神さまがそこにいらっしゃるのなら、
私は正解と考えた事を日々成して行けばいいのだと思う。

私は迷いの中にある「人」なのだから、
いつも正解を為せるわけではないのです。

でも、そのすべてを見ていてくださる存在があるのなら、
私は恐れずに歩いていけばいいと思うのです。

どうかどうか、照らしてください。
いつも御心のおそばにいられますように。

http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/97697c167f1534396fa72cbfc2ff09d3


奇跡の幸運

2015年10月26日 | 理ーことわり
昨日は私の誕生日でした。

色んなことがありました。崖っぷちに何度立ったことか~と思いますが、絶体絶命と思っても、いつも最後にはうまく行きます。

神様に守られていると言ってくださる方もおられます。ありがたいことです。

でも、絶体絶命だからこそ、うまくいったのかもしれないと感じる事がよくあります。背水の陣は強いのですよね。
どうしてこんなに追い込まれるのか、最初は自分の何かがいけないのかも?と思いました。
でも、何度も起こると慣れてきます。
もう、人生を呪ってもわめいてもどうにもならない。開き直るしかないわけです。

その開き直りというのが強い。
誠に強いのです。

どうしてこうなったのだろう?と考えても前に進めるわけではない。
反省は大切ですが、背水の陣まで追い込まれているのですから、百回後ろを振り返ったってどうにもならないのですよ。
ここからの突破口を見つけるのみ!です。
道はどこかに繋がる。

それを実感できた人生を生きている私はとても幸運なのかもしれません。
幸運とは、不運と表裏一体なのです。
絶体絶命の不運があるから、そこから脱するという奇跡の幸運に巡り合うのです。

カフェを開く前。
一年前はどうしたらよいか見当もつかない状態で、ひたすらさまよっていました。
またもや、何度目かの崖っぷちでした。
そこから「カフェをしよう」などと、ある意味オメデタイ発想で事が進みました。
しかし、確かな手ごたえは持っていました。(何この自信?嫌な奴!…笑)

それは信じることから始まります。
自分を信じること。
信じられる自分になること。
信じたら努力はいくらでもできる。
信じられるようになるために努力するのです。


なんとかなるもんさ!

この気楽さも大切ですよ。
一方で泣くほど困惑しながら、でも、なるようにしかならないんだと達観出来たら強いです。

やっと53歳になりました。
95歳くらいまで生きたくなりました。いや、100歳かな。
そうするとまだ折り返し地点なのだ。
まだまだ楽しい事が起こる予感~

そんな事を思いながら、一方でいつ死んでもいいや!と思えるようになりました。
今、この時を大切にして、なりたい方向へ進むために努力する。
それこそが、幸せなことなんですね。

欠陥だらけの私でもいいやん。
私は神様じゃないんだから…実際欠陥だらけです。
でも、精一杯生きたいと思います。
とても前向きになれた53歳です。
これからもどうかよろしくお願いいたします。

自分を信じること

2015年05月23日 | 理ーことわり


自分を信じること。
事を成すために一番大切なことかもしれません。

そして、信じられる自分になるためにたゆまない努力を惜しまないし、より良いものを目指すのです。

どんな人も絶対不安があると思います。
盲信するわけでなないから。

不安な時は、あるべき姿を心に描いて、そこへ辿りつく道を探すのです。
障壁は回り道して回避してもOkです。回避を恐れない。
回避しても羅針盤が目的地を目指しているなら大丈夫、そこは自分を信じましょう。

また、かたくなに当初の目的通りに進む必要もありません。
状況は常に無常であり、その時々に自分がベストだと思う方向へ進めば、いつのまにかありたい状況に辿りつきます。

でも、回避に自信喪失してはいけません。
ネガティブ思考は道を誤ります。

いつも冷静にポジティブに進むこと。
そのためには、自分を信じることです。

自分の中に内包している自然の力を信じるです。

きっと自然力が助けてくれます。

*写真のシイの木は神社のご神木です^^

動かす力

2014年12月17日 | 理ーことわり
2011年11月7日の再掲です。
ものごとを動かすのはビジョンと信念なのだと思います。
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「記念すべき日 」 / 2011年11月07日

昨日は記念すべき日。
なんて大袈裟ですが、とても嬉しい日でした。

御歳神社の氏子役員会だったのですが、
11/23の新嘗祭の打ち合わせをしようということで、
氏子役員と、崇敬会正副会長、おとしだまの森倶楽部の代表が一堂に集っての会議でした。

これは、長年の念願だったのですよね~♪
なんて大袈裟ですけどね^^

とても和気あいあいと会議が進みました。
皆さんの気持ちが和やかに一つにまとまっていく空気が心地よかったです。


過疎高齢化が進む地域で、二千年の歴史を持つ神社を千年先まで残したいと思っています。
そのために、地域と地域外の人が一緒に盛り立てていく神社を夢見ていました。

まずは、ビジョンを持つこと。夢を描くことからです。
夢を描いて、それに賛同してくれる人を探します。
最初は、ネットでした。
最初に面白がって集まったのは、地域外の人たち。
でも、それだけでは千年先まで残せない。
地元に根差す事がとても大切です。

なかなか思い描く形にはならなくて、焦りとか、落胆とかを繰り返しながら、
それでも、あきらめなければ、物事は進むものです。

進むための原動力は感動すること。
感動を共有することです。
小さな感動は、人と共有することで、増幅されるものです。
感動は、プラスのエネルギーになって、伝播していきます。

マイナスエネルギーは棚上げにして、プラスエネルギーをさらに増幅させます。
出来ないことに落胆してもどうにもならないから、
出来ることを喜びとして進んでいく。

進めば、道が出来ます。
出来た道は人々の視界に入ります。
見えた道は、ダイレクトに伝わります。
心の中のビジョンは、皆の共通のビジョンになっていくのです。

一人の願いが、いつの間にか、大勢の人の共通の願いになっていきます。
そうして、願っていた物事が、現実のものになるのです。

これは奇跡ではなく、「理」なのかもしれませんね。
「理」を起こすために、私は神様に祈るのかもしれません。
正しく歩むために、正しく歩めるためにです。
その先に「神の理」があるのかもしれませんね。

一人の思いこみでは「理」にはなりません。
多くの思いを集めて紡ぐことで、物事は動くのだと感じます。
細い糸が撚り合わさって強い糸になるように…。
もちろん、そこに一本の筋が通っていることが肝要です。
「信念」でもあり、「正しいと信じること」でもあり、思いを集める「焦点」なのかもしれません。

御歳神社で行うときの「焦点」は千年続く礎を考えることです。
それは、「神を祭る」在り方を考えることでもあります。


今日は、ここまで来た事に「感動」しましょう。
その喜びをプラスエネルギーとして放出しましょう。
喜びの輪はまた広がります。

未来は常に明るいのです。
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/73f604d23618dff178ed2c51705c8b36

般若波羅蜜。コスモロジー=粘菌編^^

2014年06月09日 | 理ーことわり
先ほどの続編。こちらは南方熊楠から触発されて書きました^^
2011年2月に書いたものを再掲
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何度か書いていますが、私が南方熊楠を知ったのは、粘菌研究者だったから。

大学時代は生物学をやっていて、実はそのころから、
コスモロジー(宇宙論)への興味はあったのですが。。。

ガイアを一つの生命体として捉える考え方は、エコロジカルな観点からも面白いと思いました。
そんな興味から、専攻したのは環境生物学=英語でいえば、エコロジカルバイオロジーですね^^

その時に衝撃的に読んだのが、粘菌の生態についてでした。

コスモスは宇宙とも訳しますが、秩序とも訳します。
この、宇宙であり秩序であるという「コスモス」という言葉は実に面白いです。
地球上で、互いの生物は、ばらばらに動いているように思えます。

実際、捕食者と被食者という食物連鎖以外の部分では、全く関わりのないように見えています。
しかし、そこには秩序があるのだと、この言葉を作った人たちは
直感的に感じていたのかもしれませんね。

この、無秩序(カオス)から秩序(コスモス)への変遷を見せてくれるのが粘菌なのです。

粘菌は単細胞生物でアメーバのような生命体です。

http://research.kahaku.go.jp/botany/henkeikin/1000.html

普段は単細胞生物として、単体で粘菌アメーバとして、
あるいは鞭毛をもつ遊走細胞として生活していて、
細胞分裂をして数を増やします。

この状態が「カオス」といえます。

そこから突然赤の他人だったはずのアメーバ粘菌が接合を始めます。
単細胞のまま、大きな体になっていくのです。
たくさんのアメーバ粘菌が一つの生命体に統合されていくのです。

それだけでも驚異です。
しかしさらに驚愕の進化を遂げます。

なんと、その単細胞の大きくなった体が、根の部分、茎の部分、胞子の部分と役割分担をして
それぞれ協力して、胞子を遠くに飛ばして子孫を残すために一致団結するわけです^^

無秩序の寄せ集めにすぎなかった者同士が、突然連携を取って
秩序のあるあたかも植物のような状態になるのです。

まさにコスモスです^^

はははっ(^^;
つい、粘菌に熱くなりましたが、
「般若波羅蜜」と類似していませんか?!(私もやっぱり変人でしょうか?^^)

粘菌のような単細胞生物でも、実は、核の中にさまざまな情報を持っているのです。
それぞれ、赤の他人のように見えて、いざとなれば、情報を共有する者同士ですから、
連携が可能なわけです。

「般若波羅蜜」を粘菌になぞらえて、そこに宇宙論=コスモロジーを見たのが、
かの南方熊楠だったのかなあと思っています。

粘菌はさらに驚異の頭脳を持っています。
頭脳といっても人間の頭脳のような「頭脳」ではないのですが、
迷路の最短コースを見つける能力とか、ライフラインを一本ではなく、
いざと言う時の為の避難路も作っておける能力です^^

http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/kawaraban/39680.html

こういうのを見ると、ワクワクした高揚感に包まれるのは、
やっぱり理系女子の変人さかもしれませんがねっ^^

単細胞生物でも、このような能力を持っていることに驚きを感じます。
「般若波羅蜜」は宗教的な定義だけではなく、
物理的、科学的にも有効な「秩序」のカテゴリーの中にあるのかもしれません。

私たちは、その「コスモス=秩序」の中に生きているのです。
あたかも、大海のゆりかごに揺られる心地よさを感じるのは私だけでしょうか?(笑

自我の中にある「個」の部分の孤独感は、宇宙に自分はたった一人の
他者とは違う人間だと自覚するところにあります。

しかし、「自然の摂理=秩序」の世界の中に生きる私は、「個」の部分と別な次元で、
実は、世界とつながっているのかもしれないという安堵感に包まれます。

世界と繋がっている自分、世界の秩序の一部分である自分、
そんな視点が、私の中で、生物学のみならず、宗教的な世界観の
もとになっているのかもしれません。

共感してくださる方が居たら嬉しいです♪

http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/s/%C6%EE%CA%FD%B7%A7%C6%EF


般若波羅蜜。神社編^^

2014年06月09日 | 理ーことわり

「般若波羅蜜。神社編」2011年1月に私が書いたものを再掲します。
言葉が勝手に溢れだすように書きました^^
読んで頂ければ嬉しいです♪

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物事には道理があります。
私は「道理」こそが神様に向かう道だと思っています。
私の「神様」は自然そのもの。
自然の摂理そのものという感じでしょうか。

神道的にはそうではない部分もあるのだと思いますが、
私には、「人神」はどうもよくわからないので、
分からないことは、今は分かる必要はないと思っています。

どちらかというと、般若心経のほうが世界観は近いのかなあと思っています。
仏教では「般若波羅蜜」って言いますよね。
あの感覚~



諸橋精光さんの「般若心経絵本」という本があるのですが、
とてもわかりやすかった。

自分の心の中にも存在するし、宇宙にも万物すべてにも繋がっていて、すべてに存在する智慧。
揺るがない法則でもあり、すべてのものを育む大海のような存在。

それは、大きな大原則のようなもので、瑣末な事象に左右されたり関わったりはしません。
母なる大地=地球=宇宙=物質のすべて…でもあり、神でもあります。

日本古来の神道の世界観では、神様は万物に宿ります。

で、そう言うと、それって人間生活には何にも関係しないやん!になるんですが、
その大原則を私たちも内包しているというか、わたしたちもその一部なのです。

私たちは、それぞれ個性があるし、我を持っています。
ただ、それとは次元の違うところで存在しているので、競合するわけではありません。

その感覚が分かれば、物事はずいぶん楽になります。
「自我」に苦しむ部分を、「さもありなん!」と自分で笑えますし^^


さて、何が書きたいのか、自分でもキーの打つままですが、ここで、神社の登場^^

神社って、その内包している万物に繋がる感覚を呼び覚ます場所なんです。
心が洗われる、清められるというのは、自我の殻の内部にある、
自身が持つ自然にダイレクトに触れて、揺り覚まされるからなのです。

神様の声が聞きたい!姿が見たい!触れたい!って安易に求める世の中になりました。
そんなん、意味ないやん!と思ったりします。
だって姿が見えずとも、ちゃんと存在しているんですもの。

「般若波羅蜜」「自然の摂理」では、あまりに漠然としてつかみどころがないので、
人は等身大の存在に置き換えようとします。
その方が理解がしやすいですから。

それは決して悪いことではありません。人間はそういうものなのですから。
かく言う私も、日々の生活の中ではそうやって楽しんでいますから。

でも、やっぱりできることなら、自然の摂理に適う生き方をしたいと思います。
「理ーことわり」に通じる生き方です。


神社は、「般若波羅蜜」「自然の摂理」の大海と、それを守ってきた先人たちの智慧に満ちています。
長い長い年月、人々は一心に神に祈りを捧げて、より良い世界が訪れるように願いました。
その先人たちの厚い念も神社には籠っていて、それが何重にも社を守っています。
そこに、私たち、今を生きる人間の心も加わります。

連綿と続く祈りの継承があります。
神社ってそういう場所なんだなあと思っています。

http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/s/%C6%EE%CA%FD%B7%A7%C6%EF

虹の国

2013年12月07日 | 理ーことわり
マンデラ氏の逝去を世界中の数多くの人々が悼みました。 

「これまでの人生をアフリカの人々の闘いに捧げてきた。白人の独占支配とも、黒人の独占支配とも闘ってきた」

 「全ての人々が調和と平等な機会の下に暮らせる民主的で自由な社会という理想を抱いてきた」

「黒人や白人ら全ての南ア人が、いかなる恐怖心も抱かずに胸を張って歩けて、人間の尊厳が保障された社会を建設することを約束する。これは(多人種で構成された)『レインボー・ネーション(虹の国』だ」




凄い人ですね。

凄いところはたくさんありますが、今のギスギスした世の中と比べて、この人が凄いのは、仮想敵を作らなかったことかもしれないと思いました。

何か闘争をする時は、仮想敵がいる方が戦いやすい。わかりやすい簡単な図式にするほうが民衆を煽りやすいからです。

すり替えられることもよくあります。

マンデラ氏は、白人支配、白人だけが「悪」としなかった。
白人と黒人という安易な線引きで民衆の憎悪をぶつけることをしなかった。
敵と味方という図式にしなかった。
「白人も黒人も恐怖心を抱かず、胸を張って歩ける社会」を理想とした。
「白人の支配とも黒人の支配とも闘ってきた」
そう宣言することで、「虹の国」を目指したのですね。

この精神を見習えば、世界中の衝突や小競り合いが消えるのではないかと思います。

マンデラ氏に比べて、なんと心の狭い人が多いことでしょう。


ヒトは本来闘争本能を持つ動物だと思います。
他者より優位に立ちたいと思いますし、下位になることへの恐怖を持つ動物だと思います。

南アはその本能に勝る叡智が人々の心に響いた稀な成功だったのかもしれません。

でも、マンデラ氏が成し遂げたことなのですから、出来ない事ではないと思います。
大多数が「不可能」と思ったことでも、成し遂げられることもあるのですね。
まずは願うこと。それが力になる瞬間がきっとあるはずです。


世界中がいつか、「虹の国」になりますように祈ります。


自分を信じて、大いなる存在を信じて。

2012年12月31日 | 理ーことわり

早いものでもう今年もあと一日となりました。

新しい年を迎えることは、毎年ワクワクします。

歳旦祭はとても冷え込むようですが、こうでなくっちゃ!と思います。

ピーンと張り詰めたような澄んだ空気を肌身に直接感じることが出来るからです。

毎年、歳旦祭は一番神様を感じるお祭りです。

次はどんな表情を見せてくださいますか。今から楽しみです。

一番印象に残っているのは、初めて奉仕させて頂いた歳旦祭です。平成17年(2005)正月。

「龍脈が通る」というのは、こういうことを云うのかと思いました。

突然の突風と共に「ゴオォォー!」と大地が鳴動するような地響きのような轟音が金剛山の方向から山を伝って神社まで轟きました。あの時の震えるような心地は一生忘れないでしょう。

 

あれから8年。

本当に色々ありました。

霧の中、絶望の淵を歩いているような数年を超えられたのは、紛れもなく神様への熱い信頼だったと思います。

それは自分の存在を否定してしまう感情との闘いだったのかもしれません。

「何故?」と何度問うても答えの見つからない場所で、どんなにあがいても良くなる気配の無い状況で、絶望することと必死に闘っていたのです。

それでも私は全否定しなかった。

それは、私の中の深淵で永遠に燃える炎のような生へのエネルギーのほとばしりと、

それを向ける場所としての「神社」があったからでしょう。

この苦悶の数年で私は多くのものを身から剥いでいきました。

その時は悲壮感を持って。でも今となれば、それは私が身軽になって「自然体」になって生まれ変わる為であったのだと思えます。

この暗闇の先に一筋だけ光が見えていました。

神社のためにこの身を費やすこと。

それ以外の道はどこにも見えなかったから、私はかすかな光を目指して歩みを始めたのです。

私は神様に選ばれたのではありません。

私が神社への道を選択したのです。

 

心に誓ってからは、神社で感じる神様は何とお優しかったことか。

大きな大きな懐で私を受け入れてくださいました。

私は目に見えない神様といつも拝殿で対話していました。

私の喜びも悲しみも、嘆きも怒りも、すべて吐露しながら祈りました。

「こんなダメな私で本当にいいのですか?」

最初の頃は何度も問いました。

でも、数年を経て問うことを止めました。

「私がここに居たいからここに居るのだ。ダメだろうが情けなかろうが、今ここに居るのは他ならぬ私なのだ。私よりうまく出来る人はゴマンといるだろう。でも、今ここに居るのは私だけなのだ。ならば、私が弱音を吐いてどうするのだ。ダメだと思うなら、退場すればよい。でもこの舞台から退場すれば、私は生きていけないだろう。

…そうだ、生きているのだ。御歳神さまが私をダメだとお思いなら、とっくの昔に私は存在できなくなっているはずだ。私が生きているのなら、生きている限り、その生のエネルギーをここに注ぐのだ。それ以外に私の生きる道などありえない。それ程、私は御歳神様を深く深く信仰しているのだから。」

 

そう思えると、私は神様と二人三脚で歩いている気持ちになれました。

私は神様の手足となって働けばいいのだ。何も恐れることはない。私が順調に動ける時は神様の御意思に反していないはずだから。反していれば修正が入るでしょう。だから私は心に閃くままに、それを神様からのメッセージだと思って動けばいい。

もとより、すでに私欲など無くなってしまった。そんなちゃちなものは要らない。私が今、神社と共に歩けることが最高の幸せなのだから。

 

それにね、神様からの大きなプレゼントはすでに頂いているのです。

それは、きっと私が一所懸命がんばったご褒美だと思っています。

頑張ったよ。そして大きな喜びを手にしたよ。

感謝の気持ちでいっぱいです。

 

私が間違わずにここに来れたことを感謝します。

世の中はこんなに喜びにあふれているのです。

それはね。心の持ちようなのです。

一度きりの人生で心を鍛える時間を持てたことを感謝します。

笑顔が人を幸せにすることを知ったことを感謝します。

人を変えようとするのではなく、接し方を変えるのです。

時には急がず時間をかけて。

自己否定からは何も生まれません。

相手を否定する他人からは距離を置くことも大切です。

信じることが力に変わります。

自分を信じて、大いなる存在を信じて、その大いなる存在と自分とを結ぶきずなを信じて。

 

新しい年が幸せを感じることができる年でありますように。。。

 

 

*見守ってくださる神様だけでは辛い時は、生身のお仲間たちに力を頂きました。

だから私は笑顔でここにいられるのです。

皆様、本当にありがとうございました。

来年もどうかよろしくお願いいたします。


来たるべき流れの中で。

2012年08月28日 | 理ーことわり

仮殿遷座祭が無事終わりました。
感無量ですね。
まだ9/16に本社鎮座の遷座祭が残っていますが。

先ほどの日記に書きましたが、本当にたくさんの事が出来ました。
あり得ない思いです。

どう考えても、私の力だけではありません。

8/26のNHK大河の清盛を見ていて改めて思いました。
清盛は、やはり、厳島神社の神様の御加護があって、厳島の神様の要請に応えられたのかも?とね。
神様の強い後ろ盾があってこそ、清盛さんは事を成せたのだろうな~と思います。
厳島神社の美しい社殿が、そのことを今に伝えています。

私は、頂点に立つ人物は、結構擁護したくなります。
だって、悪役だと言われようが、頂点に立つには、並大抵の努力では適わないからです。
苦しんで悩んでそれでも必死に前に進もうとしなければ、「棚から牡丹餅」なんてありえないからです。

清盛さんには比べようがないけど、御歳神社にとって、私は、やはり手足であるわけです。
御歳神社の神様の絶大なご加護と、強い要請があったのだろうな~と思っています^^
でなければ、あり得ない事が一杯ありますもん!

最初の頃は、駆り立てられるように突っ走っていました。
逆風もなんのその!です。
だって、一番怖いのは、神様ですもの。。。笑
ある意味、熱病にかかったような状態だったかもしれません。
食欲もものすごく落ちて、数か月で8キロ体重が落ちました。
(今は、戻ってしまいましたが…笑)
ずっと興奮状態で何かに駆り立てられていたように思います。

たった一人で事を始めるのに、普通の状態では無理だったのだろうと想像します。
強い情熱はどこから起こったのか。
もちろん、私のプライドを賭けた戦いでもありましたが、
折れそうになっても折れなかったのは、神様の要請があったからだとしか思えません。

いつもね、二人三脚だったのですよ。
拝殿で常に対話しながら私は頑張っていたのです。

孤軍奮闘の時期を経て、徐々に手伝ってくれるお仲間が増えてきました。
その一人一人の方も、「ああ、神様が引き寄せて出逢わせて下さったのだなあ」と思えます。

必要な時期に必要な人が現れるからすごいです。

今は、本当に楽になりました。
相談できるお仲間が居ますものね。。


神様の要請は、今から思うとかなり具体的なのです。
だから、困る事もありました。

「瑞垣は、石はダメ、現状通り、銅板の屋根と木が良い!」とか、
「拝殿の階段は、木の階段!」とか、
「トイレメインじゃなく、憩いの場になる休憩所が必要!」とかね^^

イメージが出てきたら、それ以外は受け付けないのですもの~
でも、それは、私のわがままだと取られますからね。困ったことも時々起ります。
幾多のトラブルも経て、今は、流れるままに、私が信じることをやろうと、ようやく思えるようになりました。

今回の摂社改修も、神様のお導きとしか思えないタイミングで事が起こりました。
すごいものです。

私が死んだ後も形が残せることをたくさんできました。
何という幸せでしょうか。

「事を成すのに、たった一つ大切な事は、諦めないこと」

諦めずに信じて進めば、困難があっても、時間がかかっても成すことが出来ます。
もちろん、それは、「理に適う」ことが必須条件です。
「理に適う」ことを地道に進めれば、いつかは形にできるはず。
そう確信出来た私は、何よりも幸せ者ですね。

本当に本当に充実した人生を送る事ができることを、
神様に感謝しています。

たくさんの「素晴らしいお仲間」に出逢えたことも・・・

逆風を順風にするのは、粘り強い諦めの悪さです^^

神様が、微笑みながら、風を送ってくださいます。
努力しないところに風は吹きません。
強い意志が、大きな流れを引き寄せます。

何度も大声で泣いたけど、その涙は、それ以上の喜びに変わります。

自分の命の限り、輝けるようにこれからも進んでいきたいと思います。

いつも、見守ってくださる存在に感謝。
いつも助けてくれるお仲間に感謝です。

*写真は、遷座祭を待つ新しいお社です。

 


感慨~

2012年08月28日 | 理ーことわり

神社が、劇的に変わりました。 
こんなに多くの事が出来るとは、自分でも思っていなかった。 
ヨクガンバッタヨ、ワタシ。。。 

手水が流れたのが、2005年、4月。 
http://www.mitoshijinja.jp/topics/topics_temizu.htm 

2005年11月。屋根が落ちた旧社務所を壊した。 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/9ba64f1b5ce09c5cd2f642f7adeb507a 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/1973321396d89d9a98ef2e2783dea621 

神饌所を改修。社務所に使う。 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/d462525dc64eaf859ef55cbec9ccb2b7 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/26f3a626e1b2f01816ce72fa03b4e9d9 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/decad35e0f3c513e79f848c8f9bfa04c 

瑞垣修復。 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/s/%BF%F0%B3%C0 

2007年9月。独立~ 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/m/200708 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/97697c167f1534396fa72cbfc2ff09d3 

2008年10月。転機。 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/65713a041fe0278ed027cb33d89f20c9 

2008年11月。崇敬会募集開始。2009年4月、第一回崇敬会総会 

月次祭復活。2009年4月。 

境内に砂利を敷く。2009年4月 
御田祭り70年ぶり復活。2009年5月 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/1c79d890724a8f5e5ae80fcf5da5c63f 

第1回おとしだまの森倶楽部作業&発足式。2009年9月 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/e199a807cafe9f374b333b3db0245a1f 

2009年12月。宮司就任 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/789e1ac972055bf7ee545202423c3d16 

2010年5月。階段修復。 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/8bda8704a26e1bf96b9fb6359ee08f1c 

2010年10月。中鴨さろん&トイレができる。 
遷都1300年祭イベント。能楽と奥山登拝 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/m/201010 

2011年10月鈴奉納 
http://blog.goo.ne.jp/mitoshi7/e/73f604d23618dff178ed2c51705c8b36 

2012年9月。摂社八社改修遷座祭。 

さて、自分を鼓舞して、これからも進みます。


道理は

2012年06月08日 | 理ーことわり
道理は支配から導き出すことはできない。


神道って宗教というより「道」なんですね。
ことばのままですが。

でも、これは深い意味があると思いました。

神道は、他の宗教のように、教祖が無いのです。
決まった教義も無い。
これを以て、宗教ではないという言い方もあります。

きっと決まった道も無いのだと思います。
教祖が居て、教義があると、その先達の道の後を追っていきますが、
神道は捉われない自由さがあるように思います。

自由さ故、各自の心の持ちようが大切になります。

だからこそ、神道では、「祓え」を大切にするのですね。
「捉われない心持ちでいること」のために。。。

自然体であること、感性を磨くこと、内面を見つめること。
その清々しい心持ちで進めば、それは道になる。

気づきなのです。

己で気付くことが重要なのです。

他の宗教でもそうですが、先達に教えてもらったとしても、
各自が自分の中で「ハッと」感じられなければ、
それはただの模倣になります。
模倣するだけなら、それは心が支配を受けていることにもなります。

自分の感覚を大切にして、自分の道を歩くこと。
それが自然の理に適うかどうかをいつも確かめながら。

神は言葉を発するわけではありません。
だから、自然の理に適うかどうかを自分で判断する必要があります。
正しく判断できるためには、感覚を磨くことが大切です。

捉われない。囚われない。捕らわれない。

それは、他人からの支配だけではなく、自分自身で何かに固執しないということでもあります。

神道は、道なり。
神ながらの道を歩もうと努力することで、後ろには道ができるのです。
自然の摂理を生きようと努力を重ねるだけで、きっと道ができると思います。

テンペスト

2012年05月18日 | 理ーことわり
NHK総合で琉球版テンペストをやっています。
すっごく面白いです。
初回、2回は見逃して3回目から録画して見ています。

テンペスト(池上永一)

最近、ドラマや映画は泣くために見てるのかも~?ってくらい、よく泣きます^^


困難は人を強くするけど、涙もろくするんですね~

昨日の日記にも通じますが、
信念を持って、誇り高く諦めずに進めば、どんなに困難な道でも、やがては拓けるのだと信じてきました。
その思いは、裏切られなかった。

道は完全に閉じられたと感じることが、何度もありましたが、
それでも、歩いていけば、道は自ずと出来るのです。

信念を持って進めば、その道は、裏切らないのです。

やがて、そのすべてが幸いであったと感じる瞬間に出会えます。

感じるのは、その人の感性ですから。
幸いと感じる感性を磨いていくのですから。
必然、幸いのうちに生きていくことが出来るのです。

感受性を磨く

2012年04月02日 | 理ーことわり
悩んだり苦しんだりすることが多いのが人生ですけど、
その解決のために必死に苦しむ事って、結構やめられないのですよね。
プライドを賭けた真剣勝負なわけです。

憧れる人が居ます。
ああ、かっこいいなあ~と思える人。
それは、昨日見たライブのシンガーのように、現実の人であることもあるし、
自分の想像の中の人であることもあります。
自分が追い求める理想像かもしれません。

この10年程は、次から次へと難問が降り注いで、
魂が揺さぶられるような経験を繰り返しました。
その経験は、今となっては、とても貴重な経験だったと思えます。
「苦労は買ってでもしろ。」なんて昔の人は言いましたが、確かにそうだな~と思います。

ある人と話してて、思い当たったのですが、
多くの経験は、「気がつく」ための貴重な経験なのでしょう。

何も困ったことが無い時は、人の有難味はそれ程感じないのに、
自分が困り果てて、もうどうしようもないと嘆くような時に、助けが入ると、
心の底から感謝の念が生まれます。
「いつも感謝しなさい」って、言いますが、それは、「相手に礼をつくしなさい」という意味ですよね。
「感謝の念」は、「感謝するべき」という義務ではないのです。
心の底からの、あの震えるほどの気持ちを知らないと本当にはわからない。
真っ暗な中に光が差し込んだようなあの感動。
魂が震えるような気持ちになる時、感受性が高まったのだと思います。
それは、美しい夕焼けを見たとき、可憐な野の花を見つけた感動…そこで心が動くことでも高まります。

その当時は余裕が無かったことも、振り返れば、ああ、そういうことだったのね。と思えます。
そうして、手のひらからふーっと息を吹きかけて飛ばしてしまう。
心の中には、苦しさではなく、その後の喜びを残して…。

正しいことをしようとか、素晴らしい人間になろうとか、そんなことを思わなくても、
目の前の事に一所懸命、逃げないで対処していけば、自ずと心は磨かれるのです。
良いか悪いかなど、やってみないとわからない事が多いけれど、
一所懸命になら、いつでもできます。

感受性を磨いて、人にも物事にも敏感になれれば、
小さなことにも気づくことができます。
どうすればよいのかもわかってきます。

「器の大きい人」ってこういう人なんだろうな~と思います。

「かわいいおばあちゃんになりたい!」と思ってますが、
それってこういうことなのかもしれませんね。

記念すべき日

2011年11月07日 | 理ーことわり
昨日は記念すべき日。
なんて大袈裟ですが、とても嬉しい日でした。

御歳神社の氏子役員会だったのですが、
11/23の新嘗祭の打ち合わせをしようということで、
氏子役員と、崇敬会正副会長、おとしだまの森倶楽部の代表が一堂に集っての会議でした。

これは、長年の念願だったのですよね~♪
なんて大袈裟ですけどね^^

とても和気あいあいと会議が進みました。
皆さんの気持ちが和やかに一つにまとまっていく空気が心地よかったです。


過疎高齢化が進む地域で、二千年の歴史を持つ神社を千年先まで残したいと思っています。
そのために、地域と地域外の人が一緒に盛り立てていく神社を夢見ていました。

まずは、ビジョンを持つこと。夢を描くことからです。
夢を描いて、それに賛同してくれる人を探します。
最初は、ネットでした。
最初に面白がって集まったのは、地域外の人たち。
でも、それだけでは千年先まで残せない。
地元に根差す事がとても大切です。

なかなか思い描く形にはならなくて、焦りとか、落胆とかを繰り返しながら、
それでも、あきらめなければ、物事は進むものです。

進むための原動力は感動すること。
感動を共有することです。
小さな感動は、人と共有することで、増幅されるものです。
感動は、プラスのエネルギーになって、伝播していきます。

マイナスエネルギーは棚上げにして、プラスエネルギーをさらに増幅させます。
出来ないことに落胆してもどうにもならないから、
出来ることを喜びとして進んでいく。

進めば、道が出来ます。
出来た道は人々の視界に入ります。
見えた道は、ダイレクトに伝わります。
心の中のビジョンは、皆の共通のビジョンになっていくのです。

一人の願いが、いつの間にか、大勢の人の共通の願いになっていきます。
そうして、願っていた物事が、現実のものになるのです。

これは奇跡ではなく、「理」なのかもしれませんね。
「理」を起こすために、私は神様に祈るのかもしれません。
正しく歩むために、正しく歩めるためにです。
その先に「神の理」があるのかもしれませんね。

一人の思いこみでは「理」にはなりません。
多くの思いを集めて紡ぐことで、物事は動くのだと感じます。
細い糸が撚り合わさって強い糸になるように…。
もちろん、そこに一本の筋が通っていることが肝要です。
「信念」でもあり、「正しいと信じること」でもあり、思いを集める「焦点」なのかもしれません。

御歳神社で行うときの「焦点」は千年続く礎を考えることです。
それは、「神を祭る」在り方を考えることでもあります。


今日は、ここまで来た事に「感動」しましょう。
その喜びをプラスエネルギーとして放出しましょう。
喜びの輪はまた広がります。

未来は常に明るいのです。

ああ、新嘗祭が楽しみです♪