ことわりを 屈めず写す とほつ川
翠雨を祈る 鏡なりけり
玉置神社のブログを読んで、友人が和歌を返してくれました。
十津川は「遠つ川」なのかなあと思いました。
遠つ国は神の国です。
此処から南へ下ると、ああ、神々の国なのかと思えます。
迷うことが時々あります。
選択肢があって選ぶ時、
自分が決断を下す時の根拠をどこに据えるか。
さて、自分の考え方で良いのだろうか。
人はそれぞれ、考えも様々です。
それにあまりにも左右され過ぎると、進むべき道筋が見えなくなります。
方向性を決める時に、すとんと落としこむための指針となるもの。。。
それが「ことわり=理」
「自然の摂理」に合致しているか。という観点です。
自分の考えを変えることはあっても、
「ことわり=理」を曲げることはできないのですよ。
神を意識して祈る時、その祈りは、自分の心を現わします。
純粋な気持ち。卑屈にならず、自然体で、心の奥を神鏡に写す。
そうか。
判断に迷う必要はないのですよね。
うまくやろうと思う必要もないのです。
ことわりを曲げずにその方向へ進めば、必ず道は拓けます。
それは、「信念」という強い力に守られているからです。
人は神ではないのですから、間違うかもしれません。
でも、その時に自分の信念のまま、自然の摂理と信じて、
おごらず、卑屈にならずに進めば、後悔することはありません。
感性を磨くこと、神=自然の摂理へと通じる道を求めること。
より自然体に。より柔らかく、風のままに。
世の中は喜びに充ち溢れています。
感じれば、それは自ずと姿を現します。
私たちは、自然の中で、人々の間で、神を感じて、
歓喜することができるのです。
祈りとは、願いではなく、あふれる歓喜に対する感謝の心なのです。
神様は常に身近にいらっしゃいます。
同調することができます。
私たちは誰もが、歓喜を感じることができるのです。
翠雨を祈る 鏡なりけり
玉置神社のブログを読んで、友人が和歌を返してくれました。
十津川は「遠つ川」なのかなあと思いました。
遠つ国は神の国です。
此処から南へ下ると、ああ、神々の国なのかと思えます。
迷うことが時々あります。
選択肢があって選ぶ時、
自分が決断を下す時の根拠をどこに据えるか。
さて、自分の考え方で良いのだろうか。
人はそれぞれ、考えも様々です。
それにあまりにも左右され過ぎると、進むべき道筋が見えなくなります。
方向性を決める時に、すとんと落としこむための指針となるもの。。。
それが「ことわり=理」
「自然の摂理」に合致しているか。という観点です。
自分の考えを変えることはあっても、
「ことわり=理」を曲げることはできないのですよ。
神を意識して祈る時、その祈りは、自分の心を現わします。
純粋な気持ち。卑屈にならず、自然体で、心の奥を神鏡に写す。
そうか。
判断に迷う必要はないのですよね。
うまくやろうと思う必要もないのです。
ことわりを曲げずにその方向へ進めば、必ず道は拓けます。
それは、「信念」という強い力に守られているからです。
人は神ではないのですから、間違うかもしれません。
でも、その時に自分の信念のまま、自然の摂理と信じて、
おごらず、卑屈にならずに進めば、後悔することはありません。
感性を磨くこと、神=自然の摂理へと通じる道を求めること。
より自然体に。より柔らかく、風のままに。
世の中は喜びに充ち溢れています。
感じれば、それは自ずと姿を現します。
私たちは、自然の中で、人々の間で、神を感じて、
歓喜することができるのです。
祈りとは、願いではなく、あふれる歓喜に対する感謝の心なのです。
神様は常に身近にいらっしゃいます。
同調することができます。
私たちは誰もが、歓喜を感じることができるのです。