物事には道理があります。
私は「道理」こそが神様に向かう道だと思っています。
私の「神様」は自然そのもの。
自然の摂理そのものという感じでしょうか。
神道的にはそうではない部分もあるのだと思いますが、
私には、「人神」はどうもよくわからないので、
分からないことは、今は分かる必要はないと思っています。
どちらかというと、般若心経のほうが世界観は近いのかなあと思っています。
仏教では「般若波羅蜜」って言いますよね。
あの感覚~
諸橋精光さんの「般若心経絵本」という本があるのですが、
とてもわかりやすかった。
自分の心の中にも存在するし、宇宙にも万物すべてにも繋がっていて、すべてに存在する智慧。
揺るがない法則でもあり、すべてのものを育む大海のような存在。
それは、大きな大原則のようなもので、瑣末な事象に左右されたり関わったりはしません。
母なる大地=地球=宇宙=物質のすべて…でもあり、神でもあります。
日本古来の神道の世界観では、神様は万物に宿ります。
で、そう言うと、それって人間生活には何にも関係しないやん!になるんですが、
その大原則を私たちも内包しているというか、わたしたちもその一部なのです。
私たちは、それぞれ個性があるし、我を持っています。
ただ、それとは次元の違うところで存在しているので、競合するわけではありません。
その感覚が分かれば、物事はずいぶん楽になります。
「自我」に苦しむ部分を、「さもありなん!」と自分で笑えますし^^
さて、何が書きたいのか、自分でもキーの打つままですが、ここで、神社の登場^^
神社って、その内包している万物に繋がる感覚を呼び覚ます場所なんです。
心が洗われる、清められるというのは、自我の殻の内部にある、
自身が持つ自然にダイレクトに触れて、揺り覚まされるからなのです。
神様の声が聞きたい!姿が見たい!触れたい!って安易に求める世の中になりました。
そんなん、意味ないやん!と思ったりします。
だって姿が見えずとも、ちゃんと存在しているんですもの。
「般若波羅蜜」「自然の摂理」では、あまりに漠然としてつかみどころがないので、
人は等身大の存在に置き換えようとします。
その方が理解がしやすいですから。
それは決して悪いことではありません。人間はそういうものなのですから。
かく言う私も、日々の生活の中ではそうやって楽しんでいますから。
でも、やっぱりできることなら、自然の摂理に適う生き方をしたいと思います。
「理ーことわり」に通じる生き方です。
神社は、「般若波羅蜜」「自然の摂理」の大海と、それを守ってきた先人たちの智慧に満ちています。
長い長い年月、人々は一心に神に祈りを捧げて、より良い世界が訪れるように願いました。
その先人たちの厚い念も神社には籠っていて、それが何重にも社を守っています。
そこに、私たち、今を生きる人間の心も加わります。
連綿と続く祈りの継承があります。
神社ってそういう場所なんだなあと思っています。