鎮守の杜から
葛木御歳神社神職が、神道についてや、日々感じたことなどを思いつくままに綴った私的なページです。
 



和佐羅の滝へ行った日。水神さまの巡礼の日でした。
それは最初から意識していました。

丹生川上中社でも、今まで気づかなかった「丹生龍王大神」と彫られた場所を参拝できたり、和佐羅の対岸にある笹野神社がやはり龍神さまをお祭りしていると知ったりと嬉しい発見もありました。

和佐羅の滝は龍神さまがおわします場所だと思っています。
ここでは特別に祈りたいと思っていました。

特別に祈りを捧げた場所は、ご縁を結ぶ場所なので、
心に記す必要がありますし、時々参拝に行かなくてはならなくなる気がしています。
だからそれほど多くは作りません。
和佐羅を含めて三ヵ所ほどでしょうか?私の中では。。。

和佐羅は私にとって出逢う前から特別な場所でした。

三回目で滝の全貌を拝すことが出来ました。
裸足になってジーンズをたくし上げて、流れの中に長いこと入っていました。
滝の飛沫を全身に浴びて、ずぶ濡れになりましたが、
なんという快感でしょうか?
至福の時を感じていました。

自然の中にこそ、スピリットは存在します。
龍神さまは、そのスピリットの「流れ」を現されたものではないかと思えます。
変幻自在に形を変えながら、飛び、流れ、舞い上がり、
場所と場所を繋ぐモノ。。。

なんともいえない高揚感が身を包みます。
涙があふれるような、大声で叫びたくなるような、
エネルギーのほとばしりを感じました。
水の恵みを祈りながら、喜びと感謝と、こみ上げてくるもので、
心を満たされる思いで、一心に祈りを捧げていました。



御歳神社の水は水量が少なくて鉄分が多くて
手水の確保にも事欠いています。
それが、和佐羅以降、ずっと豊かな流れを保っているのです。
普段は3,4日で流れが悪くなりホースを抜いてメンテナンスをしていたのですが、
ずっと滞りなく流れています。

不思議なこと?大雨や台風が続いたから?。。。

池も大雨の後、見事に変わりました。
大量の土砂の流れ込みもあり、ドロが溜っていた場所の上に
綺麗な砂が覆いました。
人力ではどうにも出来ないことを一瞬の自然の力が作り変えてしまいます。
古代の人は「大いなる力」をそこに見たことでしょう。


科学が進んだ現代に生きる私たちも、
それでも、「大いなる力」を見る事が出来ます。
見ようとすれば見る事が出来るのです。
それは決してスピリチュアルなことではなく、不思議ごとではなく、
目の前を見るということなのです。


今日は本格的な真夏の太陽が照り付けています。
境内が光輝いています。
お社は見事な白いもやの中に神々しく建っていました。

手水がゴウゴウと音を立てています。

それだけで、ありがたいのです。
ホッとします。

ありがとうございました。
なんとかなりました。
お導きに感謝します。
これからもお見守り下さいませ。


もうすぐ夏越大祓式です。
旧暦では今頃に当ります。
季節感が大事なお祭り、この時期にする事に意味がある気がします。
どんなにがんばっても身には様々なものがついてしまいます。
自らつけてしまいます。
人とはそういうものなのだから、
祓えばよいのですよ。
謙虚な気持ちで払いたいと思えば祓えるのです。

区切りの日。もうすぐです。


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現在月一回位のペースで龍笛を習っています。
昨日もお稽古日。
でも皆さんご都合悪くて私一人だとか。
それは申し訳ないとお話したのですが、
3年以上のキャリアの方の中に私が加わったので、レベルが違う。
先生が良い機会だから遠慮せずにおいでくださいと仰せだったので、
お言葉に甘えて行ってきました。

先生は禰宜さまで神社庁の祭式講師もなさっている方。
すらりとした長身の方で、姿勢がよくていつもピシっとされています。

私は練習が全然できてなくて、本当に恥ずかしい状態なのですが、
みっちりお稽古させて頂きました。

音がうまく出ないので、必要以上に息を使います。
「頭がくらくらします」と申し上げると
「ああ、酸欠ですね。息継ぎの時にもっと思い切り吸わないと…」
でもクラクラしたまま、吹きました^^

お稽古に行く、もう一つ良いことは、
日頃の神明奉仕のなかで、
疑問に思うことをお聞きできることです。

夏越大祓式で疑問に思っていたことをお聞きしたら、
とてもわかりやすく教えてくださいました。

なんとも幸せな時間でした。

龍笛をやりたいと思っていると、
思いがけず頂いたご縁です。
本当にありがたいことです。

「都合が合えば、またお一人でもお教えしますから、
遠慮なく来て下さい」と仰ってくださり、ご厚意を嬉しく思いました。

ああ、練習しなければね!!
自由に思いのままに吹けるようになりたいです。

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今日は朝から老人会の方がお越しで、
神社のお掃除をしてくださいました。
もう思いっきり感謝!!
このところの雨風で葉っぱが落ちてるのに
全然お掃除出来てませんでした。
一昨日、草むしりだけはやったのですがね。

今日、天気になぁれ!!ってほんとに思っていました。
お掃除終えてから
神様にも心から感謝しました。

こうやって月一度、顔をあわせる機会がまた大事なのです。
何事もコミュニケーションですね。

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今年の梅雨はカラ梅雨で、渇水になるという気象庁からの発表が
ずっと前にありましたので、梅雨に入る前から、
朝夕拝で、恵雨祈願を続けています。

御歳神様は、稲を始めとする五穀の実りを司る神様です。
稲の生育には、雨が一番切実な問題なので、
雨を司る神としても古来より尊ばれています。

奈良、平安期には、洪水の時や、大和川氾濫の折にも、
朝廷より勅使がきて特別な祈願がなされたとの文書もあります。

ですので、普段から、秋の実りの祈願は欠かしませんが、
今回は、恵雨の祈願も続けているわけです。


でねっ、気象庁の予報を裏切って結構雨が降りました。
ああ、良かったなあと思いながら、拝殿で座って、

私の祈願が届きましたか?
ああ、そんな、私如きの祈願じゃないですよねえ~…
なんて考えていたら、まっすぐ空気が来て、頬をなでていきました。

「誰に祈願しているのだ!畏れ多いみとしの神に祈願しているのだろう!
当然、しかり。雨の恵みをありがたく受けよ!!」
って言われた気がして、
「ああ、ありがとうございますぅ~。」と平伏しました…。

ちゃんと祈願してるのだから、ありがたく受けないといけません…。
なんだか、嬉しくなりました。

どこか、不思議事な話ですが、
お仕えしているお方を尊ぶということは、そういうことなのです。
当たり前ですが、それに気がついて、少し、幸せな気分でした。

台風が近付いているので、今日は、合わせて台風の害が最小限で収まるようにともお願いしました。いつも色々都合よく祈願しますが、台風が甚大な被害を及ぼさないように願っています。



*不適切なコメントが続きましたので、現在、コメントは承認制にしています。遠慮なく書き込んでください。後ほどUPされます。

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神社はいいところです。

朝、神饌を持って拝殿へあがりました。
胸の動悸が激しい状態なので、拝殿に座って心が静まるのをずっと待っていました。
そのうち夢を見るような感覚で思いをめぐらせていたら、
突然右側から風が起こりました。
ああ、珍しい。今日は横から来たなあ。
ああ、そうか、龍神さまでしたか。。。
しばらくお出かけだった龍神さまが、数日前にお戻りになったような感じがしていたのですが。

めぐらせていた思考が一瞬途切れて、再修正。
朝拝の前に、もう少し考えさせてくださいませ。

今、巡る思考の中心は「ブッダのことば」中村元著 岩波文庫。
般若心経で完成される思想の元になった哲学者ブッダの考え方が読めます。

今の私にとって、麻薬のような危険な本です。
でも、素晴らしい治療薬でもあります。

読むべき本であったのだと思います。
まあ、読んでしまったものは、取り返せないからね。

すべてが有って無きものだとする般若心経ですが、
ブッダは繰り返し、あらゆる執着を捨てることを説きます。
その徹底振りは驚くほどで、初期の仏教はこういうものだったのかと
興味深いです。
それはないでしょう?とあまりの極論に驚きますし、
私のありたい形からは大きく異なっています。

ただ、読み進んでいくと、
「ああ、そうなんだ」と自明の事に気がつかなかった自分が不思議なくらい
納得する部分もあります。

拝殿で座って色々思い巡らせて、改めて「ああ、そうなんだ」と納得します。

さて、と改まって朝の参拝をすると、
すーっと細い空気が本殿から流れてきます。
「風が吹く」ではなく、まっすぐ到達してくるような感じ。

目をあけると、きらきら光っています。
ああ、そうなんだ。

光と風はずっとここにあります。
いつもと変わらず、ここには空気が満ちているのです。

柳澤桂子さんの言葉を思い出します。
憂いは私の中にしかないのです。
世界はいつも変わらず光と風に満ちているのです。

ブッダの言葉を思います。
私の願いと違うことが苦しみになるに過ぎない。
望むような結果が得られないから悲しみにとらわれる。
そこに存在する憂いは、私が作り出す妄想にしか過ぎないのです。

人と衝突するのは思いが異なるから。
でも、私は人の思いを操作する者ではないのです。

あなたの思いがあり、私の思いがある。
それだけのことで、苦しむ必要など無いのです。

悪意に満ちた行いをしようと関わってくる者もあります。
それが悲しいのは、なぜそんな悪意を向けるのか、
私には理解できないからです。
人は、もっと清く生きるものだと思いたいからです。

でも、私はその者ではないのです。
私は悲しいけれど、でも、それは私の中にある思いです。
その悲しさや乱される心は、受身の私の中にしか存在しません。

それは存在すらしていないはずなのです。
幻のような思考の産物だからです。


朝拝を終えると、
心の動悸は静まっていました。
ただ、そこに光と風がありました。

その程度のものなのですよ。
心の作り出す幻影におびえて震える必要など無いのです。
目をあければ、光と風を感じるのだから。。。


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