goo

2018.01.06 正月二日、そして奇跡の迎春用品。

 

お重の中のおせちを、新鮮な内に食べてしまいたくて、一皿に並べました。
あるお気に入りの素敵なブログの中で、ねぎのみじん切りを沢山入れた卵焼き云々と
ありましたので、真似をしてねぎ入り卵焼きを作ってみました。 

しまった!写真を見て驚きました。
我が家にはお正月にふさわしい華やかな器が沢山あるのに、うっかりこんな今風の
無機質な白いお皿に盛ってしまいました。
赤絵の器やお目出度い柄の食器類は、数え切れない程持っているのに!馬鹿な私。


<奇跡の迎春用品>
二十数年前の阪神大震災で、我が家は全壊したにもかかわらず、迎春用の様々な器が
無事だった不思議!
保管していた場所と状況が幸いして、震災後帰国した時に見付けたこれらの焼き物類
の無事が私を驚喜させました。神様ありがとうございますと叫びました。

旅行嫌いの私が珍しく香港に旅行していて、神戸の地震の後帰国して、長年収集して
来た大切な陶器類の内の迎春用品の多くが破壊されず残っていることを知ったときの事
は忘れません。

お正月大好き人間の私はそれを見て、「あ、これがあれば再びあのお正月を迎えられる。
これさえあれば頑張れる!」と家の再建を固く決意しました。明るい光が見えた様でした。
どんなに力になったことでしょう!

多くのボランティアの方々の身に余る献身的な支えがあったとは言え、1年半に亘って大阪
の寝屋川に避難して平日は大阪に勤務しながらの苦難の自宅再建の原動力が、まさにこれら
食器達が残ったことの感謝と感動が起因だったのはまぎれも無い事実ですが、言葉で
いくら説明しても、同じ経験が無い方にはおそらく理解しては貰えないことでしょうね。 

再建叶って、1年半後に神戸に戻った時のお祝いの席に赤飯が3カ所から届きました。
その時、最初から変わらず復興の協力をしてくれたボランティアの仲間達が全員集まって
くれて教えてくれた事、それは「私を神戸に戻す迄頑張ろうと言う言葉が、仲間の合い言葉
であった」のだと聞かされた時の 私の感謝と衝撃。一生忘れないでしょう!
ただ、惜しむらくは、もう少し早く聞かせてもらいたかったと思いました。
生きて神戸に戻る事は無理だろうと何度思ったことか、不安に襲われて避難先で眠れない日々、
それでも起きて職場で奮闘する毎日、不安と過労で体調は最悪で、その頃盛んに新聞を
賑わせていた孤独死という言葉は、実際我が身にいつあってもおかしくないと覚悟していた
そんな1年半、この合い言葉を知っていたらどんなに救われた事か? 
途中で死んでいたらこの言葉は聞けなかったと思いました。生きていて良かった!

それにしても、自分で言うのは憚られますが、本人の強固な決意が無ければ、この日は
無かったと思います。
これらの迎春用品が残った事が、神戸の家を再建し再びあのお正月を迎えたいと私に熱望
させ、結果的に私を神戸の再出発に導いてくれたと思います。
神戸に戻って10年住みましたが、その10年間は私の悲願を叶えて下さった方々を毎年
おせち接待させて頂きました。被災した友人達をも。
今は神戸を離れて別天地に住んでいますが、改めてお正月を心から感謝しております。

 

 



私は、魚の煮付けは苦手です。魚を煮た臭いが子供の頃から嫌いでした。
学校から帰って来た時、玄関で魚を煮た臭いがしたら、もう泣きそうでした。

でも、昔食べたブリの煮付けの美味しさと美しさを、いつまでも覚えています。
母は魚の煮付けが好きでしたから、母の料理だったと思います。

あのブリの煮付けを、もう一度食べたい。いつもそう思っています。
テレビなども参考にして、勉強しなくちゃ。
 

 

甲山です。最近は寒が不足しているので、真冬なのに紅葉していません。
12年前転居して来た頃は、紅葉していました。

コメント ( 0 ) | Trackback (  )
« 2018.01.04 ... 2017.01.08 ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。