失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

横浜市 上飯田 柳明村

2006年12月17日 | 失われた風景
柳田國男の「水曜手帳」(『柳田國男全集3』ちくま文庫)に「柳明」という文章があります。一部抜粋してみます。

(引用開始)
「柳明という村だけは、一度諸君にも見せたい。こういう古くて美しくて、人に知られていない村も珍しいからである。いつの時代の宛て字か知らぬが、ヤナギミョウのミョウはもと開墾地の「名」であろうに、住民ももうその意味を忘れているのである。」p.11
「小田急江之島線の高座渋谷という駅から降りて、ほぼ東北に向って十四五町も行けばもうこの村である。」p.11
「何よりも珍しいのは村の形、境川の対岸の岡から眺めると、ほぼまっすぐに南北一列に、大きなゆったりとした屋敷ばかり並んでいるので、何か昔風の宿場を裏から見るような感じがする。村に入ってみるとこれがじつは表通りで、前をきれいな用水が流れ、家ごとに橋を架けている。流れに沿うて一筋の村路があるからである。私はこの路が中古の往還ではないかと思って、気をつけて歩いてみた。土地の人に教えられて知ったことは、村の南手にやや大ぶりな小山があって、それがこの辺一帯の風よけになっている。南風のひどい土地だから、風下へ風下へと分家をしたので、こうした一列の村ができたといっているが、一部分はほんとうのようである。」p.12
「別に羽太という一まきが五六戸あるが、それはすべて小山の裾を曲がってから向こうに固まっているという。」p.12
「石井という大百姓の拓いて住んだ村ということ」p.12
「村の民家は全部が西を向き、路を隔てた片側の田圃を見守っている。そうしてその向こうには境川の流れを前に控えて、城山という松の茂った岡があり、その周囲には幽かな土工の名残もあるという。」p.12
「柳明にはもと観音堂があって、大石寺という大きな寺があったと伝えられ、現在はそこが鎮守の御社になっている。」p.13

(引用終わり)
(引用者注:「ヤナギミョウ」と書かれていますが、地元の表示では「ヤナミョウ」です。)

柳田國男が、「一度諸君にも見せたい」「古くて美しい」「珍しい」と称えた「柳明村」は、今どうなっているのでしょう。当時の面影ははたして残っているのだろうか。

以下の写真は、すべて2006年12月16日撮影です。


地図でみると神奈中(神奈川中央交通)の上飯田車庫の横(地点1)を南に入っていくやや狭い道があります。

<<地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。>>

この道に沿って、蓋こそされているものの用水が確かに通っています。

<<写真1 右側は、神奈中の敷地。ガードレールの左に用水路>>

さらに南に進むと、左から下ってくる道とぶつかります。これを登ると柳明神社(地点2)、松並の交差点にでます。


<<写真2 柳明神社の一角から、下り道を写したもの。>>


<<写真3,分岐点から柳明神社に向う道の脇にある道祖神。右端の道祖神には、「文政五年十二月」(1822年)と刻まれている。>>

  
<<写真4 柳明神社境内にある石碑
「奉再興山王大権現」には、「寛政十一己未年」(1799年)と刻まれている。
「當寺本尊十一面観世音」には「宝暦十庚辰霜月吉日」(1760年)と刻まれている。>>

(年号の西暦換算は、宝月圭吾監修『要説日本史年表』(山川出版)の年号一覧表から、年号の始まる西暦年に(刻まれている年数-1年)を足し算した)

柳明神社から下の道に戻って、さらに南に進みました。この路沿いには確かに石井姓が多く見られます。
現在、羽太郷土資料館が地点3あたりですので、「風除けの小山」は、小山というより、境川の河岸丘陵が西に張り出し北向き斜面ができる部分のことのようです。地図の等高線では分りにくいかもしれませんが、写真5でビニールハウスの先に見えている丘陵と木立の部分あたりを指しているのでしょう。

<<写真5 ここもガードレールの左が水路です。>>


<<写真6 北向きの写真を一枚>>

羽太郷土資料館の前を通り、新幹線の高架下をくぐると、本興寺の下に出ました。境川左岸の丘陵はまだまだ続きますが、本興寺で引き返し、境川の対岸からの眺めを見てみることにしました。
最初に、大和南高校の前に登り、とりあえず対岸を撮ってみましたが、住宅にさえぎられて眺望はよくありません。大和南高校の屋上に登ればさぞかし良い眺めでしょうが、突然訪問して写真を撮らせてくださいと学校にかけ合う気力はありませんでした。学校の前の道を北に進むと、某会社の資材置き場(地点4)があり、ここからかろうじて眺望写真が撮れました。

<<パノラマ 写真のだいたい右半分に、今回歩いた道の背後の丘陵が写っている。画面中央よりやや左下、オレンジ色の柵に接するように見えている白い建物が神奈中の車庫付近。>>

「何か昔風の宿場を裏から見るような感じがする。」とはほど遠い印象です。
資材置き場付近には、「監視カメラ作動中」との表示があり、本日不審者1名と記録されたかもしれません。(これは冗談。立ち入り禁止の中には立ち入ってませんので。)

以下、地元の方がどう地域を考えているのかは、まったく調べずに、一見者の勝手な感想を書いてみます。
水路は蓋をされ、水田には、資材置き場や、ビニールハウスが出来て、対岸には団地が出来、新しい住宅も集落の中に出来つつあります。とは言え、ここは、寺家のふるさと村のような、あるいは営農+野外博物館的なありかただって可能なくらい、やはりユニークな場所に思えました。徐々に普通の住宅地に変わってしまうのは残念な風景だなと思いました。
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4 コメント

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懐かしいですね。 (kampeita)
2006-12-21 00:05:50

http://www.city.yokohama.jp/me/izumi/shinkou/kodomap.html
を参考にして、
この柳明へ正月に行ったことがありました。
昔の相模の風景が今も残る
ある意味、枯れた風景が残っていて良かったです。
確か、鎌倉古道、山の道がこの辺りを通っているとか。

お正月に七サバ巡りをすると良いことが
あるそうです。
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羽太郷土資料館を見学したかったのですが (水無月)
2006-12-22 23:54:44
羽太郷土資料館を見学したかったのですが、当日開館してないようでした。
返信する
柳明について (大和市の住人)
2009-07-04 23:43:26
minazukikoyaさん、はじめまして。
神奈川県大和市の住人です。
本日、地元の古老(85歳)に、大和市に残る順礼(巡礼)街道の話を聞いていたら、柳明地区や石井姓の話が出てきました。羽太資料館の南にある本興寺の話もありました。
(慶長年間に耳と鼻を削がれた和尚さんの話です)
私も、大和南高校や利根地下技術(地点4)から横浜市側を見たことがありますが、そのときは柳明については何も知らず、柳田國男がこの地について語っているなど夢想だにしませんでした。
今度、境川を越えて柳明地区に行って見ようと思います。
利根地下技術も移転し、横浜側の眺望は開けています。
勿論監視カメラも有りません。
最近大和市内の風景に関心を持ち、下記のホームページを開きました。時間が有れば寄ってみてください。
http://park.geocities.jp/yat5aze2/index.html
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はじめまして (水無月)
2009-07-05 23:29:38
大和市の住人さんはじめまして
わたしは大和市内はほとんど知りません。
泉の森公園は引地川の水源の一つなのですね。
訪ねてみたいです。
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