失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

府中市 分倍河原

2006年12月22日 | 江戸名所図会
江戸名所図会巻之三に分倍河原 陣街道という絵があります。


ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房p.415

この絵には中央付近に「天王森」、右に「首塚」、左に「胴塚」、下の方に「小之宮村」と文字が入れてあります。
私ははじめ、この絵は府中崖線の上から南に向いて、多摩丘陵の方向を描いたのだろうと思っていました。
この絵がどのあたりを描いたものかは、すでに知られていますが、私もここで順番に説明していきましょう。

まず陣街道ですが、京王線の中河原駅の下あたりから、都道の大通りと分かれて「旧鎌倉街道」を北上し、中央道の下を通過すると、府中崖線にぶつかります。崖を登ってさらに北上し、南武線の踏切を越えると、左に神社があり、ここが八雲神社です。このあたりに、府中市が設置した街道の案内板があり、ここが陣街道と言われていたことがわかります。

<陣街道 北方向>


<八雲神社>

八雲神社の脇には、道路に面して元応の板碑が残っています。名所図会でも、「天王森」の文字の下に、板碑が描かれています。ちなみにこの板碑についてはネット上でも多くの方が取り上げていますが、現地の説明板の内容の一部をここにも載せておきます。
「元応元年(1319年)十一月八日に「大蔵近之」なる人物が亡き父親の「道仏」の十七年忌の供養のために建てたもの、と解釈されています。平成4年3月 府中市教育委員会」


<元応の板碑>

「天王」の森が、なぜ今は八雲神社といわれているのか、はじめは分らなかったのですが、『府中市史資料集第十四集 府中市の寺社史料及び府中市史講演集』のp.39に、「八雲神社 分梅町一丁目(分梅) 祭神牛頭天王(ごずてんのう)(すさのうの尊)。・・・境内には樹林が多く、社殿の裏には古墳と考えられる小丘がある。」とあり、牛頭天王の「天王」をさしていたことがやっとわかりました。
社殿の裏の塚は、天王塚と言われています。


<八雲神社社殿裏の塚(天王塚)>

府中崖線上(中腹)のこのあたりには、高倉古墳群といわれる古墳が多数あったそうですが、中でも、高倉塚といわれているものが規模が大きく、現在整備保存されています。

<整備された高倉塚>

首塚、胴塚の位置をさぐるため、この高倉塚に行き、現地の案内板を見てみると、
「府中崖線(ハケ)の斜面上に広がるこの周辺には、これまで確認されている古墳が25基あり、これらは高倉古墳群と呼ばれています。このうち墳丘が残っているものは4基あり、この高倉塚は古墳群の中心に位置しています。
・・・
これまでの発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坏(はじきつき)が出土するなどの学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。
・・・
平成17年3月 府中市教育委員会」
と記され、地図がありました。

<高倉塚現地案内板地図 「発掘調査で確認した古墳」とは、要するに、住宅開発の際に調査して、その後つぶしてしまったもののことですね。>

現存の4つの塚の一つを、この高倉塚とし、2つ目を、先の八雲神社社殿裏の土盛り(天王塚)とすると、残り2つが、首塚、胴塚なのでしょうか、とにかく現存の場所を探さないことには話しにならないので、この現地案内地図を頼りに行ってみました。

3つ目の塚として、浅間神社前交差点を西に曲がったところに行ってみました。該当しそうな塚は、現在、日通の敷地内にあるもののようです。現地には何の案内板もありません。後日、府中市立中央図書館で調べてみると、『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』(府中市立郷土館紀要別冊、昭和60年)p.26に「耳塚 美好町3-26 3-45 「太平記」に首塚、胴塚、耳塚の名がみえる。戦の際に印に首では重いので耳をそぎ、その耳を埋めた塚だとも、一対になって道の両側にあるからともいう。明治時代に平にならしたが、現在でも地目は原野となっている。近くでは人頭骨やカメが出土したが、ここからは何も出土していない。地元では分倍河原合戦の戦没者に関係する塚だと思い、昭和57年に供養塔を建立した。」とあり、これが耳塚とよばれていたものの一つであることがわかりました。

<耳塚 まるで厄介者を檻に入れたようだ。というと言い過ぎか>

4つ目は、浅間神社交差点から北に2つ目の道を東に曲がったところです。地図のだいたいこの辺りには、塚らしいものはなく、小さな祠がありました。おそらくこれが現存する塚の4つ目なのでしょう。ここにも何の案内板もありません。これも『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』p.26によると、「首塚 美好町3-30 かつて一度発掘したことがあるが、何も出土しなかったという。塚の上の神社はもとの名主石阪家の屋敷神として祀られたものと思われる。稲荷は後に住んだ小川氏が勧請したものである。」とありました。

<首塚 こちらも脇に追いやられて肩身が狭い>

胴塚については、『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』にも記載がなく、すでに消滅していることになります。『府中市史上巻』p.68には、「分梅町1丁目に、かつて、もう一基の塚があった。南武線敷設工事の際に削りとられ、今は線路と化してしまったが、この塚から出たと伝えられる鉄製の刀五振は、反りのない直刀で、明らかに奈良時代以前のものであること、そして「平作り」であることからみて、古墳時代後期以後のものであることを物語っている。残念なことに、今では当時の出土状況を伝える文献も人もなく、詳しいことはわからない。」とあります。あるいはこれが胴塚だった可能性もありますが、分梅町1丁目を通るの南武線の線路の長さは500mくらいありますので、これ以上の詮索は残念ながらできません。

「小野の宮」という地名は現在の中央自動車道の南側付近を指したようです。

これで、名所図会の描画対象を一通り説明しました。

八雲神社は、北に向いた場合、道路(陣街道)の左手にありますし、首塚は、やはり北を向いた場合、道路より右側にあります。小野の宮は、天王森より南側なので、この絵は、現在の中央自動車道の南あたりから北を向いて描いた絵のような感じになります。ただ、天王森を、このように見下ろせる地形は、崖線の下には存在しないので、火の見櫓のような高いところからでも描かない限り、この絵は雪旦先生が、鳥瞰図を頭の中で、描いたもののように思えます。背景の山は、方角的な可能性としては、甲州街道沿いの屋敷林、国分寺崖線、狭山丘陵などの近景・中景か、あるいは日光などの遠景であることになります。山の描き方は、近中景のような感じです。現状では、このあたりは住宅が建てこんでいて、とても景観比較ができるような状況ではないですが、これから眺望には都合の良い季節になりましたので、一度多摩丘陵あたり、あるいはどこかのビルから、北向きの写真を撮ってみたいものです。

天王森あたりを写した写真が、写真集『むかしの府中』(府中市,昭和55年発行)に2葉載っています。一つは、天王森の抱き板碑(昭和10年前後)p.61、もう一つは、昭和32年の撮影で、畑の中を行く道から西に向いて写したものですp.101。
私の母親(分梅町生まれ育ち)が、「子どもの頃(昭和10年代)には、「おてんのうさま」から分倍河原の駅までずっと畑で、民家は一軒もなかった。」と言っていました。昭和30年以前まで、このあたり江戸名所図会の感じそのままだったのでしょう。

名所図会のこの絵と直接関係はありませんが、旧甲州街道沿いの写真を一枚。
このあたり以前は「屋敷分」と言われていただけあって、風格のある屋敷がみられます。

<旧甲州街道>

おしまいに、
写真集『むかしの府中』巻末の年表より
京王電気軌道開通(調布-府中)大正5年10月
玉南電気鉄道開通(府中-東八王子)大正14年3月
南武線開通(川崎-大丸)昭和2年11月
南武線全通(川崎-立川)昭和4年12月
中央高速自動車道調布-八王子間開通昭和42年12月
コメント (3)
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