失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

滝山城周辺 「瀧村総図」

2007年12月07日 | Weblog

<蔵王権現(御岳神社)の尾根の先端部>

『新編武蔵風土記稿』に「瀧村総図」という絵があります。
この絵も安藤勇さんのWEBギャラリー「江戸時代の隠れた名画達」で見ることができます。
「新編武蔵国風土記稿」の上から2番目「滝山城址より展望の絵」です。http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/sinpenmusasi.html

絵に書き込まれている文字を、雄山閣版『新編武蔵風土記稿』(第五巻)の挿絵(p.320)も参考にしながら読める範囲で読んでみますと、
絵の上の方の左から
「大石信濃守○○」「○○山」「大嶽山」「御嶽山」「一石山」「三峯山」「武甲山」
「三ノ丸跡ト云 土手カラホリアリ」「廣間跡ト云 字千畳敷」「此辺本丸 奥ト云」
「金毘羅社」「モノミ松○」「秋川」「玉川」「熊川村」
「中丹木村」「本丹木村」「丹木村蔵王社」「此辺本丸跡ト云土手カラホリアリ」「二丸土手カラホリ」
「大手口ト云 字鍛冶谷」「二丸口ト云 字千石谷」
「金蔵寺」「本丹木村○」
となっています。(○は私の読めない文字)

 
<千畳敷、本丸奥の井戸>

 
<金毘羅社、丹木村蔵王社(御岳神社)>


 
<鍛冶谷、千石(専国)谷>

絵の構図について
滝山城本丸の「金毘羅社」や「丹木村蔵王社」などの位置をこの絵のように据えると、大岳山から武甲山までの奥多摩・秩父の山は実際にはこの絵よりずっと左にこなければなりません。つまりこの絵そのままの風景は存在しません。この絵はいわば一番いいところを見せるために複数の視点からの絵を一枚にまとめたようなものになっています。それが「総図」というものなのかもしれません。このブログでこれまでにとりあげた江戸名所図会でもこのような描き方の絵がいくつかありました。当時の名所絵の手法のひとつだったようです。

この絵の視点は、少なくとも
1「蔵王社」と「鍛冶谷」を正面に据える近景
2 秋川、多摩川、高月城を視野に入れた中景
3 奥多摩・秩父の山を視野に入れた遠景
程度には分かれています。

視点を探して現地をあるいてみました。
1.蔵王社をこのように鳥瞰的に見据えられるでしょうか。谷治川の対岸の丘陵の上から望遠鏡を使って見るとあるいはこの絵に近くなるかもしれません。(確認できず)

<谷地川対岸の梅坪町にある天神神社から蔵王社方向>

2.中景は「瀧山古城本丸跡より眺望」と似た感じがあります。昔だったら樹木が少なくて、本丸に限らず滝山丘陵の尾根からでももっと眺望がきいたと思われます。


3.大岳から武甲山まで見渡すには、多摩川の対岸の熊川側からか、あるいは高月城の丘陵の上あたりがよさそうです。(といっても現在の高月城跡からは樹林のため大岳山方面の眺望はあまりよくなかったはず)

<高月城西側の秋川右岸から。>
高月城西側の風景自体もいずれとりあげてみたいです。


蔵王社は、『新編武蔵風土記稿』本文には「蔵王権現社」と記載されています。現地の社名表示は「御岳神社」となっています。某日訪れた際に、たまたま社殿の清掃に来ていた地元の人に聞いてみると「権現とも言っている」と教えてくれました。


絵には階段の下に鳥居があって、その先に小さな流れと橋が描かれています。現在鳥居はありませんが、小さな流れが確かにあります。
 
<蔵王社の東側からの参道、金蔵寺>

金蔵寺は、お墓はありますが「お堂」のような建物は現在なさそうです。近所の人に「ここは昔お寺だったんですか」と聞いてみると「今でもお寺だよ」と言われました。

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