佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

野崎島へ

2010-08-10 | 

8日のブログの続きです。

8月5日。
笛吹港7:25発、町営船「はまゆう」に乗って、あこがれの野崎島にやってきました!



透明なマリンブルーの海に囲まれ、美しい教会と不思議な岩があり、
野生の日本鹿が住む無人島・・・それが野崎島だと聞いています。

その島に足を踏み入れました。

今回はガイドも頼まなかったので、初心者コースの教会を目指すことにしました。

宿のご主人が虫よけスプレーを「持って行きなさい」と渡しながら、
「時々ヘビも出るからね」と言ってたけど、
そんな気配はまるでありません。

教会までは道も整備されていて歩きやすいし、
とにかく暑くて暑くて・・ヘビも虫も、どこかの岩陰か土の中に潜っているんじゃないかな?

崖沿いの小道には木陰を造ってくれる高木はなく、低木や草ばかり。



カラカラに乾いた崖に、へばり付くように咲いている草花の元気なこと!



枯れ枝にしがみついてるのは、セミの抜け殻。





たまに高木を見つけると、その下で一休み。

見上げると色づいた丸い実がいっぱい!ヤブツバキでした。

後で宿のご主人に確認したら、

「そうなんですよ。野崎島にはたくさんヤブツバキがあってね、私は言ってるんですよ。
 あの実を集めて椿油を造って、島の特産品にしたらどうかってね」


きれいな海が見えてきました~


このまま進めば自然学塾村とそのそばにある野首教会に着くようです。


少し歩くと、もっと真下に、まさにパンフレットの写真通りのマリンブルーの海がありました!


ああ、降りていきたいなぁ~
でも、急こう配の崖だし、かなりの高さで、ちょっとムリ・・・

仕方ないから、カメラをズームインして我慢しよう~


この透明な優しいブルーは、どうして?

砂浜が白いから?

遠浅だから?

それから?

それから・・・


海の景色を堪能して、再び歩き始めたらすぐに「自然学塾村」が見えてきました。


無人島のこの島で人が寝泊まりできるのはここだけ。

手前の青い屋根は、元野崎小中学校の校舎。
それを改修して、今は合宿所になっています。
夏季には、全国から子どもたちがやってくるので、校舎内のベッドだけでは足りず、
このようにテントも張って対応してるようです。

敷地内にあるトイレを借りるためにお邪魔しましたが、
たくさんのこどもたち(小学生低学年くらい)が楽しそうにはしゃいでいました。

    どこから来たの?

    北九州! (別の子が)小倉!

    ここには何日くらいいるの?

    3日!  (別の子が)違うよ、4日だよ。3泊だから4日間だよ。

    楽しい?

    うん、楽しい!

    何が楽しいの?

    海! 海にもぐるの!


こどもたちはほんとに島の夏を満喫しているようでしたが、
実は、小値賀島の住民の評判はあまりよくありません。
というのは、宿泊費が高額なため。

以前、小値賀町が管理していた頃は、1泊1000円で泊まれたので、
小値賀島本島の子どもたちや、その親戚の子どもたちも夏休みは気軽にここに遊びに来れたのですが、
この学塾村をNPO法人が管理するようになってからは、1泊5000円に!


  ホテルじゃないんだから!
 
  食料は持ち込みで自炊ですよ。それで5000円は高いでしょう?
  親戚の子を毎年呼んで連れて行ってあげてたんだけど、もう呼べなくなりましたよ。
  金持ちの子どもだけが泊まれるところになってしまいました 


と、怒りを込めて訴える小値賀町民の声が耳に残っています。


ただ、島で出会ったそのNPO法人のスタッフは、みんな素敵な若者で、
造り物でない笑顔と優しさがあふれていました。

彼らのためにも、この法人の運営責任者は住民との意思の疎通をしっかりやっていってほしいです。

それに、やっぱり、いまどき1泊5000円の素泊まりは高いよネ・・・


元校舎を左に見ながら少し歩くと野首教会に到着です。


下の道から見ると、こんな感じです。



階段の途中からパチリ!



中はこんな感じです。


小さいけれど素敵な造りです。
明治41年(1908)、教会建築で知られる鉄川与助が初めて挑戦したレンガ造りで、彼の渾身の作品。
県の貴重な文化財で、毎年開催される「おぢか国際音楽祭」の舞台ともなっています。

一番後ろの席にノートが2冊置いてありました。

その1冊は来館者の記帳簿で、私も名前を記しました。
パラパラとめくってみると、福岡県からが一番多いようです。
県内では、平戸や長崎市など、キリスト教徒が多いと言われる地域からの来訪が目立ちます。

たまに、千葉県とか埼玉県、神奈川県など関東地方からも。

あっ、川越から来てる!秩父からも!
など、どうしてもまだ埼玉に反応してしまいます・・

もう1冊の方は野崎島について書かれた資料集でした。

その中に野崎ダムについて書かれたページがあり、
地図を見ると教会のすぐ裏手に位置します。

お弁当を食べた後、行ってみることにしました
(教会の木陰で食べた民宿のおにぎりは、超おいしかったです!)






平成12年完成ということは、野崎島民がほとんど島を出ていってから造ったのでしょう。

一時期は800人近くいた島民も、高度経済成長と共に激減。
昭和41年には船森地区が、昭和46年には野首地区がそれぞれ集団離村し、
昭和60年には、野崎小中学校が廃校になりました。

一人残った最後の島民(神島神社の神主さん)が島を出たのは、平成13年のことだそうです。

じゃあ、このダムの水は誰が使っているのでしょう?

実は、この水は小値賀島に送られ農業用水として使われているそうです。

小値賀島は野崎島と違って平らな島で、田畑もたくさんあるけれど、
山が少ないので、作物の生育に必要な水の確保が難しかったんだそうです。
だから海の向こうにでもダムを造りたかったんですね。


ダムを出て、もと来た道を引き返すことにしました。
帰るためではなく、スケッチの場所を求めて・・・

夫にとって今回の旅の目的の一つは、風景画を描くことでした。
しかし、なにしろ暑くてバテバテの彼は、
スケッチポイントを探すより、木陰を探すことが先決で…。



たまにある木陰も足場が悪いし…


やっと見つけたのは、廃屋となった建物のそばの木の下。


何の建物なのか、
造りといい、中に散乱している寝具や家具といい、町営住宅の跡のような雰囲気ですが、
門柱のような大きな石碑が2本立っていて、その文字は既に読めなくなっています。

やっと木陰の下で一休み。
ここは高台になっているので海風も吹いてきます。

夫はスケッチを始め、私は周辺を探索。

探索の目的は、足元にこれを見つけたから。


鹿の糞です!

ここ野崎島には野生のキュウシュウジカがたくさん生息しています。
無人島になってからはかなり増加して、生息頭数は500とも700とも言われています。



フンの跡を辿っていくものの、この辺りはいそうにありませんね。


海側の木陰を探索していたら、10mほど先をふいに3頭のシカが飛び出して、駆け抜けていきました。

私の足音に驚いたのでしょう。
カメラを向ける暇もなく、崖下の見えないところへ行ってしまいました。

元の場所に戻り、再び周辺を散策していると、
じっとこちらを見つめるつぶらな瞳に出会いました。


あまりにも動かないので、造り物かと疑ったほど。

先ほどのシカたちと違って、さほど人間を恐れてはいないようです。
子どもの鹿なのでしょうか?




向きを変え、ゆっくり歩き去るシカの跡についていくと、様々な廃屋に出会いました。









これは、お墓の跡でしょうか?


美しい海と教会と可愛いシカ…
ロマンいっぱいの野崎島は、過疎化の村のなれの果てでもありました。

でも、そこにある風景は、やはりどこまでも美しくて…
また是非訪れたい・・・そんな島でした。



小値賀島にもどると、宿のご主人がサンセットポイントにつれていってくださると言うので、
早めに夕食を済ませ、7時前に出かけました。



ここは、昨日訪れた斑島。
東シナ海に浮かぶ夕陽の大きいこと!



ん!?不思議だなぁ。
夕日に近いところの雲が白くて、遠いところの雲が夕焼け色に染まっているのは何故?




こちらは黒島の展望台から見た景色です。

ただ今の時刻、19時48分

西の果ての長崎県の小値賀島に、ようやく夜の帳が降り始めました。

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8月9日

2010-08-09 | 平和

長崎県民になって3回目の8月9日です。

前回も前々回も平和祈念式典の会場にいましたが、今年はテレビの前で見つめました。

長崎市長、被爆者、総理大臣、合唱するこどもたち一人一人の顔までもすぐそこに映し出され、

会場に居るよりも式全体がよくわかります。

 

特に被爆者代表(内田保信さん)のスピーチは、

その時共にいた友人を失った悔しさや、核兵器廃絶への断固とした意志が、

その目、その口元にはっきりと表れ、

これでもかこれでもかというように、伝えたい思いがあふれていました。

 

被爆65周年の今年も、長崎では原爆は風化していません。

被爆者の数は確実に減っていますが、被爆2世や3世が存在しています。

彼らが、父母や祖父母の体験や思いを引き継ぎ、伝えていこうとしています。

内田さんが語ったように、

彼らの父母や祖父母も、それぞれのあの日を、深い悲しみと苦しみの中で伝えたことでしょう。

 

長崎では、高校生を中心に、子どもたちの平和運動がさかんです。

長崎に越してきたその時からずっと感じていたことですが、

その活動は他に類を見ない力強いものです。

 

身近な人だからこそ伝えられた戦争の現実、被爆地だからこそ生まれた平和教育の力、

それらが確実に実を結んでいるのを感じます。

この子どもたちが大人になっても、中年や老年になっても、

原爆への関心を無くさずに、平和を求め続けていきますように。

その平和が日本だけでなく、世界中に広がるよう貢献してくれますように。

 

ただし、平和を語り継ぐには、学び続けなければなりません。

祖父母の話に耳を傾けるだけでなく、違った声の存在も知らなければなりません。

過去のことだけでなく現在のことも、日本だけでなく世界にも、目を向けなければなりません。

 

8月6日、広島での平和祈念式典に、初めて米国からルース駐日大使が参加しました。

彼は何も発言しませんでしたが、

「原爆を投下した当事国として謝罪すべきだ」との声が被爆地からあがりました。

それに対し、元長崎市長の本島等さんは講演会でこう述べました。

 

「アジアの国々などの戦争被害者に対し、まず日本が加害者として謝罪をするのが先だ」

「その後で、原爆投下責任に突き進んでいかねばならない」と。

 

「日本は自国が始めた戦争で、アジア各地で2千万人を殺したといわれる。

日本人も310万人が死に、うち140万人は餓死や栄養失調が死因だった。

われわれはまず、戦争でたくさんの被害を与えた中国や朝鮮半島などの人々に

謝罪しなければならない」

 

いろんな考え方や意見があるでしょうが、

被爆地長崎の元市長がこのような発言をしたことに、

私は長崎県民として、とても誇りに思います。  

 

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小値賀島へ 

2010-08-08 | 


「おぢか」って、「小値賀」と書きます。

なかなか読めないでしょう?

ある水彩画の個展会場に置かれていたパンフレットを夫が持ち帰ってきました。





私はこの写真に魅せられて・・

「いいねぇ・・」「うん、いいねぇ」
即、宿を予約しました。

翌日、小値賀行きの船も予約。



小値賀島は長崎県の西、五島列島の北の方に位置する大小17の島からなる諸島です。

人が住んでいるのは小値賀本島をはじめ、橋でつながった斑島(まだらじま)黒島
そして定期船が通う大島六島(むしま)納島(のうしま)など。
その他は無人島です。

小値賀本島の笛吹港へは佐世保から船が出ています。
高速船「シークィーン」で1時間25分、フェリー「なるしお」で2時間35分です。


4日朝、出発。
海も空も真っ青・・・


高後燈台が見えてきました。
あの海峡を過ぎると佐世保湾脱出。外海に出ます。


高速船はとても早くて(早いから高速船なんだけど)、外海に出ると波しぶきも高く、
船窓から見る景色の半分くらいが真っ白になることも・・・。


遠くに小さく見えていた平戸の島影ともさよならしてウツラウツラしていたら、
いつのまにか、間近に島が見えてきました。

これが、小値賀島でしょうか?




カメラを望遠にしてみると・・・読めました。 
「おぢか空港」の文字。

定刻通り10時45分、笛吹港に到着。

暑い!
強烈な日差しと湿気・・・ここもほんとに長崎県?と感じるくらいです。


荷物もあるし、まっすぐ予約していた民宿に。

「すみません。いま掃除してるのでちょっと待ってくださいね~」

チェックインにはちょっと早いかったので、隣の喫茶店で冷たいものでも・・と入ってみたら、
な~んだ、宿のご主人がこっちでもマスターしてる。

かき氷とピザを食べながら、ご主人の小値賀自慢に耳を傾け・・

そうそう、このご主人があのパンフレット表紙絵の作者なのです。

そして、「よかったら午後から島内を案内しましょうか?」と言って下さいました。

ラッキー!

お言葉に甘え、食後一休みしてから、島内一周にしゅっぱーつ!


最初に車を降りたのは、赤浜海岸



その名の通り、赤茶色の砂浜が続いています。
なぜ赤いのか?
それは、小値賀島は火山列島なので、砂浜も火山岩の砂礫でできていて、多くの鉄分を含んでいます。
その鉄分が酸化して赤くなったのだそうです。



それにしても、赤い浜だと、ゴミも目立ちますね・・

ご主人の話では、きれいに掃除しても、翌日にはすぐゴミが流れ着いてきりがないんだとか。。
朝鮮半島からの物もけっこうあるそうです。




確かに、このお菓子の袋はハングル文字です。

でも、この海岸のすぐそばには、こんなきれいな花も咲いていました。
初めて見る花です。
なんて名前だろう?



こちらは、はまゆうですね。



赤浜海岸から東へしばらく走ると茶色の建物が現れました。

小値賀島空港ビルです。

でも、今は閉鎖中。
以前は長崎と福岡への便があったけど、平成6年以降は就航していないらしい。
人口減少、船便の充実などの影響でしょうか。


ここから見ると、飛行場というより、たんなる原っぱみたい・・


次に訪れたのは、神島(こうじま)神社



創建は飛鳥時代末期らしい。
その頃、遣唐使船団の航路が五島列島経由に変更されたことから、
遣唐使の航行を助けたと言われる神社で、実は一対を成しているのです。

小値賀島の神社は「地神島神社(ちのこうじまじんじゃ)」
野崎島の神社は「沖神島神社(おきのこうじまじんじゃ)」と呼ばれ、
向かい合って建っています。

社殿から鳥居の方に向かって歩いて行くと、海が見えてきて、
その向こうの島が野崎島、
そしてその島の左山腹中ほどに、沖神島神社が米粒ほどに確認できました。



眼下の海は透き通っていて、海底の岩についた藻の緑が揺れて見えます。


再び車に乗り、今度は少し高台に向かいました。
わずか85mの愛宕山
でも、そこからの眺めは広々とした空間。心まで解放されていくようです。

海も空も広くて青くて・・野崎島も海色に染まっています。
草原の緑だけが、やけに元気そうでした。


ここは、小値賀島の中央部分を走る松林、「姫の松原」

日本の名松百選に選ばれたみごとな松並木。
400~500mほど続いています。





小値賀本島を4分の3ほど周り終えたところで、
ご主人は橋を渡って斑島へ連れていってくれました。

再び海岸に出ました。
ここに何があるんだろう?


ポットホール?Pot Hole? なんだろう?
日本語で玉石甌穴と書かれていますが、わかりません。


説明板を読むと、こういうことのようです。

玄武岩の裂け目にできた穴(深さ3m口径2m底径1m)に直径50cmの玉石がはいっている。
それがどうやってできたかというと、
岩の裂け目から勢いよく入ってきた波が、中の石を動かし転がす。
石は回転しながら穴の壁を削り続け、自分も磨かれ光り出す。
日本最大規模の甌穴で、国の天然記念物に指定されている。

(あとで調べたら、なんと世界でも2番目に大きい甌穴だって!)

どんな石でしょう?ワクワク・・


軽石のお化けのような岩が並んでいます。
その間の道を進んで行くと・・・


ありました!

これです!

写真じゃ見にくいですが、実際には本物の目玉のように見えて、ギョっとしました。

数千年もの間、波に洗われ、岩にぶつかり・・
角が取れて、磨き合い、
つるつるでまん丸な玉石となったんですね。
悠久の自然の力に圧倒されました。

だけじゃない。
それは、まるで大きな目玉のよう。

美しの島「おぢか」を見守り続けてきた偉大なる者の目?
そんな、私らしくもない発想に我ながらビックリ。

きっと、このうだるような暑さと、眩しすぎる海の青さのせいでしょう。。



斑島を出てからは一路宿へ。
お風呂に入り、ああ~さっぱり!

夕食時のビールの1杯は格別で、

福岡の電気工事屋さん、
神奈川県は葉山のカメラマンさん、
佐世保市の営業マンさんなどと話が盛り上がり、楽しい夕食でした。

民宿のおかみさん、遅くまでごめんなさい。  m(_ _)m

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ほーちゃん

2010-08-03 | 石木ダム

石木ダムの建設予定地に住む人の中に「ほーちゃん」という若い女性がいます。

ほーちゃんはとても感性が豊かで、絵を描いたり写真を撮ったりしています。

そんな特技を生かして、自分らしい石木ダム反対運動、

「こうばるを想う1000のメッセージプロジェクト」というのを始めました。

以前もこのブログで少し紹介しましたが、

再びあらためてご紹介しますので、どうぞ彼女のブログを覗いてみて、

http://hozumix.blog32.fc2.com/

よかったら、そのプロジェクトにご協力下さいますよう宜しくお願い致します。

 

また、ほーちゃんは、自分がやっていることの意味や想いをより多くの人たちに伝えたい…と、

フリーぺ-パー「こうばる」も発行しています。

先日、その2号と3号を頂いて読みました。

まっすぐで、しなやかで、自分に正直に生きようとする若者がそこに居ました。

 

ここでは、3号の裏面に印刷された文面をお届けして終わりにします。

あとはどうぞ、先ほどのブログを訪ねて、直に「ほーちゃんワールド」を楽しんでください。

 

 

*こうばるに暮らす*

 

今から約十年程前、高校を卒業したほーちゃんはすぐに名古屋に移り住んだ。

美術の予備校に通うためにわざと都会に引っ越したのだが、

わずか10日通っただけで受験絵画に飽きてしまい、通うのをやめた。

せっかく都会に出てきたのだから何かものにしないと!とふらふらしていたあの頃。

そんな中の「あの電話」はたしか田植えの終わった直後だったと思う。

実家から母が心配して夜に電話をかけてきたのだ。

何を話したとかそういうことはほーちゃんにとってさほど重要ではなかった。

とにかく母のうしろからシャワーのように

カエルの鳴き声が降り注いでいたのだ。

カエルの大合唱を聞いて「ああ…これだ!」と懐かしさがぐつぐつとわいてきた。

「そこに行きたい、帰りたい」と思った。

実家を離れて、ようやく“田舎”にあって“都会”にないものに

客観的に気付いた瞬間だった。

名古屋には名古屋独特の面白さがあり、それはそれでとても楽しかった。

しかし自然環境としては、名古屋市中心部を流れる川はドブ川のようで

橋の上を通過しただけでも汚水の匂いが上がってくるし、

地面はコンクリートで固められた、そんな土地ばかりであった。

 

その後、ほーちゃんは「自然」と「仕事」を求めて長野県の

とあるレタス農家に住み込みのアルバイトに出た。

でも…ここも何か違うのだ。

「こうばる」とは全然違う環境だった。衝撃的だった。

そこは戦後アメリカによって農業改革が起こり、どんどん森を開拓しまくって

高原野菜畑だらけにしてしまった「商業的農業」のへんてこりんな村だった。

農民の目は半年で一年分の生活費を稼ぐために

目がつり上がっていた(ように見えた)。

人の命を金に換算する風潮がはびこっていて恐ろしい世界に

(ほーちゃんには)見えた。

そして「人間はカネでくるってしまう弱い生き物でもあるのだ」と悲しくなった。

 

それからも、何度も北海道の酪農家に出稼ぎに出ようかと悩んだが、

行き過ぎた農業の在り方は「何かおかしい」という結論に達してしまった。

だから今、細々と「こうばる」で暮らしているほーちゃんがいる。

 

 

 

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8月の詩

2010-08-02 | 佐世保・長崎

長崎新聞に「マンスリーポエム」というコーナーがある。

毎月初め、その月に相応しい、しかも長崎にゆかりのある詩人の詩を紹介する欄である。

今月、つまり「8月の歌」は、大村市在住の詩人、馬場敦子さんの『海の墓』が掲載されていた。

 

私には、詩の題名と内容がピッタシこなくて、なんとなく違和感があるけれど、

でも「8月の詩」というテーマにはバッチリ!

 

日本中が、そして長崎は特に、命について考える「8月」だが、

このような「とろとろとおだやかな」視点も 私は好き・・

 

 

          海の墓

 

     海を見下ろす小さな寺の

     肩先には小さな墓地

     その通路のわきのほんの片すみに

     小さな小さな墓がある

     文字はとうに消えうせ

     水浅黄の苔にくるまれて

     まどろむ猫の背のようにまろやかに

 

     祖母にあたるひとが

     墓参りのついでにちょいと寄って

     拝んでいきよったと義父は言う

     誰の墓か知りゃせんとばってが

     ばあちゃんに聞いても答えんとやもんばのう

 

     笑いながら語る義父も、義母も

     寺参り墓参りのついでに

     ひょいとここへ寄っては線香をあげるのだった

     指先でうっすらと文字の溝をたどってみても

     もう確かめられない

     すでにそんな必要もないほど

     ほっこりと充足した石の墓

 

     しかたんなかさのう

     縁のあったもんかもしれんたい

 

     手慣れたはやさで花と水をかえ

     身内のようなぞんざいさで手を合わせる

     私の会ったこともない死んだばあちゃんの

     まるい背がかさなる

     家族のだれもいわれを知らぬ

     小さな出会いのかたみのような

     石の墓もついでにうけつぐ

 

     眼下に広がる内海は

     夏のつよい光を反射して

     どこまでも とろとろとおだやかだ

 

 

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最高の避暑地

2010-08-01 | 石木ダム



ここがどこだかわかる人はほとんどいないでしょう。

石木川の支流で・・・おっと、名前と位置はナイショ!

地元の人たちでさえ、「こんないいとこがあったなんて、今まで知らんかったよ~」と、
悔しがる人も何人かいましたから。

きっと、知る人ぞ知る秘密の避暑地かも…

7月23日から工事が中断されて、少しだけ気持ちの余裕が生まれたのでしょうか、
座り込みの慰労も兼ねて、反対同盟の皆さんが河原でのバーベキューを企画。
私も誘われて、喜んで出かけました。

地元の方も知らなかったというのも納得です。
道を歩いていては全く気付かない。
その流れは樹木に覆われるようにひっそり隠れていて、
私もタクシーで通り過ぎてしまいました。

それまで無口だった運転手さんが、この支流沿いの狭い道に入ると、

「懐かしいな~。以前はこの辺よく来ましたから。
 いえね。仕事ですよ。お客さんを乗せてね。
 今は森のごとなっとりますが、この辺も昔は家があったとですよ」

「らしいですね。ダムができるからということで、移転されたそうですね」

「・・・・・」

「この先も何もありませんよ」

「いいんです。河原で遊ぶために来たんですから。この辺でバーベキューをやってるはずなんですが…」

携帯でSさんに連絡を取ると、どうも行き過ぎたらしい。運転手さんに話して戻ってもらう。
といっても、Uターンする場所も道幅もなく、かなり前進することに…。

どこから来たのか訊かれたので、

「佐世保です。すみません、早めに電話しておよその場所を聞いておけばよかったですね」と言うと、

「いあやー、よかですよ。さっきメーターは止めましたから、この金額でいいですからね」

「あ、あそこに煙が出てますよ。きっとあの下でしょう」

「この辺の川はきれいかですよ。佐世保からでん来た甲斐があったと思わっしゃるですよ」

と、とても優しい言葉をかけて下さいました。


ここです!



ほら、こんなに広くて、涼しい木陰になっていて、
上からは全く見えないのに、下では木漏れ日でけっこう明るいんですよ。

素足で水の流れの感触を楽しみながら、飲んだり食べたり・・・なんて贅沢なんでしょう!

この木々の上の道には、今日も真夏日の太陽が照りつけているのに・・・ここは別天地です。




炭火で焼いた肉も魚もお野菜も、最高に美味しかったな~
おこわのおにぎりも!

そして、これ…



この長ーい竹の中を流れてくるもの・・



もちろん、そうめん流し!です。

山から引いた水を、伐ったばかりの竹の器に注ぎ、その中を流れてくるそうめんは絶品!
美味しくて、その上、次々に流れてくるので、ついツルツルと喉にも流し込んでしまいました。




川に流れおちたそうめんを、サワガニまで美味しそうに食べています。 




トンボも水遊びに来ていました

初めて見るトンボです。なんて名前だろう?オレンジがかった茶色の羽がとてもきれいでした。




見えますか?
真ん中辺りに、黒いアゲハ蝶が3羽並んでいます。

Kさんの話によると、いつもこの場所に来るそうです。
「こっちのみーずはあーまいぞ~」なのかもしれません。




カニや虫だけじゃないよ。

僕たち人間も川が大好きだよ。

きれいな川で遊びたいよ。

僕はまだ生まれて11カ月なんだ。

僕が小学生や中学生になっても、夏休みにはここに遊びにきたいな。

このまんまの川・・・残しておいてね。


ここをダムにしないでね。



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