静子さん
あの日から、もう25年がたったんですね。
昨夜、TVのニュース番組で、その特集をやっていました。
日本航空123便の墜落事故。
今年も多くの遺族が、御巣鷹の尾根へ登りましたが、その中に24歳の若者の姿がありました。
事故当時まだ母親のお腹の中にいたから、父親の顔も声も知りません。
が、母親から聞いて育った父のイメージは若者の中にしっかり根を降ろしているようです。
毎年、母親と共に慰霊登山するたびに、父親の存在を確認していたのかもしれません。
慰霊式の途中で、涙ぐむ母親の肩をそっと抱いた彼の姿が印象的でした。
私の友人静子さんも、その飛行機=日本航空123便に乗っていました。
ご主人と、2人の幼子と共に乗っていて、全員亡くなりました。
その名前の通り、物静かな雰囲気の女性でした。
でも、4人姉妹の長女らしく、控えめな中にも頼りがいのあるしっかりした性格の人でした。
職場で机を並べ、1年先輩の私は少しだけ先輩風を吹かせることもありましたが、
プライベートの時間では、むしろ私の方が甘えていたかもしれません。
その頃は横浜に住んでいた私たちですが、それぞれの結婚で遠く離れてしまいました。
会えなくなって5,6年ほどたった8月12日夜、飛行機事故のニュースを見ましたが、
何も考えず寝てしまいました。
ところが翌朝5時前、私は静子さんの夢を見て目覚めました。
びっしょり汗をかいていたのは、ただ暑かったからだと思いましたが、
気になってすぐTVをつけました。
NHKの画面には、ただ淡々と名前が流れていました。
何人も何人もの知らない名前が通り過ぎて行くのですが、私はTVの前から離れられないのです。
この中に、その名前が出てくることがまるで私にはわかっていたような・・・
そんな感じでした。
そして、やはり、出てきたのです。
気が動転することもなく、涙を流すこともなく、ただ「やっぱり…」と。
その日は一日中、TVの前に座りっぱなしでした。
翌日だったか、翌々日だったか・・
静子さんの妹さんから電話がありました。
私が持っている静子さんの写真の中に、ある洋服をが写ってないか訊かれたのです。
つまり、まだ身元確認のできてない遺体は、どれも判別不可能なほど損傷が激しく、
身につけている衣服の切れ端から判断せねばならないほどの状況でした。
でも、その日、静子さんが着ていた服について、ご両親には心当たりがなかったのです。
帰る日の前日はご主人の実家に泊まったので、当日の服装はそのご実家の方から聞かれたのですが、
その説明で思い当たる服の記憶はなく、
それで、友だちの誰かが、その服を着て写っている娘の写真を持っていはしないか・・
と考えられたようです。
残念ながら私のアルバムの中には該当する服の写真はなかったので、
共通の友人知人にあたってみましたが、答えは皆おなじでした。
数日後、遺体発見の電話。
「見つかったと言うか・・母が無理やり見つけたという感じです」
「歯型を照合しようにも、歯もありませんから・・
『この耳の形は静子にまちがいありません』と、母が言い張ったのです」
電話を切った後、涙があふれて止まりませんでした。
色が白くて、きれいな肌の女性でした。
和風で、良妻賢母型の女性でした。
いま生きていたら、平凡な優しいおばあちゃんになっていたかもしれません。
亡き友の思い出を、今日、語る気になったのは、
昨夜の若者のせいです。
彼は大学時代、事故のことを知らない人がいることに驚きました。
そして、事故を風化させないように、未来に語り継ぎたいと思ったそうです。
私は事故については語れないので、静子さんについて語ってみました。
静子さんの存在が風化しないように。
そして、それは、その静子さんの命を奪った航空機事故を風化させないことに繋がるのではないか…
そんな気がしたのです。