8月6日、小値賀島の最終日です。
まず向かったのは「牛の塔」
これは、建武新田開発工事で犠牲になった使役牛の供養塔です。
鎌倉時代末期といいますから、今から680年くらい前でしょうか。
その頃の小値賀島は、まだ東と西の2つの島に分かれていました。
平戸松浦家の定公は、2つの島の海峡部分を埋め立て田地を作る工事に取り組みました。
機械の無い当時の主要労働力は牛で、多数がその難工事の犠牲になりました。
工事が完成した建武元年(1334年)、その牛たちの供養塔を建立し、
その下に、法華経を記した一字一石経を埋めたと言われています。
一字一石経というのは、小石1個に経文の1文字を書いたもので、
6万個!も納められたそうです。
今でも毎年「牛の塔祭」と称する慰霊祭が行われているそうです。
現在は使役牛ではなく、肉牛が草を食む姿があちこちでみられます。
放牧された牛たちが草を上手に食べるので、まるで芝生のグリーンが広がっているよう!
小値賀島にとって牛は、昔も今も大切な存在なんですね。
ここは、小値賀町歴史民俗資料館。
まさに小値賀の歴史の宝庫!
約4万点もの展示物が並べられたこの館は名家小田家の屋敷跡。
真ん中奥の白い物は、「マッコウ鯨の歯」と書かれています。
手前に置かれているのは、クジラの骨で造られた杖です。
小田家は江戸時代の初期に、捕鯨をするために壱岐から小値賀島に移住してきました。
当時いくつかの鯨組がありましたが、小田組の鯨漁は規模といい技といい群を抜いていたそうです。
こちらは、船森教会跡の写真と、神父様の衣服です。
船森教会というのは、野首教会と同じ野崎島にありますが、
それぞれのキリシタンの発祥はやや異なっています。
野首集落のキリシタンは、外海(そとめ)地方から下五島を経由して、野崎島に渡ってきた人たちで、
一方、船森は、処刑寸前に助けられたキリシタン3人が住み着き生まれた集落でした。
江戸時代末期のある日、小値賀島の船問屋が、
大村の海岸で打ちひしがれたように佇む3人に出会います。
聞けば、明日は処刑されるという隠れキリシタンの3人でした。
彼らに同情した船問屋は、3人を船荷の中に隠まいます。
途中、役人の検問に会い、あわや彼もまた打ち首か?という危機もありましたが、
どうにか無事に小値賀に連れ帰ることができました。
そして、3人を人目につかない野崎島の南部(当時は無人だった)船森に住まわせ、仕事も与えました。
彼らは後から移住してきた人々と共に集落を作り、一時は150人を超えていましたが、
昭和41年、廃村となりました。
船森集落の人々にとっては救いの神であった船問屋の田口家の子孫が、
実は、今回お世話になった民宿のご主人だったのです。
彼はクリスチャンではありませんが、
先祖の偉業を称えて、昨年5月、この集落跡地に十字架を建てたそうです。
長崎には隠れキリシタンにまつわるたくさんの話がありますが、
他県に育った私は何も知りません。
踏み絵についても歴史の時間に学びましたが、見るのは初めて。
もっと大きくて薄いものかと思ってました。
これは、小さめのお弁当箱くらいかな。
小値賀島の歴史は意外と古いのです。
比較的平坦な地形なので、人々が住みやすかったことから、
約2万5000年前、後期旧石器時代に小値賀の人類の歴史は始まったといわれます。
これは縄文時代の遺跡から出土した矢じりですが・・・
小値賀島とその周辺は、火山列島で、大地は玄武岩などの火山岩からできており、
この矢じりの原材料である黒曜石は存在しません。
専門家の話では、この黒曜石は、佐賀県か大分県のもののようです。
また、これらの矢じりは、固まって出土したということで、まるで矢じり工場跡のようだったと…
ふーむ。
この謎について、この資料館を案内して下さった女性は、
「 たぶん、この島に矢じり造りの技術者のような人がいて、
遠くから船で原料の黒曜石が運ばれ、ここで大量生産していたんじゃないでしょうか?」
と、説明して下さいましたが、私はイマイチ納得できませんでした。
交通手段も通信手段もほとんどない縄文時代に、
西の離島に、矢じり作りの名人がいるってことが、果たしてどこまで伝えられるだろう?
できた矢じりは、また誰かが取りに来る?何かと物々交換という形で?
それはあまりにも現代的な発想のような気がするのですが…
いずれにしても謎とロマンがいっぱいで、わくわくします。
この資料館=小田家の屋敷は、なんと270年前の建物だそうで、
庭には日本庭園があり、裏庭には、つるべ井戸も残っていました。
こちらも本物を見るのは初めて!
さあて、そろそろお時間です。
宿に荷物を取りに行き、お隣の喫茶店で、またお昼をいただきました。
今回はピラフと、かき氷のレモン。
歌好きのご夫妻は、時々佐世保までカラオケをやりにくるそうで…
佐世保での再会を約して別れました。
帰りは高速船ではなく、フェリー「なるしお」に乗船します。
いつも、我が家(マンション13階)の窓から見慣れた姿ですが、近くで見ると、とても大きく感じます。
14時出港。
小値賀島がだんだん小さくなっていきます。
野崎島ともお別れです。
船森地区にズームイン!
段々畑がきれいに残っていて、まるで、まだ人が手を加えているみたいですが、
実は、そうではありません。
これが、ディアライン。
鹿が草をムシャムシャ食べていくと、その口が届かない高さの草は残りますね。
遠くから見ると、横に伸びた緑の線が幾重にも連なっていて、
まるで段々畑のようです。
野崎島にはシカの好物の植物がたくさん生えているんですって。
鹿の天国ですね。
そのうち「小値賀島」の「おぢか」は「小鹿」や「王鹿」や「邑鹿」に変化したりして・・・?
ようやく佐世保湾入口が見えてきました。
左手が佐世保市高後崎、右手は西海市寄船鼻、奥に見える尖った山は、川棚町のシンボル虚空蔵山!
3本の円柱は、佐世保市民なら誰もが知っている針尾の無線塔。
旧日本海軍の無線送信所電波塔で、
太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ」を発信した施設として有名です。
さて、いよいよ佐世保港が近づいてきました。
いつもは、あの窓からこっちを見てるんだよな~
たまには立ち位置を変えて見るのもいいものです・・・ネ
まず向かったのは「牛の塔」
これは、建武新田開発工事で犠牲になった使役牛の供養塔です。
鎌倉時代末期といいますから、今から680年くらい前でしょうか。
その頃の小値賀島は、まだ東と西の2つの島に分かれていました。
平戸松浦家の定公は、2つの島の海峡部分を埋め立て田地を作る工事に取り組みました。
機械の無い当時の主要労働力は牛で、多数がその難工事の犠牲になりました。
工事が完成した建武元年(1334年)、その牛たちの供養塔を建立し、
その下に、法華経を記した一字一石経を埋めたと言われています。
一字一石経というのは、小石1個に経文の1文字を書いたもので、
6万個!も納められたそうです。
今でも毎年「牛の塔祭」と称する慰霊祭が行われているそうです。
現在は使役牛ではなく、肉牛が草を食む姿があちこちでみられます。
放牧された牛たちが草を上手に食べるので、まるで芝生のグリーンが広がっているよう!
小値賀島にとって牛は、昔も今も大切な存在なんですね。
ここは、小値賀町歴史民俗資料館。
まさに小値賀の歴史の宝庫!
約4万点もの展示物が並べられたこの館は名家小田家の屋敷跡。
真ん中奥の白い物は、「マッコウ鯨の歯」と書かれています。
手前に置かれているのは、クジラの骨で造られた杖です。
小田家は江戸時代の初期に、捕鯨をするために壱岐から小値賀島に移住してきました。
当時いくつかの鯨組がありましたが、小田組の鯨漁は規模といい技といい群を抜いていたそうです。
こちらは、船森教会跡の写真と、神父様の衣服です。
船森教会というのは、野首教会と同じ野崎島にありますが、
それぞれのキリシタンの発祥はやや異なっています。
野首集落のキリシタンは、外海(そとめ)地方から下五島を経由して、野崎島に渡ってきた人たちで、
一方、船森は、処刑寸前に助けられたキリシタン3人が住み着き生まれた集落でした。
江戸時代末期のある日、小値賀島の船問屋が、
大村の海岸で打ちひしがれたように佇む3人に出会います。
聞けば、明日は処刑されるという隠れキリシタンの3人でした。
彼らに同情した船問屋は、3人を船荷の中に隠まいます。
途中、役人の検問に会い、あわや彼もまた打ち首か?という危機もありましたが、
どうにか無事に小値賀に連れ帰ることができました。
そして、3人を人目につかない野崎島の南部(当時は無人だった)船森に住まわせ、仕事も与えました。
彼らは後から移住してきた人々と共に集落を作り、一時は150人を超えていましたが、
昭和41年、廃村となりました。
船森集落の人々にとっては救いの神であった船問屋の田口家の子孫が、
実は、今回お世話になった民宿のご主人だったのです。
彼はクリスチャンではありませんが、
先祖の偉業を称えて、昨年5月、この集落跡地に十字架を建てたそうです。
長崎には隠れキリシタンにまつわるたくさんの話がありますが、
他県に育った私は何も知りません。
踏み絵についても歴史の時間に学びましたが、見るのは初めて。
もっと大きくて薄いものかと思ってました。
これは、小さめのお弁当箱くらいかな。
小値賀島の歴史は意外と古いのです。
比較的平坦な地形なので、人々が住みやすかったことから、
約2万5000年前、後期旧石器時代に小値賀の人類の歴史は始まったといわれます。
これは縄文時代の遺跡から出土した矢じりですが・・・
小値賀島とその周辺は、火山列島で、大地は玄武岩などの火山岩からできており、
この矢じりの原材料である黒曜石は存在しません。
専門家の話では、この黒曜石は、佐賀県か大分県のもののようです。
また、これらの矢じりは、固まって出土したということで、まるで矢じり工場跡のようだったと…
ふーむ。
この謎について、この資料館を案内して下さった女性は、
「 たぶん、この島に矢じり造りの技術者のような人がいて、
遠くから船で原料の黒曜石が運ばれ、ここで大量生産していたんじゃないでしょうか?」
と、説明して下さいましたが、私はイマイチ納得できませんでした。
交通手段も通信手段もほとんどない縄文時代に、
西の離島に、矢じり作りの名人がいるってことが、果たしてどこまで伝えられるだろう?
できた矢じりは、また誰かが取りに来る?何かと物々交換という形で?
それはあまりにも現代的な発想のような気がするのですが…
いずれにしても謎とロマンがいっぱいで、わくわくします。
この資料館=小田家の屋敷は、なんと270年前の建物だそうで、
庭には日本庭園があり、裏庭には、つるべ井戸も残っていました。
こちらも本物を見るのは初めて!
さあて、そろそろお時間です。
宿に荷物を取りに行き、お隣の喫茶店で、またお昼をいただきました。
今回はピラフと、かき氷のレモン。
歌好きのご夫妻は、時々佐世保までカラオケをやりにくるそうで…
佐世保での再会を約して別れました。
帰りは高速船ではなく、フェリー「なるしお」に乗船します。
いつも、我が家(マンション13階)の窓から見慣れた姿ですが、近くで見ると、とても大きく感じます。
14時出港。
小値賀島がだんだん小さくなっていきます。
野崎島ともお別れです。
船森地区にズームイン!
段々畑がきれいに残っていて、まるで、まだ人が手を加えているみたいですが、
実は、そうではありません。
これが、ディアライン。
鹿が草をムシャムシャ食べていくと、その口が届かない高さの草は残りますね。
遠くから見ると、横に伸びた緑の線が幾重にも連なっていて、
まるで段々畑のようです。
野崎島にはシカの好物の植物がたくさん生えているんですって。
鹿の天国ですね。
そのうち「小値賀島」の「おぢか」は「小鹿」や「王鹿」や「邑鹿」に変化したりして・・・?
ようやく佐世保湾入口が見えてきました。
左手が佐世保市高後崎、右手は西海市寄船鼻、奥に見える尖った山は、川棚町のシンボル虚空蔵山!
3本の円柱は、佐世保市民なら誰もが知っている針尾の無線塔。
旧日本海軍の無線送信所電波塔で、
太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ」を発信した施設として有名です。
さて、いよいよ佐世保港が近づいてきました。
いつもは、あの窓からこっちを見てるんだよな~
たまには立ち位置を変えて見るのもいいものです・・・ネ