先日掲載した石谷閑子さんの訴え(1985年1月)を読んで、「全然知らなかった」とか「勉強になりました」とかいろいろメールを頂きました。
ああ、私だけじゃなかったんだなあ。
こんな大事な法律が決まろうとする時に、まるで他国のことのように、自分自身が無関心であったり、マスコミの怠慢で知らされてなかったり・・・そんなふうにして、この国の未来は決まってきたんだなぁと思いました。
そんな中でも、ごく一部の熱意ある人々がいます。
自分たちの暮らしがより良いものになるよう、他人任せにするのではなく、一市民として真剣に考え、声をあげ、行動する人々です。
自分の考えを押し付けるのでもなく、自分の無力さを嘆くのでもなく、淡々と、しかし希望を持って行動し続ける人々です。
ここ佐世保でも、そういう人々に出会えたことをたいへん嬉しく思っています。
その中のお一人Sさんから頂いた感想が、ズシリと心に響きました。
石谷さんの訴えをテープ起こししてくださったO先輩はもちろん、このブログを読んでくださっている皆さんにもお伝えしたいと思い、ご本人の許可を得ましたので、ご紹介します。
「佐世保便り」で紹介された、石谷閑子さんの訴えを読ませて頂きました。
貴重な資料です。
「正論」は、ややもすると「俗論」に押し流されます。
「結果」が出て、世間は反省します。(反省しない人もいますが・・・)
しかし、世間は、世代交代の中で、「反省したこと」を忘れます。
「戦争」、「原爆」についても、そんな気がします。
「戦争」、「原爆」についても、そんな気がします。
「先見の明」を見抜き、「正論」を世間の多数に、
「生活の知恵」にし続けるためには、どうしたらよいのでしょうか。
「生活の知恵」にし続けるためには、どうしたらよいのでしょうか。
眼前にある「派遣労働」、「金融危機」、「テロとの戦争」、「地球環境」etc
私たちの「思考」への課題のように思います。
私自身が 「俗論」に押し流されないようにするためにはどうしたらいいのか…
「反省したこと」を忘れないようにするためにはどうしたらいいのか…
「先見の明」を見抜き、何が「正論」であるかがわかるようになるにはどうしたらいいのか…
いま言えることは、私ひとりでは何もできないということ。
私ひとりの乏しい情報量や思考力の中では、すぐに俗論に流され、先見の明にも気付かず、いつも後の祭り・・・という繰り返しになりそうです。
情報を発信し合って、考えを伝えあって、少しでも自分自身の思考力を育んでいけたら…と願っています。
「反省したこと」を忘れないようにするためにはどうしたらいいのか…
「先見の明」を見抜き、何が「正論」であるかがわかるようになるにはどうしたらいいのか…
いま言えることは、私ひとりでは何もできないということ。
私ひとりの乏しい情報量や思考力の中では、すぐに俗論に流され、先見の明にも気付かず、いつも後の祭り・・・という繰り返しになりそうです。
情報を発信し合って、考えを伝えあって、少しでも自分自身の思考力を育んでいけたら…と願っています。