貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

瑞巌寺 津波記念碑! 

2022-11-20 11:26:02 | 日記
令和4年11月20日(日)
松島市: 瑞 巌 寺    
     
   平安時代創建で、
現在は臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷。
 古くは松島寺と呼ばれる。
   今回は、平成の大修理の最中に参拝。

   観光客や参拝者は多い。

 大修理のため、拝観できず。
<本堂>

 その代わりにはならないが、
   建造物や宝物などの拡大写真や
諸々の工事の説明など、
写真付きでよく分かるよう工夫。
     
  



 
 

 もう大修理も終わっているだろう!
 境内には、
「臥龍梅」と呼ばれる
紅白二本の梅の木があり、
伊達政宗お手植えの梅。

 また、
参道にはシンボルとも言える杉並木
があったが、
平成23年(2011)3月11日の
東日本大震災の津波に見舞われしまい、
その後の塩害によって立ち枯れが
目立ったことから、
約三百本が伐採の憂き目。
「ここまで津波が来たよ」
という表示板もある。
<津波記念碑>

 「四寺廻廊」という巡礼コースは、
瑞巌寺、平泉中尊寺・毛越寺、
山形立石寺を巡ること。
これからの予定のコースでもある。                      
 毎年、11月第2日曜日には、
芭蕉祭が行われているという。 
 道路沿いに、
日本三景展望台を初めて発見。

 以前からあったかな? 


櫻おもはす千松島?

2022-11-18 14:25:04 | 日記
令和4年11月18日(金)
松島市: 五 大 堂  
 五大堂へ 
     
 
 現在の建物は慶長9年(1604)、
伊達政宗公が造営する、
東北地方最古の桃山建築。
 大きさ方三間(22.68尺=6.87m)、
宝形造、本瓦葺。
  <五大堂の説明>

 軒まわりの蟇股に、
方位に従って十二支の彫刻が配されている。 
 正面に掲げられている額には
「五太堂」と彫られているが、
正確には「大」が正しい。
 揮毫は105世天嶺。
「太」の字は筆の遊びともいわれている。
 慈覚大師手彫りと伝えられる
厨子内の五大明王(国重文、中央・
不動 東・降三世 南・軍荼利 
西・大威徳 北・金剛夜叉)は、
平安時代中期に制作された秘仏で、
33年に一度開帳される。
<日本三景碑>

 次回の開帳は2039年の予定。
祭礼日は8月20日。
 現在の堂へ渡るすかし橋は、
縦板が2枚しつらえられているが、
もともとこの板はなく、
はしご状であったという。
 現在のすかし橋

 
 横板の間隔も5寸(約15cm)程有り、
江戸後期の紀行文に、
恐ろしくて渡る事ができなかった人
の事が紹介されている。
 江戸の井上春蟻の句碑等
いくつかの句碑もある。

  春蟻の句は、      
「世の中の 
   櫻おもはす 
       千松島」 。 


千手の誓いも!

2022-11-17 13:46:09 | 日記
令和4年11月17日(木)
第43番 西予市: 
 明石(めいせき)寺    
 当寺は、「めいせきじ」と呼ぶ。
「あかしじ」ではない。

  欽明天応の勅願により、
行者・円手院正澄が
千手観世音菩薩を安置。
 七堂伽藍を建立したのが始まり
と伝えられている。

 天平六年(734)には、
寿元行者が紀州熊野から
十二社権現を勧請し、
十二坊を 建てて修験道場となる。
 弘仁十三年(822)、
嵯峨天皇の勅願により、
弘法大師が荒廃した伽藍を再興して、
四国霊場に定める。

 建久五年(1194)には、
源頼朝が命の恩人である池禅尼の菩提を
弔うため、
阿弥陀如来像を安置。
 経塚築いて堂宇を再興し、
山号を「源光山」と改める。

 室町時代には西園寺氏の祈願所となり、
寛文十二年(1672)に、
宇和島藩主・伊達宗利が
菩提寺として現在の御堂を建立。
 仁王門の右手に延命地蔵堂があり、
尊像は子育てと病気平癒祈願のご利益を
授かる仏様。
 特に耳の病に霊験があり、
産後の母乳もよく出ると、
昔から信仰されている。
 地元では、「あげいしさん」
と親しまれる明石寺。
 その昔、
若く美しい娘が深夜に願をかけながら
大きな石を運んでいた。
 ところが、天邪鬼が鶏の声を真似て
鳴いたのを夜明けと思い驚き、
消え去ってしまう。

 この女性は千手観世音菩薩であると
伝えられ、ご詠歌の
「聞くならく 千手の誓いの
 不思議には 
 大磐石も かろくあげいし」
もこの故事から来ている。
 本堂の屋根は、珍しい茶系の釉薬瓦。
 正面に出鼻獅子、
左右にバク、
中央に龍を配し、
懸魚の鳳凰が見事。
大師堂、仁王門ほか八棟が

登録有形文化財の指定を受けている。



見仏上人の再来・頼賢の庵と雄島の絶景に感嘆!!!

2022-11-16 10:12:45 | 日記
令和4年11月16日(水)
<雄島編 3>
 島の南端には、
頼賢の碑が六角形の鞘堂の中に
納められている。
    頼賢堂

 ここに22年間住み、
その間ついに一歩も島を出なかったという
僧の頼賢は見仏上人の再来と崇められる。

 高さ3メートルの碑の表面には、
まわりに雷文と唐草が施され梵字とともに、
「奥州御島妙覚庵」
「頼賢庵主行実銘並序」
の文字が刻まれている。
 頼賢の碑

 頼賢の碑説明
 
 本文は、頼賢の徳を讃えたもので、
松島の古い時代の様子も記載されている。

 北の端にある「妙覚庵敷」は、
見仏上人の修行する場所(見仏堂跡)。
 享保17年(1732)になって、
僧良哉が一庵を建て、
六時念仏の道場にしたいと懇願したのに応え、
瑞巌寺第105代天嶺性空が、
三万人からの布施を集め建立する。
 その後、荒廃して建て直される。
 最後の堂宇は瑞巌寺に移築され、
近年まで執事寮として使用されていた。
 <津波の痕跡>

 雄島を訪れる人は、
私を含め数名。
 見応えのある島のひとつという印象。
<雄島からの絶景>

 雄島から見る松島の島々も、
これまた美しい!



松島への恋心・・・片想いぞ!~雄島篇2

2022-11-15 10:57:28 | 日記
令和4年11月15日(火)
<雄島篇№2>
 「奥の細道」の標柱と句碑が立っており、

江戸時代へタイムスリップ!
 句歌碑群あり。
 その中で、芭蕉と曾良の句碑を選別する。
芭蕉句碑

 芭蕉の句は、
「朝よさを 
  誰まつしまぞ  
      片心」
    (桃舐集 元禄元年)
その意は、
「朝な夕なに、
 私は松島の旅に心惹かれている。
 まるで、片思いしている相手を
待っているような気持ちだ。」
 そして、
曽良の句は、
曽良の句碑

「松島や  
   鶴に身をかれ 
     ほととぎす」
「ここ松島につりあうには、
  鶴の衣に身をまとって
 優美になっておいで、
 ほととぎすよ。」
という意。

 松島吟並序碑は、


 寛政元年(1789)に雄島の最北端に
建てられた石碑で、高さは2メートル程。
 瑞巌寺の「奥の細道」碑と
同じ松島湾の章段が刻まれている。

「そもそもことふりにたれと
 松島は扶桑第一の好風にして
 凡洞庭西湖を恥す
 東南より海を入て江の中
 三里浙江の潮をたたふ
 島々の数を尽して欷つものは
 天を指臥するものは波に
 匍匐あるは二重にかさなり…
 千早振神の昔大山すみのなせる業にや
 造化の天工何れの人の筆をふるひ
 詞を尽くさむ
「朝よさを 
  誰まつしまぞ 
      片心」
と、碑文の最後に、
芭蕉の句碑にある同じ句が添えられる。