貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

光秀の夫婦愛、芭蕉の師弟愛

2019-03-06 08:52:28 | 日記

光秀の夫婦愛、芭蕉の師弟愛

平成31年3月6日(水)

 

 明智光秀公は弘治2年(1556)に、

齋藤義龍の大軍に敗れ、

妻の熈子や家族と伴に、

称念寺に逃れる。

 『明智軍記』という書物には、

称念寺住職と和歌を詠み、

漢詩を作ったことが記されている。

「称念寺門前に寺子屋を開くが、

生活は貧しく仕官の芽もなかなか・・。

 そして、朝倉の家臣と連歌の会を

催すチャンスを、称念寺の住職が設定。

 貧困の光秀には資金がない中、

連歌の会は熈子の用意した酒肴で

大成功に終わる。

 やがて、光秀は朝倉の仕官が叶う。

しかしその連歌の会の資金は、

実は熈子が自慢の黒髪を売って、

用立てたもの。

 光秀はこの妻の愛に応えて、

どんな困難があっても必ずや天下を

取ると、誓った」

という「夫婦愛の物語」は、称念寺

門前の伝承となる。

 それが、芭蕉訪問の要因。

 江戸時代の松尾芭蕉が、「奥の細道」

の旅の途中取材。

 その後、芭蕉は伊勢の山田又玄宅を

訪れる。

 又玄は貧しい神官で、才能があり

ながら、出世できないことに悩んで

いた。

 そこで、芭蕉は弟子の又玄に、

「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」

の句を贈って励ましたという。

 その句碑が、称念寺にある。

 芭蕉塚に。

 そして、新に造られている。

 意味は、

「又玄よ、今は出世の芽がでないが、

あなたにはそれを支える素晴らしい妻が

いるじゃないか。

 今夜はじっくり明智の妻の黒髪伝説を

話してあげよう」 

 という意か。

 芭蕉の師弟愛も深い。