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万田邦敏『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』その2

2013-07-16 09:08:00 | ノンジャンル
 クロード・シャブロル監督・共同脚本の09年作品『刑事ベラミー』をWOWOWシネマで見ました。ベラミー警視(ジェラール・ドパルデュ)がバカンス中に、保険金詐欺と殺人の容疑をかけられている男の事件に巻き込まれる話で、ほとんどが会話のシーンで成り立っていて、会話する登場人物の言葉と視線が印象に残る映画でした。また、ファーストシーンの、海辺で大破する車と黒焦げで首が転がっている死体への俯瞰からのズープアップと、ラストシーンの、海辺の崖下で大破した車へのズープアップから海と空との境へのパンアップが対をなしていて、階段を上がる女性の足の魅力に言及するシーンや、弁護士が法廷で歌い出すシーンなど、トリュフォーやドゥミへの目配せも伺える映画で、シャブロルの遺作でもある映画でした。

 さて、昨日の続きです。
 早大シネ研の『虫とり網と蓄音器』『夜は千の目を持つ』についての注釈「84年作品。『虫とり網と蓄音器』根岸洋之、『夜は千の目を持つ』高橋洋作品である。黒沢清が文芸座ル・ピリエで出品作の大半の時代錯誤ぶりに呆然としていたのに反し、私は早大シネ研の新作上映会で数本の刺激的な作品に出会うことができた。『虫とり網と蓄音器』は群馬の山中でヴェンダース、ゴダール、ブレヒト、小津、ルノワールの記憶が確かな感性と確かな技術に支えられて展開する、確実に80年代的な作品である。ヴェンダースの記憶は特に色濃く、全編を支配するたゆたうリズムと、青年と子供というとりあわせは『都会のアリス』『さすらい』のものであろう。これもまたここ数年のヴェンダース作品の日本公開がなければ生まれ得なかった作品である。その意味でこれはまた塩田の『ファララ』とも通じ合っているといえるだろう。『六大学シネマ戦』にシネ研の参加があれ『ファララ』のベスト・ワンも危うかったかと思われる。黒沢ももう少し幸せな気分になれたろう。『夜は千の目を持つ』は、山川直人以来シネ研のキャッチフレーズとなってしまった感のある『物語の解体』という文脈でとらえ得るかにみえて、実は物語を必死に構築しようとしている映画であると思われる。その物語との悪戦苦闘ぶりは、荒井由美のBGMで物語をたれ流す明大騒動舎の姿勢とは完全に次元と時代を異にしているのである。『今どき物語を解体しようとする人なんていますかね』という高橋監督の言葉も80年代的といえるだろう」(ちなみに、私は当時根岸や高橋くんとは既知の仲で、この上映会にも出席しており、高橋くんの映画にはロケハンの時から付き合っていたという事実があります。根岸は卒業後、日活スタジオに就職し、高橋くんは皆さんご存じの通り、脚本家としてメジャーデビューしました)、「初めて8ミリのキャメラを回した時、やはり人物の顔をセンターにもってきた。無意識にである。ラッシュを見ても初めのうちは画面の上三分の一の空いた部分はまったく気にならず、というか空いていることに意識が向かなかった。ああ、頭の上が空きすぎている、と思うようになったのはある日突然のことである。それから以後はいちいち構図に悩み出さなければならなくなった。(中略)そんなだったので、今でも学生自主映画を見る時に、バストショットで頭の上が空いているかいないかということがどうしても気になり、それがひとつのチェックポイントとなってしまった」という文章、「(『突刊 映画王』は)引っ込み思案で名高い高田馬場TOMTOM倶楽部(早大シネマ研究会OB連中がその中心メンバーとなっている)の、初めてメジャーをめざさんとする試みらしいのだ」(私は大学生当時、まさにこの高田馬場TOMTOM倶楽部のアジトに何度か泊めてもらい、また『突刊 映画王』の発行の現場にも立ち会った記憶があります)の文、「(前略)映画はかなり知的レベルの低いところにある、あるべきだと言ってもいい。何ら知的発展性もなく、バカバカしい物語であるにもかかわらず巧妙にして単純な仕掛けによってそれが語られる時、普段子供を愛する親の気持ちなどまるで馬鹿にしきっていた人がつい涙してしまう、それが映画というものらしいのだ」の文、‥‥(また明日へ続きます)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto