昨日の続きです。
(中略)
看守は左側にあるひとつめのドアのほうを向き、それをあけた。なかにはセミョーノフがいた。
「ふたりでずっと待っていたんだよ」彼が言った。
「ふたりって?」
セミョーノフは壁を二度ノックした。またドアが開き、ひとりの老人が足を引きずりながら入ってきた。一瞬ののち、それが以前イーラの英語教師だったセルゲイ・ニコラエヴィッチ・ニキフォロフ、あるいは、そのなれの果てだと気づいた。(中略)「では、もう一度確認しよう。セルゲイ・ニコラエヴィッチ・ニキフォロフ、昨日、我々に証言した内容、おまえがパステルナークとイヴィンスカヤの反ソ会話をじかに聞いたというのは、事実であると認めるかね?」
(中略)
「はい」ニキフォロフは頭を垂れたまま、そう答えた。
「パステルナークと国外逃亡する計画をイヴィンスカヤから打ち明けられたことも?
「はい」ニキフォロフは言った。
「嘘よ!」わたしが叫ぶと、さっきの看守がわたしに突進してきた。(中略)
告白が終わるとニキフォロフは連れ去られ、わたしは第七監房に戻された。痛みがいつ始まったかはよく覚えていない。(中略)けれど、ある時点で、わたしの寝具が血に染まっていると、同じ監房の女たちが看守に訴えた。
ルビャンカ病院に運ばれ、すでにわかっていたことを医師から告げられたとき、わたしは自分の服がいまも死体置き場みたいな、死そのもののような臭いがするということしか頭になかった。
(中略)
わたしは判決を聞いた。裁判官の言葉、彼が言った数字は聞こえた。(中略)「五年よ」そのとき、ようやくわたしは理解した。(中略)
(中略)
西 1956年秋
第二章 応募者
それはワシントンDCによくある湿度の高い日で、ポトマック川の川面にはねっとりとした空気が漂っていた。(中略)
元ボーイフレンドと呼んでもいいかもしれないシドニーからこの仕事の欠員について初めて聞いたのは〈バイユー〉でピザとビールの食事をした晩のことだった。(中略)でも、きみは合格間違いない。なんたって、ぼくがCIAの知り合いに頼んでおいたからね、とシドニーは言った。(中略)
(中略)「きみのお父さんのことを話して」わたしが腰かけたとたん、アンダーソンは言った。(中略)
「父のことは何も知らないんです」(中略)
「きみはお父さんがどんなふうに亡くなったか知っているかい?」アンダーソンが尋ねた。
「政治犯矯正労働収容所(ベルラーゲ)のスズ鉱山で心臓発作を起こしたと聞いています」
「それを信じる?」
「いいえ、信じません」(中略)
「お父さんが収容所にたどり着くことはなかった。モスクワで亡くなったんだ」(中略)「取り調べ中に」(中略)
第三章 タイピストたち
(中略)
イリーナはロニーと肩を並べてタイプ課に戻ってきた。「ここの人たち、あなたを歓迎してくれたでしょうね?」ロニーが言った。
「ええ、もちろんです」イリーナはいささかの皮肉も感じさせることなく、そう答えた。(中略)五時きっかりに、わたしたちは立ち上がり、〈マーティンの店〉に行かないかとイリーナを誘った。(中略)
「やめておきます」イリーナは言いながら、紙の束を示した。「遅れを取り戻さないと」
「仕事の遅れを取り戻すですって?」リンダが、イリーナ以外のみんなと外へ出たときにようやく言った。「出勤初日なのに?」
「あなた、初日にフランクに会った?」ゲイルが尋ねた。
「まさか、いまだに会ったことなんかないわよ」ノーマが言った。
嫉妬という冷たい石がおなかのあたりでごろごろ鳴り、わたしたちはもっと知りたいと思った。この新しいロシア娘のすべてを知りたかった。(中略)
第四章 ツバメ
(中略)
この昔の仲間たちが集まったのは、一種の記念日を祝うためだった。十一年前、あたしたちはセイロン島にあった基地を去った。すでに戦争は終わっていたからだ。OSSおよびアメリカの諜報機関の今後がどうなるかはまだはっきりしていなかった。実際にCIAが設立されたのは、それから二年後のこと。(中略)
あたしは士気作戦部の補助職員としてスタートし、書類整理やタイプなどの仕事をしていた。仕事の方向が変わったのは、OSSの敷地を見渡せる丘の上にある、豪華なルイス・マウントバッテン伯爵邸の夕食会への招待状を受け取ってからだ。それはあたしが出席することになる多くのパーティーの最初で、あたしは自分から尋ねるか否かにかかわらず、権力を持つ男たちが進んで情報を提供してくれることを発見したのだった。(中略)その最初のパーティーであたしはツバメになった。神から与えられた、情報収集の才能を発揮する女のことだ。この才能を、あたしは思春期のころから身につけはじめており、二十代で磨きをかけ、三十代で完璧なものに研ぎ澄ました。(中略)
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
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(中略)
看守は左側にあるひとつめのドアのほうを向き、それをあけた。なかにはセミョーノフがいた。
「ふたりでずっと待っていたんだよ」彼が言った。
「ふたりって?」
セミョーノフは壁を二度ノックした。またドアが開き、ひとりの老人が足を引きずりながら入ってきた。一瞬ののち、それが以前イーラの英語教師だったセルゲイ・ニコラエヴィッチ・ニキフォロフ、あるいは、そのなれの果てだと気づいた。(中略)「では、もう一度確認しよう。セルゲイ・ニコラエヴィッチ・ニキフォロフ、昨日、我々に証言した内容、おまえがパステルナークとイヴィンスカヤの反ソ会話をじかに聞いたというのは、事実であると認めるかね?」
(中略)
「はい」ニキフォロフは頭を垂れたまま、そう答えた。
「パステルナークと国外逃亡する計画をイヴィンスカヤから打ち明けられたことも?
「はい」ニキフォロフは言った。
「嘘よ!」わたしが叫ぶと、さっきの看守がわたしに突進してきた。(中略)
告白が終わるとニキフォロフは連れ去られ、わたしは第七監房に戻された。痛みがいつ始まったかはよく覚えていない。(中略)けれど、ある時点で、わたしの寝具が血に染まっていると、同じ監房の女たちが看守に訴えた。
ルビャンカ病院に運ばれ、すでにわかっていたことを医師から告げられたとき、わたしは自分の服がいまも死体置き場みたいな、死そのもののような臭いがするということしか頭になかった。
(中略)
わたしは判決を聞いた。裁判官の言葉、彼が言った数字は聞こえた。(中略)「五年よ」そのとき、ようやくわたしは理解した。(中略)
(中略)
西 1956年秋
第二章 応募者
それはワシントンDCによくある湿度の高い日で、ポトマック川の川面にはねっとりとした空気が漂っていた。(中略)
元ボーイフレンドと呼んでもいいかもしれないシドニーからこの仕事の欠員について初めて聞いたのは〈バイユー〉でピザとビールの食事をした晩のことだった。(中略)でも、きみは合格間違いない。なんたって、ぼくがCIAの知り合いに頼んでおいたからね、とシドニーは言った。(中略)
(中略)「きみのお父さんのことを話して」わたしが腰かけたとたん、アンダーソンは言った。(中略)
「父のことは何も知らないんです」(中略)
「きみはお父さんがどんなふうに亡くなったか知っているかい?」アンダーソンが尋ねた。
「政治犯矯正労働収容所(ベルラーゲ)のスズ鉱山で心臓発作を起こしたと聞いています」
「それを信じる?」
「いいえ、信じません」(中略)
「お父さんが収容所にたどり着くことはなかった。モスクワで亡くなったんだ」(中略)「取り調べ中に」(中略)
第三章 タイピストたち
(中略)
イリーナはロニーと肩を並べてタイプ課に戻ってきた。「ここの人たち、あなたを歓迎してくれたでしょうね?」ロニーが言った。
「ええ、もちろんです」イリーナはいささかの皮肉も感じさせることなく、そう答えた。(中略)五時きっかりに、わたしたちは立ち上がり、〈マーティンの店〉に行かないかとイリーナを誘った。(中略)
「やめておきます」イリーナは言いながら、紙の束を示した。「遅れを取り戻さないと」
「仕事の遅れを取り戻すですって?」リンダが、イリーナ以外のみんなと外へ出たときにようやく言った。「出勤初日なのに?」
「あなた、初日にフランクに会った?」ゲイルが尋ねた。
「まさか、いまだに会ったことなんかないわよ」ノーマが言った。
嫉妬という冷たい石がおなかのあたりでごろごろ鳴り、わたしたちはもっと知りたいと思った。この新しいロシア娘のすべてを知りたかった。(中略)
第四章 ツバメ
(中略)
この昔の仲間たちが集まったのは、一種の記念日を祝うためだった。十一年前、あたしたちはセイロン島にあった基地を去った。すでに戦争は終わっていたからだ。OSSおよびアメリカの諜報機関の今後がどうなるかはまだはっきりしていなかった。実際にCIAが設立されたのは、それから二年後のこと。(中略)
あたしは士気作戦部の補助職員としてスタートし、書類整理やタイプなどの仕事をしていた。仕事の方向が変わったのは、OSSの敷地を見渡せる丘の上にある、豪華なルイス・マウントバッテン伯爵邸の夕食会への招待状を受け取ってからだ。それはあたしが出席することになる多くのパーティーの最初で、あたしは自分から尋ねるか否かにかかわらず、権力を持つ男たちが進んで情報を提供してくれることを発見したのだった。(中略)その最初のパーティーであたしはツバメになった。神から与えられた、情報収集の才能を発揮する女のことだ。この才能を、あたしは思春期のころから身につけはじめており、二十代で磨きをかけ、三十代で完璧なものに研ぎ澄ました。(中略)
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