‘16年に刊行された、島尾ミホさんの作品『愛の棘 島尾ミホエッセイ集』を読みました。序章にあたる部分を引用させていただくと、
「本書は、島尾ミホの既刊単著に未収録の文章の中から、エッセイを中心に収録したものです。
各作品の表記は発表時のままを原則とし、漢字や送り仮名などの統一は行なっていません。ただし、あきらかな誤記や脱字などを訂正したり、補足説明を〔 〕内に追加した箇所があります。また著作権者と協議の上、重複する記述を一部割愛した箇所もあります。
なお、各章は基本的に、Ⅰ=島尾敏雄についての回想したもの、Ⅱ=島尾敏雄の作品について書いたもの、Ⅲ=奄美・沖縄について書いたもの、Ⅳ=奄美に伝わる民話、Ⅴ=体験を基にした小説、という方針で構成しましたが、必ずしも厳密な区別に基づくものではありません。
本文中、今日では不適切と思われる表現がありますが、原文が書かれた時代背景や、著者が故人である事情に鑑み、そのままとしました」。
また志村有弘氏による解説も引用させていただくと、
「島尾ミホは、『「死の棘」日記』(新潮社、平成十七年)が刊行されるとき、「島尾と私は四十年以上も、夫婦として共に人生を歩んで参りました。その長い歳月の間には、『「死の棘」日記』に書き残されているような、苦難の時代もありましたが、共に堪えて、その後は更なる愛の絆を深めて、寄り添い、助け合い乍ら人生を歩んで参りました」と記している。その後は更なる愛の絆を深め一年、突然他界した。爾来、ミホの狂おしいまでに夫を追慕する日々が始まった。
ミホは、敏雄の死後、いつも喪服を着ていた。昭和六十一年(一九八六)と六十三年に東京・山の上ホテルで開かれた「島尾敏雄を追悼する会」「島尾敏雄を偲ぶ会」での喪服姿は当然としても、平成十二年(二000)、埴谷島尾記念文学資料館(福島県小高)のオープニングセレモニーで講演したときも、また、島尾作品が舞台公演され、その観劇のときもやはり喪服姿であった。私はそうしたミホ夫人の姿を見るたびに、敏雄が他界したとき、ミホの魂はそのまま敏雄に寄り添いついていったのだと思った。(後略)」
文体はいたって平易で、たとえば冒頭に収録された『出会い』の冒頭部分を引用させていただくと、
「あれは昭和十九年十二月上旬のある晴れた日の午後でした。
一日の授業が終わって大方の児童は下校していましたが、私の受持の女の子たちが五、六人私と一緒に帰るのを待って校庭で遊んでいました。
当時国民学校に在職していた私は、自分の担任の三、四年生(複式学級で児童数六十人位)の教室で、試験の採点や児童のつけた学級日誌に目を通しなどした後、職員室へ戻ろうと廊下へ出たところ、校庭の正面のあたりに据え置かれた号令台の囲(まわ)りを、笑い声を上げながら賑やかに走り廻るその女の子たちと追い駆けごっこをしている、一人の若い海軍士官の姿を見かけました。その人はよく太っていましたが背はそれ程高いとも見えず、二十一、二歳かと見受けられた年の頃から推して任官間もない少尉の階級の、多分特攻隊の軍人にちがいないと私はちらと思いました。(後略)」
また、この本で貴重な価値を持っているのはⅣ章の、旧鎮西村押角の方言に拠ったと言われる民話で、現地の訛りを片仮名で書き、そこにルビを振って意味を与える形式を取っています。例えば「アムィ(昔)ヌ(が)フティ(降って)、ナトゥンキンヌンキャ(なっている時とか)、マタ(又)、ティダ(太陽)ヌ(が)ウティサガティ(落ち沈んで)、ユル(夜(に))ナッティカラチンキャヤ(なってからというものは)、イッサイ(いっさい)カンティミアゴ(かんてぃみ・あご(の))カタレシャリ(話をしたり)ウターシャリ(歌をうたったり)シュンムンナ(するものでは)アランドー(ない)チ(と)ウフッチュンキャ(老人たち)ヌ(が)ウモユンムンナ(言うのは)、ウッリャ(それは)、アムィ(雨(が))、フリンチンキャ(降る時とか)ユル(夜(に))ナティッカランキャ(なってからとか)、カンティミアゴ(かんてぃみ・あご(の))カタレシャリ(話をしたり)ウターシャ(うたったり)スルィバヤ(すれば)、カンティミ(かんてぃみ)チ(と)イュン(いう)ムェーラベ(娘)ヌ(の)マブリ(魂魄)ヌ(が)タチュム(立つ)チイチ(といって)、グスト(みんな)タマガティ(こわがって)ガンシ(そう)ウモユム(言っている)ムンチョ(のだ)。」
島尾敏雄のファン以外の方にもオススメの本です。
「本書は、島尾ミホの既刊単著に未収録の文章の中から、エッセイを中心に収録したものです。
各作品の表記は発表時のままを原則とし、漢字や送り仮名などの統一は行なっていません。ただし、あきらかな誤記や脱字などを訂正したり、補足説明を〔 〕内に追加した箇所があります。また著作権者と協議の上、重複する記述を一部割愛した箇所もあります。
なお、各章は基本的に、Ⅰ=島尾敏雄についての回想したもの、Ⅱ=島尾敏雄の作品について書いたもの、Ⅲ=奄美・沖縄について書いたもの、Ⅳ=奄美に伝わる民話、Ⅴ=体験を基にした小説、という方針で構成しましたが、必ずしも厳密な区別に基づくものではありません。
本文中、今日では不適切と思われる表現がありますが、原文が書かれた時代背景や、著者が故人である事情に鑑み、そのままとしました」。
また志村有弘氏による解説も引用させていただくと、
「島尾ミホは、『「死の棘」日記』(新潮社、平成十七年)が刊行されるとき、「島尾と私は四十年以上も、夫婦として共に人生を歩んで参りました。その長い歳月の間には、『「死の棘」日記』に書き残されているような、苦難の時代もありましたが、共に堪えて、その後は更なる愛の絆を深めて、寄り添い、助け合い乍ら人生を歩んで参りました」と記している。その後は更なる愛の絆を深め一年、突然他界した。爾来、ミホの狂おしいまでに夫を追慕する日々が始まった。
ミホは、敏雄の死後、いつも喪服を着ていた。昭和六十一年(一九八六)と六十三年に東京・山の上ホテルで開かれた「島尾敏雄を追悼する会」「島尾敏雄を偲ぶ会」での喪服姿は当然としても、平成十二年(二000)、埴谷島尾記念文学資料館(福島県小高)のオープニングセレモニーで講演したときも、また、島尾作品が舞台公演され、その観劇のときもやはり喪服姿であった。私はそうしたミホ夫人の姿を見るたびに、敏雄が他界したとき、ミホの魂はそのまま敏雄に寄り添いついていったのだと思った。(後略)」
文体はいたって平易で、たとえば冒頭に収録された『出会い』の冒頭部分を引用させていただくと、
「あれは昭和十九年十二月上旬のある晴れた日の午後でした。
一日の授業が終わって大方の児童は下校していましたが、私の受持の女の子たちが五、六人私と一緒に帰るのを待って校庭で遊んでいました。
当時国民学校に在職していた私は、自分の担任の三、四年生(複式学級で児童数六十人位)の教室で、試験の採点や児童のつけた学級日誌に目を通しなどした後、職員室へ戻ろうと廊下へ出たところ、校庭の正面のあたりに据え置かれた号令台の囲(まわ)りを、笑い声を上げながら賑やかに走り廻るその女の子たちと追い駆けごっこをしている、一人の若い海軍士官の姿を見かけました。その人はよく太っていましたが背はそれ程高いとも見えず、二十一、二歳かと見受けられた年の頃から推して任官間もない少尉の階級の、多分特攻隊の軍人にちがいないと私はちらと思いました。(後略)」
また、この本で貴重な価値を持っているのはⅣ章の、旧鎮西村押角の方言に拠ったと言われる民話で、現地の訛りを片仮名で書き、そこにルビを振って意味を与える形式を取っています。例えば「アムィ(昔)ヌ(が)フティ(降って)、ナトゥンキンヌンキャ(なっている時とか)、マタ(又)、ティダ(太陽)ヌ(が)ウティサガティ(落ち沈んで)、ユル(夜(に))ナッティカラチンキャヤ(なってからというものは)、イッサイ(いっさい)カンティミアゴ(かんてぃみ・あご(の))カタレシャリ(話をしたり)ウターシャリ(歌をうたったり)シュンムンナ(するものでは)アランドー(ない)チ(と)ウフッチュンキャ(老人たち)ヌ(が)ウモユンムンナ(言うのは)、ウッリャ(それは)、アムィ(雨(が))、フリンチンキャ(降る時とか)ユル(夜(に))ナティッカランキャ(なってからとか)、カンティミアゴ(かんてぃみ・あご(の))カタレシャリ(話をしたり)ウターシャ(うたったり)スルィバヤ(すれば)、カンティミ(かんてぃみ)チ(と)イュン(いう)ムェーラベ(娘)ヌ(の)マブリ(魂魄)ヌ(が)タチュム(立つ)チイチ(といって)、グスト(みんな)タマガティ(こわがって)ガンシ(そう)ウモユム(言っている)ムンチョ(のだ)。」
島尾敏雄のファン以外の方にもオススメの本です。
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