朝日新聞で紹介されていた、川名壮志さんの ‘14年作品『謝るなら、いつでもおいで』を読みました。
となりまちの取材から佐世保支局に戻ってきた毎日新聞の記者である僕に、奇妙なニュースが舞い込んだ。それは上司から届いた1本の電話だった。「怜美(さとみ)が、死んだ」声の主は、御手洗支局長だった。怜美ちゃんは彼の一人娘、12歳の小学6年生。支局長一家の住居は、支局が2階に入っているビルの3階だったので、僕と怜美ちゃんは、毎日のように会社で顔を合わせていた。昨日もその元気な姿を見たばかりだった。
事件の前触れは、直前にあった。御手洗さんからの電話が入る20分前、事件担当の倉岡一樹記者が、うわずった調子で電話をかけてきたのだ。「大久保小で女の子が大けがをしたみたいです! いま救急車で運ばれたそうです!」大久保小学校といえば、怜美ちゃんが通っていた学校だ。僕は取材を切り上げて、慌ただしく支局に舞い戻った。再び、倉岡から電話が入る。「川名さん! 女の子、死んだみたいです!!」
事件がおきた2004年6月1日。大久保小学校は、各学年1クラスしかない小規模校だった。事件の2日前の日曜日は、学校最大のイベントである運動会だった。翌日の月曜日は代休で、この日は休み明けの火曜日だった。午前中の授業が終わり、20分後には配膳も終わり、担任が教壇に立ち、「いただきます」の唱和をさせようとしたそのとき、怜美ちゃんともう一人の少女の2つの机が空席になっているのに気づく。静かな異変を感じたのとほぼ同時に、たったひとりで廊下にたたずむ少女の姿が目に入る。黙りこくる少女の手には、赤く濡れたハンカチとカッターナイフが強く握りしめられていた。ズボンの裾は水に漬かったように、その濃さを増している。姿がみえない怜美ちゃんのことが、直感的に担任の脳裏に浮かぶ。強い調子で少女に尋ねると、「私の血じゃない。私じゃない」少女がつぶやき、廊下の先を指さす。6年のクラスとは反対側にある多目的教室「学習ルーム」の方面だ。全速力で駆けつけた担任が目にしたのは、うつぶせに倒れている怜美ちゃんのむごい姿だった。血が床をつたっていた。カッターナイフの折れた刃が、部屋の入口に落ちていた。
担任は御手洗さんに連絡を取り、警察が到着する前に、怜美ちゃんと対面することになる。廊下にひとりたたずむ少女の存在に気づいたのは、隣の教室にいた5年担任の女性教師で、保健室に連れていき、血を洗い流し、服を着替えさせた。もちろん、証拠隠滅の腹づもりなど、みじんもない。消防隊員の問いかけに、少女は「私がカッターで切りました」とあっさりと答えた。警察は校長室で40分かけて少女に事情を聴いた。「土曜日に殺そうと準備して、(代休の)月曜日に殺そうとしたけれど、バレると思って今日にした」「死ぬまで待って、バレないように教室に戻った」「千枚通しで刺すか、首を絞めるか、迷ったけれど、もっと確実なカッターナイフにした」「左手で、目隠しをして切った」これほどまでの幼い少女による事件は、警察にとっても前代未聞だった。
発覚から数時間後、少女は車に乗せられてひっそりと佐世保署に連れていかれた。少女はその後、午後7時ごろまで事情聴取を受けた。給食を食べていない彼女は、パンとジュースの簡単な食事を口にした。県警は女性職員専用の休憩室を留置所のかわりに使い、午後10時半、少女は婦警2人に付き添われながら眠りについた。もう家に帰れない。少女はその意味をまだ理解していないようだった。
ここまでで全300ページ余りのうちの46ページ。残りの部分で、少女は14歳未満ということで、児童福祉法の適用を受け、女子向けの全国唯一の児童自立支援施設である「きぬ川学院」に送致され、中学を卒業して、社会人になったこと、事件の原因は交換日記とブログでのトラブルだったこと、少女は普段からオカルトサイトを熱心に見ていて、殺しの手口も『バトル・ロワイヤル』をまねていたこと、事件をめぐるマスコミの動きなどが語られ、最後に被害者の父、加害者の父、被害者の兄の声明が掲載されています。
復讐心に燃え続ける被害者家族が多い中、被害者の兄が「(加害者の少女には)普通に生きてほしい」「謝るなら、いつでもおいで」と言っていることが、加害者の少女が事件直後に将来に聞かれて「普通に暮らせればいいんだけど……」という言葉と響き合い、素晴らしいと思いました。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
となりまちの取材から佐世保支局に戻ってきた毎日新聞の記者である僕に、奇妙なニュースが舞い込んだ。それは上司から届いた1本の電話だった。「怜美(さとみ)が、死んだ」声の主は、御手洗支局長だった。怜美ちゃんは彼の一人娘、12歳の小学6年生。支局長一家の住居は、支局が2階に入っているビルの3階だったので、僕と怜美ちゃんは、毎日のように会社で顔を合わせていた。昨日もその元気な姿を見たばかりだった。
事件の前触れは、直前にあった。御手洗さんからの電話が入る20分前、事件担当の倉岡一樹記者が、うわずった調子で電話をかけてきたのだ。「大久保小で女の子が大けがをしたみたいです! いま救急車で運ばれたそうです!」大久保小学校といえば、怜美ちゃんが通っていた学校だ。僕は取材を切り上げて、慌ただしく支局に舞い戻った。再び、倉岡から電話が入る。「川名さん! 女の子、死んだみたいです!!」
事件がおきた2004年6月1日。大久保小学校は、各学年1クラスしかない小規模校だった。事件の2日前の日曜日は、学校最大のイベントである運動会だった。翌日の月曜日は代休で、この日は休み明けの火曜日だった。午前中の授業が終わり、20分後には配膳も終わり、担任が教壇に立ち、「いただきます」の唱和をさせようとしたそのとき、怜美ちゃんともう一人の少女の2つの机が空席になっているのに気づく。静かな異変を感じたのとほぼ同時に、たったひとりで廊下にたたずむ少女の姿が目に入る。黙りこくる少女の手には、赤く濡れたハンカチとカッターナイフが強く握りしめられていた。ズボンの裾は水に漬かったように、その濃さを増している。姿がみえない怜美ちゃんのことが、直感的に担任の脳裏に浮かぶ。強い調子で少女に尋ねると、「私の血じゃない。私じゃない」少女がつぶやき、廊下の先を指さす。6年のクラスとは反対側にある多目的教室「学習ルーム」の方面だ。全速力で駆けつけた担任が目にしたのは、うつぶせに倒れている怜美ちゃんのむごい姿だった。血が床をつたっていた。カッターナイフの折れた刃が、部屋の入口に落ちていた。
担任は御手洗さんに連絡を取り、警察が到着する前に、怜美ちゃんと対面することになる。廊下にひとりたたずむ少女の存在に気づいたのは、隣の教室にいた5年担任の女性教師で、保健室に連れていき、血を洗い流し、服を着替えさせた。もちろん、証拠隠滅の腹づもりなど、みじんもない。消防隊員の問いかけに、少女は「私がカッターで切りました」とあっさりと答えた。警察は校長室で40分かけて少女に事情を聴いた。「土曜日に殺そうと準備して、(代休の)月曜日に殺そうとしたけれど、バレると思って今日にした」「死ぬまで待って、バレないように教室に戻った」「千枚通しで刺すか、首を絞めるか、迷ったけれど、もっと確実なカッターナイフにした」「左手で、目隠しをして切った」これほどまでの幼い少女による事件は、警察にとっても前代未聞だった。
発覚から数時間後、少女は車に乗せられてひっそりと佐世保署に連れていかれた。少女はその後、午後7時ごろまで事情聴取を受けた。給食を食べていない彼女は、パンとジュースの簡単な食事を口にした。県警は女性職員専用の休憩室を留置所のかわりに使い、午後10時半、少女は婦警2人に付き添われながら眠りについた。もう家に帰れない。少女はその意味をまだ理解していないようだった。
ここまでで全300ページ余りのうちの46ページ。残りの部分で、少女は14歳未満ということで、児童福祉法の適用を受け、女子向けの全国唯一の児童自立支援施設である「きぬ川学院」に送致され、中学を卒業して、社会人になったこと、事件の原因は交換日記とブログでのトラブルだったこと、少女は普段からオカルトサイトを熱心に見ていて、殺しの手口も『バトル・ロワイヤル』をまねていたこと、事件をめぐるマスコミの動きなどが語られ、最後に被害者の父、加害者の父、被害者の兄の声明が掲載されています。
復讐心に燃え続ける被害者家族が多い中、被害者の兄が「(加害者の少女には)普通に生きてほしい」「謝るなら、いつでもおいで」と言っていることが、加害者の少女が事件直後に将来に聞かれて「普通に暮らせればいいんだけど……」という言葉と響き合い、素晴らしいと思いました。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
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