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金子文子『何が私をこうさせたか 獄中手記』その6

2019-10-15 00:50:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 この年の10月に彼は東京に来て、新聞配達や製ビン工場職工などをしながら闘いを続けた。彼は1920年11月に設立された朝鮮人苦学生同友会に幹部として参加し、翌年10月頃には無政府主義や社会主義の在京朝鮮人学生や労働者で組織された義拳団に加入した。上海から爆弾を入手して東京と京城で相呼応して使う計画を立てたこともあった。
 1922年7月に信濃川の支流中津川が流れる新潟県中魚沼(なかうおぬま)郡秋成(あきなり)村(現津南町)穴藤の発電所の建設工事現場で朝鮮人虐殺事件が起こった。朴烈はこの事件の調査に赴き、この年の9月7日に東京市神田美土代(みとしろ)街の朝鮮基督教青年会館で開催された新潟県朝鮮人虐殺問題演説会で報告し、「この悪制度は現在の資本家的社会組織の齎(もたら)す結果なるが故にこの社会制度は根本的に破壊する必要があると私は思う」と言った。
 朴は文学者で社会主義者の秋田雨雀(うじゃく)とも交流した。秋田は日記の1922年3月7日の箇所で朴を評して「仙人のような、それでいて熱情のある人だ。日本の青年たちよりよほどまじめで人間的だ」と評した(中略)。文子の恋の対象となった朴烈はこうした人物だった。
 文子は1922年4月末か5月に東京府荏原(えばら)郡世田谷池尻の下駄屋の相川新作の家の二階の六畳間を借りて朴烈との結婚生活を始めた。翌年3月頃には東京府豊多摩郡代々木富ヶ谷の借家に移った。
 文子と朴は1922年7月10日付で黒涛会の機関誌として『黒涛』を創刊した。黒涛会は朴烈や鄭泰成(チョンソン)、白武(ぺクム)、金若水(キムヤクス)などの在日朝鮮人が1921年11月に無政府主義思想に共鳴して創立した団体だった。『黒涛』は日本帝国主義に対して闘う朝鮮人の心を心ある日本人に紹介し、日朝両国の民衆、ひいては世界の民衆の解放に役立てようという趣旨に基づいて刊行された。しかし文子と朴の生活は苦しく、文子は一日中あちこちを歩き回って朝鮮人参の行商をしたが、部屋代の支払いもままならぬ状態だった。
 それでも二人は無政府主義に疎遠な人々を糾合してこの主義を宣伝することを目的にして不逞社という集まりを組織した。その最初の集まりを1923年4月中旬にこの新居で開いた。集まった人々は在日朝鮮人が17名、日本人が6名で、すべて20歳代の青年たちだった。
 朴烈はこれまでにソウルに住む金●(キムハン)を通じて、日本の支配者や朝鮮人親日派に対する暗殺を目的として中国東北地区吉林に朝鮮人たちが結成した義烈団から爆弾を入手しようとしたが、この計画は実現できず、その後も度々爆弾入手を計画したが、実現できなかった。こうした状況の際に関東大震災が起こり、朴烈と文子は警察署に検束され、さらに起訴されたのであった。(中略)

 以上が、山田昭次さんによる「解説」の全文でした。

 次に「1931年7月 ふみ子の死後五周年にあたり」として栗原一男さんが「忘れ得ぬ面影」と題して書いた文章をまた転載させていただきたいと思います。

 忘れもせぬ1926年7月27日━━金子ふみ子の冷たくなった身体が、栃木県宇都宮刑務所栃木支所の冷たい監房の窓際(まどぎわ)に発見された。ふみ子はその前日26日の暁方(あけがた)、数え年二十三歳の真夏、この世に永遠の訣別(けつべつ)をとげてしまったのだ。
 越えて31日の暁方、その母親と布施(ふせ)〔辰治〕弁護士、馬島(まじま)●医師が立会い、自分ら一行の十数名は栃木町はずれの合戦場(かっせんば)墓地に仮埋葬されたふみ子の屍体発掘に取りかかった。
 ちょうど三時━━月の明るい夜明けのこと━━しっとりと降りた夜露は合戦場墓地一帯の雑草の上に蒼白(あおじろ)く光っており、あたり一面の稲田は物凄(ものすご)いばかりに沈黙して、キラキラと葉末を光らせ、文字通り死の墓場、一行の足音のみが、異様な緊張と亢奮(こうふん)にかられて墓地深く深くと進んで行った。
 それから━━数輪のエゾ菊を手向(たむ)けたばかりの墓所を発(あば)いて、地下四尺の湿地の中から、水気にふくらんで、ブヨブヨにはれ上り、腐乱したふみ子の屍体、むくれ上った広い額(ひたい)と、厚く突出した唇、指をふれればスルスルと顔面の皮がはがれた腐乱体……そして異色ある額と短く鋏(はさ)んだ髪の毛の特徴がなければ、これがふみ子の屍体だとは、知っていた誰にも思われないような、二目と見られない無残なふみ子を━━古綿とオガ屑(くず)に埋もれた棺桶の中のふみ子を見出したのである。その上、腐乱体特有の悪臭を放って、ダラダラと水のしたたっている棺(ひつぎ)を荷車に乗せて、ようやくの思いで二里近くも離れている火葬場に運び込んだのは黎明(れいめい)、東の空合(そらあい)一帯が、ほのぼのと明け初めた一日の朝五時である。

(また明日へ続きます……)

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

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