先日、久しぶりに東京・千葉を走る地下鉄東西線の木場駅が最寄りの小料理屋「かわ野」で、元同僚の福長さんと飲みました。やはり元同僚だった黒山さん、伊藤さん、これをもし見られたら、連絡をください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。首を長くして返事が来るのを福長さんと待っています。
さて、‘16年に刊行された、山田宏一さんと和田誠さんの対談集『ヒッチコックに進路を取れ』を読みました。
山田さんが書いた「序-━━エンドマークが出れば映画が終わるわけではない」の部分から引用させていただくと、
・「和田誠さんとの最初の映画対談集『たかが映画じゃないか』が出たのは1978年でした。(中略)古今東西のいろいろな映画の話をしましたが、なんといってもアルフレッド・ヒッチコックの映画について最も多く語り合ったように思います。『たかが映画じゃないか』という本の題名もヒッチコックの名言からいただいたものです。次は、それでも、語りつくせなかったヒッチコックの映画だけにしぼって論じ合おうという企画が生まれました。おりから、ハリウッド時代のヒッチコック映画のリバイバル上映、戦前のイギリス時代のヒッチコックの日本未公開作品の上映、つづけてヒッチコック作品のビデオ化、特にハリウッド時代の名作の数々がLD(レーザーディスク)で発売され、その解説を和田さんとの対談の形でやることとなり、それが本書のもとになっています。その間に、和田誠は映画監督になり(1984年に『麻雀放浪記』、88年に『怪盗ルビー』、94年に『怖がる人々』、2001年に『真夜中まで』など-----それ以前に短篇アニメーション『殺人(マーダー)!』があります)、私はフランソワ・トリュフォー監督がヒッチコックに体系的にインタビューをしたヒッチコック研究書の決定版として知られる大冊『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』の翻訳にかかわり(1981年に日本語訳が刊行)、ヒッチコックについての知識を深めるチャンスを得ました。
そもそもはハリウッド時代のヒッチコックの全作品(長篇映画三十本)を一作ごとに分析するという試みでしたが、単行本化に当たってイギリス時代の主要な作品についての論評も付け加えました。ヒッチコック映画だけにしぼって論じ合うつもりが索引をざっとごらんいただければおわかりのようにその他多くの作品にふれる結果になったのは、ヒッチコックがサイレント時代から出発していわば映画史そのものを生きてきた存在であり、そしてまた、ヒッチコックの影響も大きく、ヒッチコック映画の一本一本に映画史の流れが刻み込まれているからなのだと思います。ヒッチコックだけを語ることが大げさに言えば映画史そのものにふれることになる」
・「『スクリーンをエモーションで埋めつくすこと』『エモーションを生み出し、それを最後まで持続すること』、つまりは観客をスクリーンに引きつけ、一瞬たりとも飽きさせないことをヒッチコックはモットーにしていました。そして実際、ヒッチコックの映画は━━サスペンスの巨匠、スリラーの神様といわれる稀有な映画監督の作品だけあって━━息もつかせぬ面白さです。ヒッチコック・タッチの極みとも言うべき血湧き肉躍る冒険のクライマックス、サスペンスに次ぐサスペンス、ラストの、そここそ大団円など、さらには落語の“さげ”のような洒落たユーモラスなオチとか、映画ファンの仁義としてバラしてはいけないところはなるべく控えるようにはしたものの、読まれる前に映画をまずごらんくださいとお願い、おことわりをしなければらないと思います」
・「とはいうものの、エンドマークが出れば映画は終わるわけではないのです。ヒッチコックの映画は何度観ても━━-結末を知って観ても━━面白いばかりか、いつまでもその面白さが記憶に残り、そのエモーションが、興奮が、感動が、ふくらむのです。ふくらみすぎて、思い込みや思い違いもあるかもしれません。その点は識者のご指摘、ご教示を謙虚に仰ぐ次第です」
次に、本文からも引用させていただくと、
・「Y(山田宏一さん) (前略)すべてのヒッチコックの原点がイギリス時代の作品にあって、エロチシズムにしろ、ユーモアにしろ、サスペンスにしろ、萌芽はすでにイギリス時代にあって、すべてがハリウッド時代に花ひらいたという構成でね。ヒッチコックはイギリスとドイツで映画を撮り始めたわけだけど、というのは当時、1920年代はドイツ映画の全盛期で、イギリスはドイツと協定を結んで合作が多く、1925年のヒッチコックの第一作『快楽の園』もドイツの撮影所で撮った作品なのね」
・「W(和田誠さん) あ、そうだったね。当時のドイツ映画は作品的にも先進国だったでしょう。『カリガリ博士』があるし、フリッツ・ラングはすでに『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』を撮ってるしね。(後略)」(明日へ続きます……)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
さて、‘16年に刊行された、山田宏一さんと和田誠さんの対談集『ヒッチコックに進路を取れ』を読みました。
山田さんが書いた「序-━━エンドマークが出れば映画が終わるわけではない」の部分から引用させていただくと、
・「和田誠さんとの最初の映画対談集『たかが映画じゃないか』が出たのは1978年でした。(中略)古今東西のいろいろな映画の話をしましたが、なんといってもアルフレッド・ヒッチコックの映画について最も多く語り合ったように思います。『たかが映画じゃないか』という本の題名もヒッチコックの名言からいただいたものです。次は、それでも、語りつくせなかったヒッチコックの映画だけにしぼって論じ合おうという企画が生まれました。おりから、ハリウッド時代のヒッチコック映画のリバイバル上映、戦前のイギリス時代のヒッチコックの日本未公開作品の上映、つづけてヒッチコック作品のビデオ化、特にハリウッド時代の名作の数々がLD(レーザーディスク)で発売され、その解説を和田さんとの対談の形でやることとなり、それが本書のもとになっています。その間に、和田誠は映画監督になり(1984年に『麻雀放浪記』、88年に『怪盗ルビー』、94年に『怖がる人々』、2001年に『真夜中まで』など-----それ以前に短篇アニメーション『殺人(マーダー)!』があります)、私はフランソワ・トリュフォー監督がヒッチコックに体系的にインタビューをしたヒッチコック研究書の決定版として知られる大冊『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』の翻訳にかかわり(1981年に日本語訳が刊行)、ヒッチコックについての知識を深めるチャンスを得ました。
そもそもはハリウッド時代のヒッチコックの全作品(長篇映画三十本)を一作ごとに分析するという試みでしたが、単行本化に当たってイギリス時代の主要な作品についての論評も付け加えました。ヒッチコック映画だけにしぼって論じ合うつもりが索引をざっとごらんいただければおわかりのようにその他多くの作品にふれる結果になったのは、ヒッチコックがサイレント時代から出発していわば映画史そのものを生きてきた存在であり、そしてまた、ヒッチコックの影響も大きく、ヒッチコック映画の一本一本に映画史の流れが刻み込まれているからなのだと思います。ヒッチコックだけを語ることが大げさに言えば映画史そのものにふれることになる」
・「『スクリーンをエモーションで埋めつくすこと』『エモーションを生み出し、それを最後まで持続すること』、つまりは観客をスクリーンに引きつけ、一瞬たりとも飽きさせないことをヒッチコックはモットーにしていました。そして実際、ヒッチコックの映画は━━サスペンスの巨匠、スリラーの神様といわれる稀有な映画監督の作品だけあって━━息もつかせぬ面白さです。ヒッチコック・タッチの極みとも言うべき血湧き肉躍る冒険のクライマックス、サスペンスに次ぐサスペンス、ラストの、そここそ大団円など、さらには落語の“さげ”のような洒落たユーモラスなオチとか、映画ファンの仁義としてバラしてはいけないところはなるべく控えるようにはしたものの、読まれる前に映画をまずごらんくださいとお願い、おことわりをしなければらないと思います」
・「とはいうものの、エンドマークが出れば映画は終わるわけではないのです。ヒッチコックの映画は何度観ても━━-結末を知って観ても━━面白いばかりか、いつまでもその面白さが記憶に残り、そのエモーションが、興奮が、感動が、ふくらむのです。ふくらみすぎて、思い込みや思い違いもあるかもしれません。その点は識者のご指摘、ご教示を謙虚に仰ぐ次第です」
次に、本文からも引用させていただくと、
・「Y(山田宏一さん) (前略)すべてのヒッチコックの原点がイギリス時代の作品にあって、エロチシズムにしろ、ユーモアにしろ、サスペンスにしろ、萌芽はすでにイギリス時代にあって、すべてがハリウッド時代に花ひらいたという構成でね。ヒッチコックはイギリスとドイツで映画を撮り始めたわけだけど、というのは当時、1920年代はドイツ映画の全盛期で、イギリスはドイツと協定を結んで合作が多く、1925年のヒッチコックの第一作『快楽の園』もドイツの撮影所で撮った作品なのね」
・「W(和田誠さん) あ、そうだったね。当時のドイツ映画は作品的にも先進国だったでしょう。『カリガリ博士』があるし、フリッツ・ラングはすでに『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』を撮ってるしね。(後略)」(明日へ続きます……)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
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