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手塚治虫(解説・小森陽一)『手塚マンガで憲法九条を読む』

2018-11-16 06:27:00 | ノンジャンル
 2018年に刊行された手塚治虫(解説・小森陽一)『手塚マンガで憲法九条を読む』を読みました。その中から野上暁さんの「手塚治虫の戦争と平和」という文章の一部を転載させていただくと、

(前略)この本では、戦争と平和をテーマにした数多くある手塚マンガの中から、ベトナム戦争以降に描かれた、比較的短くて憲法九条に関わる作品を選んで掲載している。「紙の砦」は、手塚治虫・マンガ家生活30周年を記念して『週刊少年キング』(1974年9月30日号)に読み切りで掲載された作品である。手塚は、戦後30年近く過ぎて、戦争の記憶が風化してきていることに危機感を抱いたことから、自らの体験を披歴(ひれき)したのだ。この数年前から自分の分身を登場させた半自伝的作品をぽつぽつ描き始めたのは、1969年に『ぼくはマンガ家』を出版したことも影響しているかもしれない。
 作中では、北野中学が南野中学になり、ホームに中津駅を思わせる表示もある。トイレに自作のマンガを貼ったり、監視陗の上から見た空襲の様子、焼け焦げた牛の死骸なども、『ぼくのマンガ人生』などに描かれているエピソードと同じだ。「紙の砦」とは、マンガという紙の城塞を強固に構築して戦争を阻止し、平和を守ろうとする手塚のマンガ家としての決意であり矜持(きょうじ)なのだ。そういう意味で「紙の砦」は、思春期の戦争体験を原点にして、反戦平和を希求する手塚にとって象徴的な作品でもあるのだが、この本に収めた各作品についての小森陽一さんの解説を読むと、手塚はその時々の平和の危機に対して極めて鋭敏に感応して、それをさり気なく作品の中に組み込んで来ていたことがよくわかる。
 ぼくは1967年からしばらく、雑誌編集者として手塚治虫を担当し、その後も亡くなるまで20年以上にわたって様々にお付き合いいただいた。ちょうどこの本で紹介する作品が書かれた時期とほとんど重なっている。その頃手塚は、何人もの編集者が泊まり込みで原稿を待つような超多忙な毎日を過ごしていて、自宅と仕事場がつながっていたにもかかわらず、自宅に帰るのもままならないような状態も続いていた。そんな中で、じつにビビッドに状況を反映しながら平和の危機をどうやってとらえていたのか。世の中の動向にも極めて鋭敏に反応しながら、それを作品の生命ともしていたのだが、それがなぜ可能だったのか。
 その秘密の一端がわかるのは、担当してしばらくしてからだった。記者会見があるので同行してネームの打ち合わせをしたいと、たびたび呼ばれた。あるときは日本ヘラルドの試写室だったり、紀伊國屋ホールでの安部公房の「棒になった男」の初演だったり、日本テレビでのドキュメンタリーだったりといろいろだったが、終わった後にコメントを聞かれる。それを「記者会見」と称して、映画の試写会を観たり芝居を観たり、ベトナム戦争の記録映像を観たりしながら、巧みに時代を呼吸していたのだ。ある程度気心が知れたので、隠密裏に呼ばれたのだから、他の編集者にはもちろん内緒だった。これは一例に過ぎないが、こうして手塚は、超多忙な中で様々な最新情報を仕入れることができたのだろう。
 敗戦の報を聞いた時、手塚は「これで、自由にマンガが描ける」と思ったという。戦後憲法で保障された表現の自由を、まさに謳歌しながら手塚は戦後のマンガに全精力を注いだのだ。ところが「それがいつの間にか風化し形骸化して、またもや政府がきな臭い方向に向かおうとしている。子どもたちのために、当然大人がそれを阻止しなければならないと同時に、子ども自身がそれを拒否するような人間にはぐくんでやらなければならないと思うんです。」「生命あるものすべてを戦争の破壊と悲惨から守るのだという信念を子どもにうえつける教育、そして子ども文化はその上に成り立つものでなければならない。」(「未来人へのメッセージ」『ぜんぶ手塚治虫!』(朝日文庫所収)と手塚が述べたのは、1986年の第31回子どもを守る文化会議であった。それから30年以上たった今でも、この言葉はそのまま通用する。生涯に全400巻に及ぶマンガを描き残し、反戦平和を願う「紙の砦」を膨大に構築した手塚のマンガは、いまこそ世界の未来を照らし続けていく。

この本では手塚治虫の短篇「紙の砦」「ザ・クレーター 墜落機」「ブラック・ジャック やり残しの家」「アトム今昔物語 ベトナムの天使」「ブラック・ジャック 消えさった音」「ライオンブックス 荒野の七ひき」「1985年への出発(たびだち)」が取り上げられていて、それぞれに小森陽一さんが解説を書いています。ちなみに小森さんはあとがきにかえて、「九条改憲発議を3000万人署名で阻止するために、手塚治虫漫画を読み直そう」と書いています。今秋にも改憲案を発議しようとしている安倍政権に対抗するため、3000万人署名を成功させましょう!!!

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

P.S. 今から約30年前、東京都江東区で最寄りの駅が東陽町だった「早友」東陽町教室の教室長、および木場駅が最寄りの駅だった「清新塾」のやはり教室長だった伊藤達夫先生、また、当時かわいかった生徒の皆さん、これを見たら是非下記までお知らせください。黒山先生、福長先生と私が、首を長くして待っています。(また伊藤先生の情報をお持ちの方も是非お知らせください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。よろしくお願いいたします。

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