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三崎亜記『チェーン・ピープル』その1

2018-08-19 06:56:00 | ノンジャンル
 三崎亜記さんの’17年作品『チェーン・ピープル』を読みました。6編の短編からなる本です。
『正義の味方 ━塗り替えられた「像」━』
 岬の突端にある小さな公園に、その像は立っていた。「ねえ、おとうさん。これってなぁに?」五歳くらいの男の子が、しぼみかけた浮き輪を抱えて、像に駆け寄ってくる。(中略)左手を腰にあて、右手を高く天に突き出して仁王立ちする銅像の姿を、父親は改めて見上げた。(中略)顎に手をやったまま、時を経て読みづらくなった銘板に顔を寄せる。「なになに、え~っと、正義…の? 味…方、の像。正義の味方の像って書いてあるんだよ」「せいぎのみかたって、なぁに?」「息子の質問に、父親はすぐには答えられずにいた。「遠い星から来て、この国を『敵』から守るために戦ってくれた、とっても偉い人なんだって」「ふ~ん」(中略)男の子は早々と像への興味を失い、砂場でお城をつくるのに熱中しだしている。(中略)この岬は、「彼」が初めて、私たちの前に姿を現した、記念すべき場所であるにもかかわらず…。
 いわゆる「正義の味方」が、「彼(性別はきちんと定義付けされていないので、便宜的にそう呼ぶ)」の故郷であると言われている「遥か彼方の星雲」へと帰ってしまって、もう四十年以上の月日が経つ。四十年前、まだ少年だった私にとって、「正義の味方」とは文字通りヒーローだった。父親の見るニュースの冒頭で流れる華々しく戦う姿を、わくわくしながら見守ったものだ。だが次第に、「正義の味方」関連ニュースは、「補償」や「国防」や「裁判」などの、子どもには難しい話題で取り上げられることが多くなり、いつしか興味を失ってしまっていた。(中略)私は、さまざまな立場から言及された当時の記録を辿ることによって、彼の本来の「像」を明確にしていきたいと思う。彼が敵と戦い続けた日々を……。
 その当時、この国は「敵」の出現に悩まされていた。(中略)「敵」の最初の襲来から二週間も経ってから開かれた「未確認生物襲来被害検討会議」の場では、「敵」の正体について、四つの可能性が示された。(中略)①既知の生物が、何らかの条件によって巨大化、変形したもの ②未知の巨大生物 ③周辺他国によって送り込まれた生物兵器、もしくは機械兵器 ④他の星から飛来した未知の生命体(中略)①や②であれば、野生生物の保護を司る国際条約の禁止条項に触れる可能性があり、③であれば、思わぬ反撃が来た際の迎撃用の武器の使用を国会で審議する必要があった。④の場合は更に、攻撃することによって未知の物質や病原菌が市街地に拡散するであろうことも視野に入れておかなければならない。(中略)人々は、「敵」という嵐の襲来を前にして、台風のような「予想進路」も示されないまま、漫然と怯え、逃げ惑うしか術がなかった。そうして無為無策のまま「見守る」うちにも、「敵」は何度となく上陸し、思うさま破壊の限りを尽くしていったのだ。
 (中略)そんな時に、まさに彗星のように現れたのが、「彼」=「正義の味方」だったのだ。(中略)
 その後も何度となく、「敵」は出現した。だがいずれの場合も、住宅地に被害が及ぶ寸前で「彼」が出現し、人的被害を水際で食い止めてくれた。(中略)
 こうして、「敵」の侵攻は、「正義の味方」によって妨げられ、建物や人への被害は激減した。だが、それが何度となく繰り返されるようになると、さすがに、喜び一辺倒ではない反応も表れてくる。疑問視されたのは、彼の出現が、あまりにもタイミングが良過ぎるのではないかという点だ。(中略)そうなると、高揚したムードによって包み隠されてきたさまざまな疑問が、一気に噴出してきた。なぜ、「敵」はこの国ばかりやって来るのか? なぜ、「正義の味方」は、住民に被害が及ぶ直前まで手出しをしようとせず、姿を現さないのか? なぜ、「正義の味方」本人には何の利益もないであろう、「敵」の侵攻阻止に、自らの危険も顧みず、心血を注ぐのか?(中略)プロレスリングの世界で、さまざまなスターを生み出してきた陰の盾役者、黒田豪拳氏の著作『スターの条件』は、「正義の味方」の一連の立ち振る舞いに、ショーとしての視点から光をあてた、エポックメーキングな一冊だった。(中略)彼は著作の中で「正義の味方」を、「三分間のパフォーマー」と呼んだ。その影響もあって、以後、「正義の味方」がこの星で活躍できるのはたったの三分間で、一秒でも過ぎると死んでしまうという誤解が定着してしまった。(明日へ続きます……)

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

P.S. 今から約30年前、東京都江東区で最寄りの駅が東陽町だった「早友」東陽町教室の教室長、および木場駅が最寄りの駅だった「清新塾」のやはり教室長だった伊藤達夫先生、また、当時かわいかった生徒の皆さん、これを見たら是非下記までお知らせください。黒山さん福長さんと私が、首を長くして待っています。(また伊藤先生の情報をお持ちの方も是非お知らせください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。よろしくお願いいたします。


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