スカパーの260チャンネル「洋画★シネフィル・イマジカ」で、イングマール・ベルイマン監督・脚本の'61年作品「鏡の中にある如く」を見ました。
世界中を飛び回る小説家の父(グンナール・ビョルンストランド)は、娘のカーリンとその弟で17才のミーヌスと娘婿のマッティン(マックス・フォン・シドー)と久しぶりに会い、島で休暇を楽しみます。マッティンは父に、カーリンが1ヶ月前に精神病院を退院した際に、再発するかもしれないと言われた事を話します。ミーヌスは父と腹を割って話ができないと、カーリンに悩みを打ち明けます。子供たちは食卓の席でも父が家にいない時間が多すぎると不満を漏らします。険悪になった雰囲気を打破するため、父はスイスで買ったプレゼントを3人に渡しますが、サイズが合わず、家族のことをあまりに知らない自分に腹を立てて父は1人になって泣きます。3人は父を喜ばそうと、シェークスピア劇を演じます。翌朝、海鳥の鳴き声に不安な表情を見せるカーリンは、一人で起きだし、奇妙な仕種をした後、まだ起きて原稿を直していた父の部屋に行き、ソファに寝かされます。そこへミーヌスが窓から、マッティンの網が引かれるのを待ってると父に言います。父が出て行った後、カーリンは父の日記を読み、自分の病気が不治かもしれないことに父がショックを受けながらも、娘が壊れていく様子を記録したい、と書いてあるのを発見してしまいます。カーリンは、父の日記に自分が不治の病だと書いてあったとマッティンに訴え泣きますが、マッティンは再発するかもしれないと言っただけで、誤解だと言います。日記にはもっと書いてありましたが、自分からは言えないとカーリンは言います。父とマッティンはボートで吊りに出かけ、島には姉弟だけが残されます。姉は妄想の話をしだし、神が部屋に入って来ると言います。また、マーティンの言葉は自分の心に届かないので、マーティンを捨てて仲間を取るとも言います。弟は姉が見てるのは夢で現実ではないと言います。そして2人の間で今話したことは、父とマッティンには言わないように、と姉は弟に言います。父はマッティンに日記に書いたことを告白し、マッティンに責められます。逆に父はマッティンに、娘の死を願ったことがあるだろうと言い、マッティンはそんなことは決してないが、自分は彼女に対して無力だと言います。姉は雨が来ると言って、難破船に逃げ込み、ミーヌスは動けなくなった彼女を発見します。ミーヌスは祈り、姉と肉体関係を結んでしまいます。父とマッティンは帰って来るとすぐ、カーリンのもとに走ります。カーリンは父に入院はいいが治療は嫌だと言い、先程ミーヌスに力づくで犯されたとも言い、悩むのに疲れたと言います。父は自分も現実から懸命に自分を守って来たと言います。カーリンは入院することになり、マッティンは付き添って島を離れることになります。ヘリコプターの音で幻覚を見たカーリンは暴れだし、鎮静剤を射たれます。ヘリコプターでカーリンとマッティンは去り、残されたミーヌスは泣きます。そして姉と寝たことは現実を見失ってしたことで、これから何にすがって生きて行けばいいか分からないと父に言うと、父は愛の存在を確信していると言います。ミーナスは初めて腹を割って父と話せたと感激するのでした。
ベルイマンの映画はこの頃から難解になり、精神的なものになり、神の存在について延々と対話が続くような映画が増えて行きます。ということは、この頃から私はベルイマンの映画に苦手になっていくということです。登場人物が意味の分からない行動に出たり、話していることが難解で、それを理解するのに疲れたり。この映画でもそうしたことが言えると思います。最初の設定は面白いのですが、残念です。映像的には、1人1人の表情をアップでじっくり見せる(それも悩んでいる表情が圧倒的に多い)のが特徴です。私はこんな感想を持ちましたが、まだ見ていない方はご自分で判断されたらいかがでしょうか?
世界中を飛び回る小説家の父(グンナール・ビョルンストランド)は、娘のカーリンとその弟で17才のミーヌスと娘婿のマッティン(マックス・フォン・シドー)と久しぶりに会い、島で休暇を楽しみます。マッティンは父に、カーリンが1ヶ月前に精神病院を退院した際に、再発するかもしれないと言われた事を話します。ミーヌスは父と腹を割って話ができないと、カーリンに悩みを打ち明けます。子供たちは食卓の席でも父が家にいない時間が多すぎると不満を漏らします。険悪になった雰囲気を打破するため、父はスイスで買ったプレゼントを3人に渡しますが、サイズが合わず、家族のことをあまりに知らない自分に腹を立てて父は1人になって泣きます。3人は父を喜ばそうと、シェークスピア劇を演じます。翌朝、海鳥の鳴き声に不安な表情を見せるカーリンは、一人で起きだし、奇妙な仕種をした後、まだ起きて原稿を直していた父の部屋に行き、ソファに寝かされます。そこへミーヌスが窓から、マッティンの網が引かれるのを待ってると父に言います。父が出て行った後、カーリンは父の日記を読み、自分の病気が不治かもしれないことに父がショックを受けながらも、娘が壊れていく様子を記録したい、と書いてあるのを発見してしまいます。カーリンは、父の日記に自分が不治の病だと書いてあったとマッティンに訴え泣きますが、マッティンは再発するかもしれないと言っただけで、誤解だと言います。日記にはもっと書いてありましたが、自分からは言えないとカーリンは言います。父とマッティンはボートで吊りに出かけ、島には姉弟だけが残されます。姉は妄想の話をしだし、神が部屋に入って来ると言います。また、マーティンの言葉は自分の心に届かないので、マーティンを捨てて仲間を取るとも言います。弟は姉が見てるのは夢で現実ではないと言います。そして2人の間で今話したことは、父とマッティンには言わないように、と姉は弟に言います。父はマッティンに日記に書いたことを告白し、マッティンに責められます。逆に父はマッティンに、娘の死を願ったことがあるだろうと言い、マッティンはそんなことは決してないが、自分は彼女に対して無力だと言います。姉は雨が来ると言って、難破船に逃げ込み、ミーヌスは動けなくなった彼女を発見します。ミーヌスは祈り、姉と肉体関係を結んでしまいます。父とマッティンは帰って来るとすぐ、カーリンのもとに走ります。カーリンは父に入院はいいが治療は嫌だと言い、先程ミーヌスに力づくで犯されたとも言い、悩むのに疲れたと言います。父は自分も現実から懸命に自分を守って来たと言います。カーリンは入院することになり、マッティンは付き添って島を離れることになります。ヘリコプターの音で幻覚を見たカーリンは暴れだし、鎮静剤を射たれます。ヘリコプターでカーリンとマッティンは去り、残されたミーヌスは泣きます。そして姉と寝たことは現実を見失ってしたことで、これから何にすがって生きて行けばいいか分からないと父に言うと、父は愛の存在を確信していると言います。ミーナスは初めて腹を割って父と話せたと感激するのでした。
ベルイマンの映画はこの頃から難解になり、精神的なものになり、神の存在について延々と対話が続くような映画が増えて行きます。ということは、この頃から私はベルイマンの映画に苦手になっていくということです。登場人物が意味の分からない行動に出たり、話していることが難解で、それを理解するのに疲れたり。この映画でもそうしたことが言えると思います。最初の設定は面白いのですが、残念です。映像的には、1人1人の表情をアップでじっくり見せる(それも悩んでいる表情が圧倒的に多い)のが特徴です。私はこんな感想を持ちましたが、まだ見ていない方はご自分で判断されたらいかがでしょうか?
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