美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

成瀬巳喜男『まごころ』を観る 記憶に刻み込まれたワン・シーン  (イザ!ブログ 2012・7・31 掲載)

2013年11月24日 08時28分31秒 | 映画
今月の二七日に、私は神保町シアターで成瀬巳喜男の『まごころ』(1939)を観ました。いま当シアターでは、「ニュープリントで蘇った名画たち」という特集を組んでいます。当作品は、その中のひとつです。

私はこれまで、成瀬巳喜男の映画はできるだけ観るようにしてきました。DVD化されたものは全て観ていますし、そのほかの、映画館でしか観られないものもけっこう観ていると思います。自慢じゃありませんが、サイレント物だって四、五本は観ています。つまり、成瀬は、私が遅ればせながらも「入れ込んでいる」映画監督なのです。偏愛している、と申し上げてもよいでしょう。

「遅ればせながらも」と申し上げたのは、私が成瀬巳喜男の存在をはっきりと意識したのが、2010年末に亡くなった高峰秀子主演の映画を2011年にまとめて観てからのことだからです。高峰秀子と成瀬巳喜男とで10数本の映画を作っていること。その大半が日本映画史に残る屈指の名作であること。映画作りにおいて余人が口をはさむことがかなわないほどに二人の心のつながりが深いこと。そうした一切を、私は高峰秀子が亡くなってから知ったのでした。また、成瀬映画にのめり込むことで、なぜか小津安二郎の偉大さもはらわたに染み透ってくるようになりました。その分、黒澤映画に対する評価が少しずつ低くなっていったのはなぜなのでしょうか。成瀬映画と小津映画は私のなかで両立するが、黒澤映画とはどうやら両立しないようなのです(『生きる』は例外です)。ただし、溝口健二とは両立するようです。これはどういうことなのか、いずれ整理してみたいと思っています。溝口が成瀬映画を「キンタマがない」と評したのは有名な話です。これは、二人の作風の違いを物語る名文句であると思います。

高峰秀子主演の成瀬映画で最も有名なのは『浮雲』(1955・林芙美子原作)です。これが傑作であることに、私になんの異論もないのはもちろんのことです。が、私がいちばん好きな成瀬・高峰映画は『浮雲』ではなく『稲妻』(1952)です。私はこの映画を観て、変な言い方に聴こえるかもしれませんが「人間に生まれてよかった」と心底思ったほどに心を揺さぶられました。母親役の浦部粂子の女優としての卓越性を思い知ったのも、この映画を通してです。(浦部粂子は、木下恵介の『野菊の如き君なりき』でも忘れえぬ名演をしています)高峰秀子が出ていない作品では、『山の音』(1954・原節子主演)が最高峰であると思っています。並木の、歩道に映るストライプの影を効果的に使った、山村聡と原節子が並んで歩くラスト・シーンを大画面で観ると、その美しさは暴力的なほどです。一緒にこの映画を観た映画友だちは、その暴力性をもろに浴びて、身体に変調をきたしたくらいです。その美しさの強度が、感覚の鋭い彼のキャパを瞬間的に超えてしまったのでしょう。キザなことを抜かしているように聞こえるのかもしれませんが、これは実話です。

こんなふうに成瀬に入れあげている私にとって、『まごころ』(1939)は未見の気になる存在の一つでありました。

その理由は、次のワン・シーンが、成瀬映画を特集した雑誌に掲載されているのを目にしたことにあります。一年くらい前のことでしょうか。私はこの場面の美しさに魅了されてしまったのです。ほれぼれとしてこの画像にみとれているうちに、こんな美しい表情のできる少女の声を聴き、その動きを目の当たりにしたいものだという思いが清水のように湧いてきました。その機会に、今回やっとめぐまれた、というわけです。



この場面にたどり着くまでの話の流れを説明しましょう。

小学6年生の富子(加藤照子・当時新人 画像中の少女)と信子(悦っちゃん 当時の人気子役)は大の仲良し。映画は、母子家庭で貧乏な富子の境遇と、信子の裕福な家庭とを対比的に描き出します。富子の母お蔦(入江たか子)は仕立物をして生計を立てています。一方、信子の父浅田敬吉(高田稔)は銀行勤めで、母(村瀬幸子)は銃後の地域活動のリーダー格。成瀬映画にしてはめずらしいくらいに、当映画は、1937年に勃発した日中戦争によって日常生活が戦争の色に染められていく様を丁寧に描いています。

今までずっとクラスで一番だった信子が、六年生の一学期の通信簿で10番になってしまいました。それを不服に思った信子の母は、夫にそれを告げますが、夫は気にもとめません。「全出席。身長・体重の順調な伸び。けっこうなことじゃないか」腹の虫が収まらない母は、クレームをつけに、担任の岩田先生(清川荘司)に会いに行きます。夫の社会的地位の高さを鼻にかけたような物言いで、プレッシャーをかけようとする母親に対して、担任は「信子さんは非常に明るい利口な子供さん。お宅のような家庭で育った人でなければ得がたいような、のびのびとした朗らかなところがあって、そういう点は大変いいことだと思っている。しかし、一面から言うとわがままで気まぐれなところもある。低学年の間は、あまり勉強しなくても生まれたままの素質だけでいい成績をあげることもあるが、六年生ぐらいになるとやはり多少努力してやっていかないといけないと思う。そういう点、信子さんは才走りすぎて、地味な着実な努力が足りないようだから、今の状態で放っておけば、先に進み次第、もっと成績が低下し、性格の方もわがままだとか、気まぐれだとか、少し見栄張りだとか、そういう面白くない方面ばかりが発達するのではないかと心配している。」と、教育の専門家としての見識にあふれた、誠実かつ毅然とした対応をします(こんな教師、いまではありえないでしょう。親から教育委員にねじ込まれて大問題にされるのがオチでしょう)。それに加えて、クラスで一番になったのが富子と聞いた信子の母は、なおさら、腹の虫がおさまりません。

実は、富子の母・蔦子と信子の父・敬吉は昔恋仲だったのです。しかし、敬吉は書生として入っていた家の婿となり、いまの信子の母親と結婚しました。蔦子は身を引く形で他の男に嫁ぎました。そういう、子どもたちの全く知らない過去があったのです。だから信子の母は、腹の虫がおさまらないのです。その夜、母が父・敬吉を「あなたは、まだ、お蔦さんを思っているんでしょ」となじっているのを、まだ、寝入っていなかった信子が聞いてしまいました。

信子は、翌日それを富子に正直に伝えます。大好きな母のペルソナが目の前で壊れていくような気がして、富子は涙がぽろぽろと出てきてとまりません。大好きな富子が悲しそうにしているのを見て、信子も涙がぽろぽろ出てきます。

帰宅して、富子はいつもとちがった目で母を見ます。そうして、どうにも我慢できなくなって、母に信子から告げられたことを伝え、亡くなった父がいい人であったのかどうかを確かめようとします。母はとてもよい父親であったと言って富子をなだめようとするのです。が、そばで聞いていた祖母(藤間房子)は、それとは真逆のダメで酷薄な父の実像を直截に富子に告げます。(残酷な祖母のようですが、祖母には祖母なりに「子どもに変なウソをつくのは良くない」という倫理感があるようで、成瀬は微妙な好感を抱きながら祖母を描いているように感じました)富子は、あまりの意外な事実に混乱して泣いてしまいます。

母にうながされて、富子は川へ水浴びに行きます。そこへ信子も父といっしょにやってきていました。父は釣りをし、信子は富子と楽しく遊んでいたのですが、信子が河原で足に大怪我をしてしまい、富子は走って家に帰り、母を信子のところに連れてきます。繃帯と薬を持った母・お蔦が信子といっしょに現場にたどり着くと、かつての恋仲の敬吉が信子のそばにいるのが目に飛び込んできました。二人がややぎこちない挨拶を交わすのを富子と信子が目を大きくして見守ります(二人の視線の交差によって、この場面に微妙で生き生きとした心理描写が加わります)。富子の母が、信子の介抱を終えると、敬吉は信子をおんぶして富子の母に品のある笑顔でお礼を言います。信子は父の背におぶさりながら振り返って笑顔で手を降り、二人を後に残します。

富子は「信子さんのお父さんは、とても良い方ね。」と母に言います。そうして、母におんぶをしてほしいとおねだりをします。母は娘の気持ちを察してこころよくそれを聞き入れます。それが、上の写真の場面です。このすぐ後に、富子はだれもいない後ろに向かって手を振ります。それを見て、母は「だれもいないのにおかしな子だねぇ。信子さんのマネをしたいんだね。」と語りかけます。富子は微笑で応えます。

これを書きながら、この場面が、富子の心理描写として秀逸なものであることを思い知りました。富子の、不在の父なるものへの思慕の念と、それを投影する対象としての信子の父親へのあこがれと、そういう思いを抱かせるほどに魅力のある信子の父に若い頃好意を抱いた母に対する納得感と、まだ親に甘えたい盛りの少女の自然な感情とが、この場面で見事に描かれているのです。子どもが(観客を含めた)大人に媚びる可愛らしさではなく、その自然体の滲み出してくるような可愛らしさが見事に描かれています。

嫉妬深い信子の母は、その後どうなったのか。それは、映画を観てのお楽しみ、というわけで省略します。

成瀬映画は、観ているときはなんということもないのですが、振り返ってみると、いくつかの場面が心のひだにすっと入り込んでいることに気づきます。そうして、そこに凝縮されていたものが鮮やかに立ち現れます。それは、人生の味わいそのもの、と言ってしまってもいいのではないでしょうか。振り返ったときに鮮やかに立ち現れるものの連なりが人生なるものの味わいや手触りの核を成しているように、私には思われるのです。成瀬は、人が本当のところどうやって生きているのか、よく分かっている映像作家なのでしょう。これだから、成瀬映画はやめられません。『存在と時間』で、伝統的な西洋形而上学を否定・破壊しながら、現存在が実のところどうあるのかを生々しく描こうとしたハイデガーが、もしも成瀬映画を観たならば、嫉妬のあまり呆然とするに違いない、というのは私の妄想ですけれど。成瀬が子どもの世界を描いた名作に『秋立ちぬ』(1960)があることを申し添えておきましょう。残念ながらDVD化されていないので、映画館で見るほかはないのですが。

ストレスフルな日々をお過ごしの皆さま。たまには、せいぜい100人くらいしか収容できないミニ・シアターで、物静かなお客さまたちとともに、レトロな日本映画をご堪能あれ。たったの1200円で、癒されること請け合いですよ。生血のしたたるビフテキのようなハリウッド映画からときには離れて、お茶漬けサラサラの、古い日本映画にわが身をゆだねるのもなかなかいいものです。
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「はなわちえ」という優れもの、発見 (イザ!ブログ 2012・7・28 掲載)

2013年11月24日 07時53分00秒 | 音楽
私は昔から『津軽じょんがら節』がとても好きでした。当楽曲がテレビで演奏される場合は、それが誰によるものであろうと関係なく、必ずと言っていいくらい、他のことをしていた手を休めて、聞き入ったものでした。津軽の吹雪の真っ只中から生まれてきたような、その哀切さと激しさと独特の繊細さに胸を打たれたのは一度や二度ではありません。

そういう個人的な事情を離れたとしても、これが日本における名曲中の名曲であることに、おそらくほとんどの人は異論がないのではないでしょうか。

では、誰の演奏がベストなのだろう。そう思い、You tube であれこれと聴き比べながら、試行錯誤してみました。

まずは、当然のことながら高橋竹山さんから。もちろん申し分ない。しかし、それなら誰でも思いつく。そう思うと、天邪鬼の虫が目を覚ます。上妻宏光。緻密な構成で抜群の上手さではあるのだが、技巧が目立ちすぎる嫌いがある。吉田兄弟。これはこれで驚異の三味線ユニゾンなので秀逸なのではあるが、もう少し探してみよう。ひょっとして、寺内タケシとブルージーンズがいいのでは。うーん。悪くはないのだけれど、どこか色モノ臭いところがあるなぁ。藤あや子のは、そのルックスともども捨てがたいけれど、基本、歌だしなぁ。

そんな風にして、物見高く物色していた私の耳と胸を、ものの見事にかっさらってしまったパーフォーマーに出遇いました。それが、はなわちえさんだったのです。(このとおりに、ひらがなで書きます)



(2012年7月27日飯田橋ラムラ ミニコンサート会場にて はなわちえさんのブログより転載)

彼女のプロフィールで、判明しているものを掲げておきます。

1982年6月18日生まれ。 茨城県日立市出身。 9歳の時に佐々木光儀氏に師事し、津軽三味線を習い始める。(上妻宏光氏と同門。)
2000年 津軽三味線全国大会A級女性部門に初挑戦して、17歳で最年少のチャンピオンとなる。
2001年 東京芸術大学音楽学部邦楽科入学。(長唄三味線専攻)
2004年 コロンビア・ミュージックからCD『月のうさぎ』が発売される。
2005年 マレーシアのペナン・ジャズ・フェスティバルに出演。東京芸大卒業。
2006年 マレーシア・クアラルンプールでのフェスティバルに出演。
2009年 東京芸大出身者による和楽器ユニット「結」(ゆい)を結成。また、同じく東京芸大出身のバイオリニスト沖増菜摘と「hanamas」を結成。
2010年 「hanamas」 として第1回ネオ・クラシック国際コンクール奨励賞受賞。


プロフィールから、彼女が津軽三味線界のサラブレッドであると同時に、その業界の枠やジャンルをはるかに超えて、自分の音楽本能のおもむくままに自由に活動している「異端児」でもあることがうかがえます。今の彼女は、「何をしているのか」と聞かれたら、しばらく考えた後、おそらく「音楽をやっています」と答えることでしょう。

しかしながら、彼女は、津軽三味線奏者としての求道的な一面も保持しています。最近のブログで、「自分の身体の中で鳴っている音と実際に出ている音とのギャップを感じる。それを埋めるには、ひたすら三味線を演奏し続けるしかないのだろう」と洩らしています。これは、真の表現者の生々しい告白であると、私は感じます。

彼女の、ジャンルを超えた旺盛な音楽活動は、自分の名をもっと世間に広めたいという虚栄心からのものではなく、止むにやまれぬ表現欲求、いいかえれば音楽的な生命感の発露そのものなのではないでしょうか。そのせいか、彼女は自分を商品として売り出すのがあまり上手ではないような気がします。

体重88kgでありながらもフットワークの軽い(?)私は、昨日彼女の無料ミニコンサートを聴きに、飯田橋ラムラまで足を運びました。行ったことはありませんが、暑さの本場インドにも負けないくらいの猛烈な暑さに眩暈を感じながらも会場にたどり着いた私ではあったのですが、いまでは、とにもかくにも行って良かったと思っています。

生演奏をする彼女は、とても楽しそうでした。そうして、これは外せないポイントなので申し上げておきますが、その小柄な卵型の身体像はとても可愛らしくて独特の、透明感のある色香を発散していました。それと、洗練された、右手の迫力のあるリズミカルなバチさばきや、まるで別の生き物のように、棹の上を自由自在に俊敏に動き回る左手の5本の指とが渾然一体となって、躍動感と迫力のあるコトコト音がリズミカルに空間に刻み込まれて行くのです。エロスの密度の濃い場がそこに成立していた、ということです。むろん、三味線弾きとしてはめずらしい立奏のもたらすダイナミックな効果も無視できません。

私のこの感じ方は、中年男のスケベ根性(その存在の否定はしませんよ)のせいとばかりはいえないようです。というのは、彼女自身がそのブログで、昨日のミニコンサートを振りかえり「最近自分の中で、「セクシーな表情で弾く」っていうテーマがある 色気とか艶っぽさとか出して行きたい」とコメントしているのですから。その演奏の核心が、彼女の音楽的生命の発露である以上、そういうこだわりを持つに至るのは当然のことでしょう。
演奏を聴いた感想がたくさんほしいとのことなので、彼女のブログのコメント欄に、私は次のコメントを投稿しました。

昨日のミニ・コンサート、行って来ました。ちゃんと投げ銭2000円を出しておふたりのCD(2nd Album『hanamas garland』―注)も手に入れましたよ。 (彼女のCDは、コンサート会場のみの販売だそうです―注)ノリノリの行進曲もよかったのですが、私の、はなわさんとの出会いが『津軽じょんがら節』だったせいで、やはり民謡2曲の『八木節』と『木曽節』(?)の哀調が印象に残りました。家に帰って聴いたCDは、そのセンスの新しさにおいて音楽界のおそらくトップランナーの演奏になっているように感じましたが、あくまでもポピュラリティを失っていないところに好感を抱きました。9月4日のコンサートにはぜひ行きたいと思っています。ちえさんの演奏についてのブログをアップしたらお知らせします。

9月4日のコンサートの内容を掲げておきます。

2012年9月4日(火)一夜限りの夢ライヴ開催! Girls instrumental Festa
「女性アーティスト3組によるインストゥルメンタル・ライヴです。二胡の野沢香苗、津軽三味線とヴァイオリンのhanamas、ピアノ&ヴィブラフォンのMIKI et MAKI。個性豊かな3組が心地よい音楽をお届けします。ご期待ください。
場所:原宿ミュージックレストラン ラドンナ(03-5775-6775)
時間:open18:00 start 19:00
チケット代 前売 3,500円 当日4,000円


ご紹介する演奏は、どうしても一つに絞り込めなかったので、二つになります。両方とも聴いていただければ、その理由が分かっていただけるのではないかと思われます。一言でいえば、二年弱の歳月の流れのなかでの、演奏家としての彼女の変化・成長が手に取るように分かるからです。人並みはずれた才能があるうえに美しくて魅力のある女性の、歳月による変化を目の当たりにするのは、打ち消しがたい喜びが伴うものです。


はなわちえ - 津軽じょんがら節@BoozyMuse 2009.11.20

2009年11月20日演奏。彼女の、内なる激しい表現欲求のストレートな発露が感じられる迫力満点の堂々とした演奏です。ここに、おのずと全く新しい『津軽じょんがら節』の誕生が告げられています。彼女の、表現者としての赤裸々な姿が原形として刻印されている、と申し上げても過言ではないでしょう。戦時中に小林秀雄が古典との邂逅を果たしたときの鮮烈さに似たものがここにあります。バチさばきの激しさをどう受けとめるか、見解が分かれるところではあると思われますが。

はなわ ちえ 「津軽じょんがら節」 独奏♪

2011年6月15日演奏。客に「見せる」「聴かせる」ことをより強く意識するようになった姿がここにあります。表現欲求の発露の激しさは、高度なプロ意識によって見事にコントロールされるようになっています。この演奏の続きをずっと聴いていたいものです。

*これをきっかけに、私ははなわちえ関連のライヴにせっせと通いつめることになりました。自慢にもなんにもなりませんが、これまでに10数回は行ったのではないでしょうか。おかげさまで、ソロとしての沖増菜摘さん、キーボード奏者・keikoさん、フルート奏者・Yumikoさん、ピアニスト・三枝伸太郎さんなどの素晴らしいミュージシャンと出会うこともできました。(2013・11・24 記)
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いじめ問題の人間論的基礎 大津市いじめ自殺事件をめぐって  (イザ!ブログ 2012・7・21 掲載)

2013年11月24日 07時38分05秒 | 教育
大津市のいじめ事件でいま世論は沸騰しています。私も教育の端っこに位置する者として、少なからず関心があります。阿比留瑠衣さんがiza!の自身のブログで、いじめ問題を取り上げていた(七月十八日)ので、私はコメントを二回も投稿しました。彼のブログはいつも超人気で、いつもいろいろな人がさまざまなコメントを投稿してきます。だから、ここのコメント欄で展開されている対話は世論の縮図といっていいでしょう。

まずは、阿比留さんの投稿内容について。タイトルは、『「いじめ」を受けた側は一生忘れないという現実について 』。

いじめ、についてであります。以前のエントリかコメント欄でも書いたことがあるように思いますが、私も小学校1、2年生のころ、通学班の上級生からいじめられたことがあります。言葉でのいじめのほか、通学途中、ただでさえ3月生まれで体の小さい私を、彼らがからかいながら冬のどぶ川に突き落としたことなどを、今でもとてもはっきりと記憶しています。毎日がとても辛く、苦しかったことは忘れようがありません。

ご自身の小学校低学年のころのいじめ体験を語る印象的な書き出しです。それを踏まえたうえで、阿比留さんは、いじめの加害者に向かってこう語りかけます。

あなたは、今いじめている相手から、一生恨まれ、機会あれば復讐される覚悟があっていじめていますか。あなた自身は軽い気持ちであり、いつか相手のことを忘れても、いじめられた側は、絶対に忘れません。この切実で悲壮な思いに時効などありません。相手は常にあなたの存在を不快かつ排除すべきものと思い続けます。将来、仕事や何かの事情であなたと相手が再びあいまみえ、関係を持たざるをえないことだってあるのです。私も、今は生活上、何の関係もないHやSとどこがでかかわりを持てば、決して平静を保てないし、許すこともないでしょう。

私は、社会評論で心を深く動かされることは滅多にないのですが、上の文章にふれて、衝撃を受け、深い感銘を受けました。阿比留さんが、自分の正直な声に耳を傾けて物を書いている、いいかえれば、深い人間洞察に基づいて物を書いている人であることが、はっきりと分かったからです。

阿比留さんは、次のような対処療法を提示して、この文章を結んでいます。

たとえ本質論から外れていようと、今そこにあるいじめを少しでも減らすためには、ありとあらゆるレトリックと法体系、マスコミその他を通じた社会的制裁を行使し、とにかくいじめなんてやってられないよ、という状況を一刻も早くつくるべきだと愚考しています。私は個人的な体験もあり、何が嫌いと言って、いじめや差別ほど嫌いなものはありません。

よく言われることですが、すぐれたジャーナリストは、「鳥の目」と「虫の目」を合わせ持っています。「鳥の目」とは、全体を見渡す鳥瞰図的な視点であり、「虫の目」とは、地面を這いずり回る現場感覚にあふれた視点です。この文章では、主に「虫の目」が強調されています。が、すぐれたジャーナリストである阿比留さんは、「鳥の目」の視点を書き込むことをこの文章においても忘れていません。

大津市の件では、何より問題なのは学校と現場教師であり、事実上、学校と共犯関係にあった市教委であることは間違いありません。私がこのブログでしつこいぐらいに書いてきた山梨県の事例を引くまでもなく、教育委員会の事務局は教師の出向者の集まりであり、教育長の多くは教師の退職後の天下り先であり、今回の事例では詳しく把握していませんが、そうしたもたれ合い構造の背景には教職員組合の存在があります。

その上で、この文章においては「虫の目」を強調することによって、阿比留さんは、いじめ問題を考える上での人間論的な基礎を提示することに成功していると私は考えます。では、「いじめ問題を考える上での人間論的な基礎」とは何なのでしょう。それは、タイトルにあるとおり、『「いじめ」を受けた側は一生忘れないという現実』です。

では、私がコメント欄に投稿した内容とそれに関わる他の方のコメントを時系列順に並べてみましょう。

いろいろなハンドルネームが登場しますが、それらはすべて阿比留さんのブログのコメント欄への投稿者です。

Commented by 美津島明 さん
「悪心影」さん へ

>犯罪者から子供を守るべき人達が全く動かなかった。
>そのために結果、犯罪者に殺されてしまった。
>色々言われていますが、結局こういうことだと思います。

私も、次第にそういう印象を強めています。「atoms3001」さんがおっしゃっていたように、〈①「自分は悪くない」と責任を逃れる、②「自分は知らない」ととぼける ③「出来ることならば、自分は関わりたくない」と見て見ぬフリをする〉という(菅前総理のような)小役人根性の持ち主ほど、普段は、やれ平和だ、やれ人権だとキレイごとをならべているのですが、いざとなれば、我が身可愛さから、保護すべき生徒が犯罪に巻き込まれて命を落とした可能性から、目を背ける、とても醜い心根の持ちであることが多いことを今回再認識しました。ここで民主党批判をする気はないのですが、それにしても、滋賀県大津市の教育関係者一同と歴代の民主党執行部の言動パターンがそっくりなのには、思い半ばに過ぎるものがあります。

阿比留さんの、自分の体験を交えた「イジメは損」という考え方に、心からの賛意を表します。いじめられ、命まで奪われた側の怨み・つらみは、一生消えません。そういうリアルな人間認識に基づかなければ、被害を受けた人間に対する深い共感は生まれません。そこに根ざさない論は不毛であるとも思います。加害者を「許す」ことの方が人間として高級だ、などという考え方は、弱者の辛さに根ざさない非人間的な寝言であると思います。

いじめを受けたことによる屈辱感や被害感や悔しさや加害者に対する殺意は、子どもの世界だけのことではありません。私は、以前勤めていた会社で上司から受けたいじめに対して、いまだに屈辱感や被害感や悔しさや加害者に対する殺意を抱いています。おそらく、一生許すことはないでしょう。だから、阿比留さんのいうことがとてもよく分かります。(ちなみに、私と同時に同じ会社に入った年若い知り合いは、私をいじめた上司と同じ人物によるいじめが原因で、強度のうつ病を患い、いまだにその後遺症に苦しんでいます)

自分の持つそういう限界や心の狭さを謙虚に受け入れることが、すべての議論の出発点であると私は考えています。繰り返しになりますが、物事を深く考え抜く基礎は、自分の素直な声にできうる限り静かに耳を傾けようとする姿勢です。

Commented by 美津島明 さん
「やせ我慢A」さん へ

>イジメって、100%悪いことでしょうか?
>イジメって、根絶できるものなんでしょうか?
>私は疑問に思っています。

この論点については、「よもぎねこさん」の視点でおおむね解決できるのではないでしょうか。「よもぎねこ」さんは、こうおっしゃっています。

>「苛め」と言って済むのは「仲間外れにされる」「悪口を言われる」ぐらいまでで、今回の大津の事件のような物は集団暴行、恐喝、自殺教唆などの犯罪として教育ではなく司法の手で処理すべきだと思います。

つまり、教育が対象とする「苛め」が、心身の具体的脅威を感じるにまで程度がはなはだしくなった事態は、「苛め」とは区別して、「犯罪」として司法の対象になる、という考え方が常識になることが必要なのではないでしょうか。

その場合、〈教育関係者の責任は、「犯罪」の被害者である生徒の保護者に事実を告げることである〉という考え方を徹底することが必要と思われます。

つまり、われわれ自身が「自分で抱えきれない問題を抱えようとするのが良い教師」というストレスフルな共同幻想から訣別しなければならないのではないかと私は考えます。

そうすると、現場の教師たちもいい意味で大分楽になるはずです。現場の教師のストレスを増やす方向で世論が沸騰するのは、彼らが預かる生徒たちや保護者にとって得策ではないと考えます。


このコメントに対して、「やせ我慢A」さんから、次のような丁重なご返事をいただきました。

Commented by やせ我慢A さん

美津島明さん へ

>つまり、われわれ自身が「自分で抱えきれない問題を抱えようとするのが良い教師」という>共同幻想から訣別しなければならないのではないかと私は考えます。

>そうすると、現場の教師たちもいい意味で大分楽になるはずです。現場の教師のストレス>を増やす方向で世論が沸 騰するのは、彼らが預かる生徒たちや保護者にとって得策ではないと考えます。

とても参考になる視点を、ありがとうございました。

どこまでがイジメか? という定義すら無い状態で、また、イジメが、どんな状態でどのように発生・エスカレートするのか、といった基本的な観察をすっ飛ばして、精神論・道徳論・日本的教育批判・戦後教育批判…などばかりで、疑問を感じていました。


なお、「yuurimorucot」さんの次のコメントは「予言的」でした。

Commented by yuurimorucot さん

阿比留さんに全く賛同いたします。親たちも自分の子供がいじめる側にならないように、育てていくことが大事ですね。とかくこういう事件が起きた時、日ごろ「人権、人権」と叫ぶ人たち、「平和、平和」と叫ぶ人たちはダンマリを決め込むんですよね。(民主党の輿石さんや前文科大臣の地元の川端さんとかも)


なぜなら、その数日後、民主党輿石幹事長が次のコメントを公表したからです。

記者 大津市のいじめ自殺事件への所見を

輿石氏 非常に残念なこと。だれが責任がある、ないなんて問題ではない。尊い人の命をなくしてしまう、自ら命を絶つ、そういうのは大変なことなんで。学校が悪い、先生が悪い、教育委員会が悪い、親が悪いと言ってる場合じゃないでしょう。みんなで、そういうことのないようにきちんとやっていく、ということだと思います。

記者 教育現場にいた立場から、何が問題だとみるか?

輿石氏 それは、なかなか簡単に「こういうところに原因がある」という、そのことが分かれば、防げるでしょう。そう簡単ではないでしょう。


見事なまでに、倫理観ゼロの事なかれ主義が露呈されている発言です。こういう脳みそ空っぽの人間にとてつもない権力が集中している現実をどう形容すればいいのか、私は適切な言葉が思い浮かびません。
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恐れていた事態の進展 日銀愚策の顛末  (イザ!ブログ 2012・7・19 掲載分)

2013年11月24日 07時33分28秒 | 経済
東京円、1カ月半ぶり高値 日本国債にも買い殺到

19日の東京外国為替市場の円相場は一時、1ドル=78円台半ばまで上昇し、約1カ月半ぶりの円高ドル安水準となった。

欧州債務問題への懸念を背景に、投資家のリスク回避の姿勢が一段と強まり、日本国債にも買いが殺到し、長期金利は約9年ぶりの低水準となった。午後5時現在の円相場は、前日比45銭円高ドル安の1ドル=78円59~60銭。ユーロは44銭円高ユーロ安の1ユーロ=96円62~66銭。 2012/07/19 18:09 【共同通信】


昨日、当ブログで、日銀白川総裁の「追加金融緩和なし」の記者会見を取り上げました。白川総裁が口先でどう言おうと、金融政策担当者としての日銀の、本音、実力、実態は、マーケット関係者の間では、ばればれである、その鋭敏な判断は数値で表出される、と申し上げた通りに事態が進展していることが、冒頭の記事からお分かりになるのではないでしょうか。

白川総裁によれば、為替のこのような動向を「注視」し続けるのが、中央銀行の役割であると、恥知らずにも言い続けているわけです。なぜなら、これまでずっと日銀は金融緩和を積極的に推進し続けてきたので、事態がどれほど悪化しようと、それは自分たちのせいではないから、というわけです。滋賀県の大津市の教育役人連中の言い草とそっくりですね。

そうする間にも、輸出関連企業(とくに中堅と中小の)の経営環境は、円高の進展によって、厳しさを増し、否応なく海外移転に向けて重い腰を上げざるをえなくなり、それに伴って、虎の子の技術が海外流出し、日本国民の雇用の機会が奪われ続けるのです。そうして、日本全体の経済規模がまた縮小していくのです。つまり、デフレの泥沼状態が続くことになるのです。何度でも言いますが、デフレ状態を放置する無能で亡国的な中央銀行は、世界の先進国のなかで唯一日本銀行だけなのです。

これのどこが「おおむね順調に推移している」状態なのでしょうか。はっきりとした、危機ではありませんか。もっとも、自分たちの高給が確保され、天下り先の金融機関が安泰であることを「おおむね順調に推移している」と形容しているのならば、よく分かりますけれどね。

これだけの事態に、日銀の責任を問わず、大胆な金融緩和を強く求めようとしない大手マスコミの「財務省・日銀翼賛団体」ぶりに、改めて唖然とします。顔のかわいい女性キャスターを並べて、困った顔をさせれば済むと思っているのなら、大間違いです。経済現象は、断じて自然現象なのではないのです。「困った事態は、すべて人災」と考えて間違いありません。

また、これだけ日本国債の金利が長年に渡って下がり続けているのにもかかわらず、いまだに「明日にでもハイパー・インフレが起こり、国債が暴落し、金利がギリシャのように暴騰する!」と言い続けて、消費増税を煽る「財務省御用達学者」には、もういい加減にしろ!と怒鳴りつけたくなってきます。大ウソをついてまでも、とにかく政府に取り立ててほしいのならば、まずは国会の敷地内に自分専用の犬小屋を作ってもらいなさいって。
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日銀白川総裁7月12日記者会見「追加金融緩和はなし」  (イザ!ブログ 2012・7・18 掲載分)

2013年11月24日 07時17分01秒 | 経済
先日、友人から「また白川がとぼけたことを言っているよ」と知らされました。それで、図書館に行き、彼が指摘した産経新聞の関連記事を確認し、家で取っている読売新聞の関連記事を読んでみました。なるほど、とぼけたことを言っています。日銀白川総裁は、一般国民が金融経済に疎いことをこれ幸いに、小難しい言葉使いで、これまで国民を欺き続けてきました。金融政策の最高責任者として、まことに罪深いことであると、私は心からの怒りを禁じえません。今回も、これまでと同様に、事実無根の言い張りと翻訳の必要な「日銀語」によって、金融緩和に対する自らの消極的な姿勢をむしろ積極的な姿勢と言いくるめようとしています。白を黒と言いくるめようとするその不誠実な態度は文字通り万死に値します。

そんなことばかり言っていてもしょうがないので、内容を具体的に検討しましょう。

今回、日銀が追加緩和を見送った理由は、日銀が7月12日にそのHPで発表した「当面の金融政策運営について」によれば、次の通りです。

〔1〕わが国の景気は、復興関連需要などから国内需要が堅調に推移するもとで、緩やかに持ち直しつつある。公共投資は増加を続けている。設備投資は、企業収益が改善するもとで、緩やかな増加基調にある。また、個人消費は、消費者マインドの改善傾向に加え、自動車に対する景気刺激策の効果もあって、緩やかな増加を続けているほか、住宅投資も持ち直し傾向にある。輸出にも、持ち直しの動きが見られる。

これを読む限り、日本経済は順調に推移しているとの印象を受けます。私の生活実感とかけ離れているので、おかしいと思い、日銀が先月に公表した短観に目を通してみました。こまかい数字を上げるのは、みなさんがあまり好まれないと思われますので、なるべく控えますが、例えば、企業の想定為替レートは、2011年が1ドル=79.27円なのに対して、2012年は78.95円と円高基調が浮かび上がっています。これは、輸出産業の苦戦を物語る数値と受けとめて大過はないでしょう。暢気に「輸出にも、持ち直しの動きが見られる」などとうそぶいている場合ではありません。円高基調は、日銀の金融緩和の不足を端的に物語る経済現象なのですから、日銀は腹をくくってさらなる金融緩和をすべきところなのに、日銀は例によって、そうは考えません。

設備投資の増加基調は、大企業にはやや見受けられるものの、中堅企業や中小企業には見受けられません。むしろ、手控え気味の数値です。それは、景況判断とほぼ対応していて、大企業のそれがやや持ち直し気味なのに対して、中堅企業や中小企業は、悲観的な見通しが顕著です。このことから、日銀の大企業重視がよく分かります。それにしても、「消費者マインドの改善傾向」とは恐れ入りました。デフレ不況と消費増税を睨んで、消費を手控えざるを得ないと思っている消費者が一般的であることが、高給取りの日銀職員にはピンとこないのでしょうね。公共投資の増加の継続とは何を指しているのか、よくわかりません。1997年以来、公共投資を削減し続けてきた歴史は日銀ではなかったことにされているのでしょうか。

要するに、金融緩和の見送りを正当化するために、信じられないことですが、日銀は自分たちが作った短観の数値を全国民的見地から虚心に見つめることなく、強引に「景気は、緩やかに持ち直しつつある。追加の金融緩和をしなければいけないほどに日本経済はひどくない」と言い募っているのです。こういうのを、庶民の間では、ひ弱で根性の腐ったヤツといいますね。


〔2〕海外経済は、緩やかながら改善の動きも見られているが、全体としてなお減速した状態から脱していない。国際金融資本市場では、欧州債務問題を巡る懸念等から、神経質な動きが続いており、当面十分注意してみていく必要がある。


要するに、世界経済は、良い状態とは言えないが、積極的な措置を講じるほどの状況にはまだ至っていないので、いまは静観するに若くはない、と言っているわけです。

本当にそうでしょうか。私には、いまのアメリカはEUの状況をピリピリしながら注視し、債務問題が嵩じてデフレ圧力の大波がEUから押し寄せるならば、いつでもQE3(量的金融緩和第3弾)で応じる構えであるように映ります。大統領選を控えたオバマ大統領は、景気の悪化を押さえ込むために目の色を変えてドルを剃りまくるにちがいありません(そうしないと再選の芽がないので)。また、EUに対する輸出額が20%弱を占める中国経済の成長が減速しつつある状況は連日のように各マスコミで報じられています。中国の債務はEUをしのぐとも言われています。その巨大なバブルがはじける日がやがて(早ければ今年の秋に)来ることをわれわれは覚悟しなければならない段階にさしかかっているようです。さらには、世界恐慌第二弾の地雷原であるEUは、ギリシャのEU離脱をかろうじてしのいだものの、今後の状況は不透明なままです。クルーグマンによれば、ギリシャはいずれ100%EUを離脱するとのことです。もともと、経済状況が極端に異なる国同士の間で通貨統合をしてしまった無理がたたっての今日の状況であることを考えれば、これからもEUは不安定要因を抱え込んだままなのです。EUは、いったいいつまで「ヨーロッパはひとつ」という妄想にしがみついて、世界に迷惑をかけつづけるのでしょう。愚かなことです。

これらを一言でまとめれば、日本はEUからと中国からとアメリカからの三つの性質の異なった大津波のようなデフレ圧力の襲来の危機に日々直面しているのです。静観も注視もなにもあったものではありません。巨大な津波に対しては防波堤を築かなければなりません。同じように、デフレ圧力の襲来に対しては、その衝撃を最小限に食い止めるように、私見によれば最低2%、できれば3~4%程度のインフレという衝撃の吸収装置を設定しておかなければなりません。それが、国家の総合安全保障の見地からいま何を措いてもやっておかなければならないことなのです。消費増税をしなければハイパー・インフレになる、とか、民主主義のために消費増税を、などと寝惚けた世迷言をほざいている場合ではないのです。嵐がやって来るときに、窓を開け放つ馬鹿がどこにいますか。

世界経済の状況に触れながら、追加の金融緩和を見送る日銀の思考経路が私には理解不能です。別のところで、「景気のリスク要因をみると、欧州債務問題の今後の展開、米国経済の回復力、新興国(主に中国を指しているー引用者注)・資源国の物価安定と成長の両立の可能性など、世界経済を巡る不確実性が引き続き大きい」とまで言っているのですから、そうしない理由を探すのがむずかしい。もっとも、08年のリーマン・ショックのとき本当になにもせずに、日本経済がデフレの嵐にのたうちまわるのをのほほんと座視した「前科」を持つ日銀だから、それは当然のことだ、とは言えるかもしれません。しかし、それは国民経済のためにまともな金融政策を実施することを放棄していることになるわけですから、政府は、そんなふざけた日銀からさっさと資本金を引き上げて、財務省にでも金融政策をやらせたほうが緊急避難的には数段即効性があると私は考えます。それほどに、いまの日銀はひどいということです。私はシャレで言っているわけではないのですよ。

それに加えて、大胆な金融緩和の実行を阻むハリボテ、あるいは金融緩和もどきのふるまいのアリバイの役割しか果たしていない「資産買入等の基金」の中身をごちゃごちゃとこまかくいじくっています。「固定金利方式・共通担保資金供給オペレーションを5兆円程度減額し、短期国債買い入れを5兆円程度増額する」とは要するに現金を現金と交換するための内訳の金額のアクセントの付け方を若干変えますということで、量的金融緩和の推進とは何の関係もないことです。私には、仕事をしているポーズをとっているだけとしか映りません。こういうのを税金ドロボーといいます。

同じく日銀が公表した「総裁記者会見要旨ー2012年7月12日(木)」から、記者と白川総裁とのやり取りをいくつかピック・アップして、コメントを添えましょう。

「日銀は、現在、資産買入等の基金の残高を本年度末に65兆円程度、来年6月末には70兆円程度まで積み上げていくことで、強力な金融緩和を推進しています」

白川総裁のこういう言葉を目にすると、私は暗澹たる気分に陥ります。というのは、これは端的に「なにもしません」と言っているに等しいからです。「基金」をいくら増やしてもマネタリー・ベースがほとんど変わっていない、というのはしょっちゅうなのです。「基金」を増やすというのは、マネタリー・ベースを増やすこと(すなわち量的金融緩和)をまったく保証しません。これが、日銀の詐術の基本です。マスコミは、本当だったら「『基金』の表示を廃止し、日銀は、マネタリー・ベースの推移を明示せよ」というキャンペーンを展開しなければならないのです。(日銀のマネタリー・ベースの推移の詳細な資料を日銀HPから取り出すのは、現状では、そうすんなりとはいかないのですねぇ)

ちなみに、マネタリー・ベース平均残高は、昨年12月に115.5兆円、今年6月に119.9兆円と、この半年で4.5兆円しか増えていません。増加率はたったの4%です。これで市場にインフレを期待しろと言ったって、無理に決まっています。インフレ期待が形成されるはずがありません。世界標準では、金融緩和とはマネタリー・ベースを数十%から数倍増やすことを指しています。日銀と日本の大手マスコミを除いて、それ以外の用法を私は寡聞にして知りません。日銀は、自分たちがしていることを金融緩和だと言い張るのを、世界から呆れられるだけなので、もういい加減にやめてはいかがかでしょう。

読売新聞から一つ。「日銀は、デフレ脱却に向けた『物価安定の目途』として示している消費者物価の対前年比上昇率1%の達成時期について政府が最初の消費増税を考えている2014年度との考えを4月に示している。この点についても白川総裁は、『(達成時期の見通しは)4月と変わりはない』と言い切った」

よくもぬけぬけと言いやがるなぁ、というのが率直な感想です。なぜなら、白川総裁の任期は2013年の4月8日までだからです。つまり、自分の任期中に1%を達成する気が、彼にはまったくない、ということです。こんなふざけた話がありますか?自分が掲げた目標を任期中になんとしても達成しようと全力をあげてこそ、市場はそれを本気で受けとめて、インフレ期待率が上昇するのではありませんか。1%達成なんかどうでもいいと言っているようなものです。

(国会で同意された二名の審議委員の任命が遅れている理由と、任命日の目処について尋ねられて)「ご存知の通り、審議委員の任命については、日本銀行法において「両議院の同意を得て、内閣が任命する」ということになっており、任命日は内閣がお決めになることです。従って、今のご質問について、私の立場からコメントすることは特にありません。」

金融官僚として、ソツのない返答ぶりと評することもできるでしょうが、私はやはり気に入りません。聞くところによれば、その二名は金融緩和に対してどちらかと言えば積極的な考え方の持ち主であるとのことです。民主党や自民党やみんなの党のなかの経済に関する「ウルサ方」の議員から、あの河野氏に対するような厳しいコメントがあまり漏れ聞こえてこなかったところをみるとまずまずの人材なのでしょう。で、白川総裁が本気で金融緩和を推進する気であるのならば、せめて「二人ともに金融緩和に積極的な考えの持ち主と聞いている。今回の会合に参加できなくて残念だ」くらいのことを言って、市場を安心させるくらいのサーヴィス精神があってしかるべきである、と私は考えます。つまり、白川総裁が本気で金融緩和を推進する気などさらさらないことを物語るコメントである、と私は考えるのです。彼には、日本経済のために、総裁職を一日でも早く辞めてほしいものです。彼は、周りがチヤホヤするものだから、自分がエライと勝手に思い込んでいるだけです。そういう幼児性の臭いを発散するのは勘弁して欲しいものです。

「1~3月期のGDP成長率は、G7の中では日本が一番高かったわけですし、多分、この4~6月期の日本の成長率は、まだ数字は出ていませんが、年前半という意味では、先進国の中では非常に高い方であっただろうと思います。」

これを読んで、目が点になる方が少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。そんな馬鹿な、と。彼はここで一体なにを言っているのでしょう。「世界経済のネタ帳」というとても重宝しているHPがあるのですが、そこからこんな数値を拾ってみます。

G7・実質GDP成長率(2012年 推計)

日本2.04% (日銀の見通しは2.2%です)
アメリカ2.11% 
イギリス0.82% 
フランス▲1.91%
カナダ2.00%
ドイツ0.62%
イタリア0.48%

日本は、これで見る限りなかなか健闘しているように見えます。G7中堂々たる第2位、日銀推計ならば第1位です。つまり、白川総裁が豪語しているのは、実質GDPの成長率のことなのです。しかし、これは一般国民の自慢話にはなっても少なくとも日銀の自慢にはなりません。なぜなら、この成長率は、全国民的な日々の地道な創意工夫による生産能力の向上によってもたらされたものだからです。いわば日本国民の血と汗の結晶です。それに対して、日銀が自分たちの金融政策をめぐっての努力を評価するのに注目しなければならないし、野田首相の大好きな財政再建の基礎にもなる数値は、実質GDP成長率にインフレ率を加味した名目GDP成長率です。さて、それでG7各国を比較するとどうなるでしょう。ここでは単純に、名目GDP成長率=実質GDP成長率+インフレ率とします。それで大過はありませんので。

G7・名目GDP成長率(2012年 推計)

日本2.04%+インフレ率0%=2.04% (日銀のインフレ率の見通しは0.2%)
アメリカ2.11%+インフレ率2.10=4.21%
イギリス0.82%+インフレ率2.43=3.25%
フランス▲1.91%+インフレ率2.50=0.59%
カナダ2.00%+インフレ率2.16=4.16%
ドイツ0.62%+インフレ率1.91=2.53%
イタリア0.48%+インフレ率1.95%=2.43%

日本は、青息吐息のフランスのちょっと上、2位から6位に転落してしまいます。だれのせいでそんなことになっているのでしょうか。もうお分かりですね。そうです、日銀のせいです。国民の地道な努力に対して、日銀は何も付け加えるものがない、つまり日本経済への貢献度はゼロであることが、ここからもお分かりいただけるでしょう。日銀は偉そうにしていますが、実のところ、真面目で勤勉な日本国民におんぶにだっこなのです。日銀が、名目ではなく実質を強調するのは、要するに自分がなにもしていないことをカモフラージュするためなのです。国民の努力の成果を自分の努力の成果であると強弁するためなのです。(他の先進国の中央銀行は、景気の動向にかかわらず、インフレ率を2%前後に保って、デフレ・スパイラルに陥らないようにしっかりと国民経済を下支えしているのが数値から明らかです)

それで、素人の目をごまかすことはできるかもしれません。しかし、玄人すなわちマーケットの目をごまかすことはできません。株価と為替の動きによって、マーケットは日銀の本音、実態、実力を鋭く見抜きます。以下は、白川会見をめぐっての為替・金利・株価の動きについての産経新聞の記事からの引用です。

「12日のニューヨーク外国為替市場でユーロが急落、一時約二年ぶりのドル高ユーロ安水準の1ユーロ=1.21ドル台をつけた。対円でも約1ヶ月半ぶりの円高ユーロ安水準となる1ユーロ=96円台に入った。日銀が追加金融緩和を見送り、米国の追加金融緩和が遠のいたほか、世界経済減速に対する警戒感が台頭、相対的に安全とされるドルや円を買う動きが強まった。円相場は午後8時半現在前日比41銭円高ドル安の1ドル=79円30銭~40銭だった。」

*円高基調の継続が、輸出産業の業績を悪化させ、企業の海外移転を加速させ、国民から雇用を奪うことは連日の報道でよくご存知のことと思われます。企業の海外移転が、不可避的に技術の流出を伴うことも、みなさんよくご存知ですね。

「長期金利(新発10年国債)0.765%(▲0.015%)」

*日本国債の買いが強まったということです。市場は、日銀の追加緩和先送り=デフレ容認=円高容認→緊急避難所としての日本国債の価値の上昇、と素早く読んだわけです。

「平均株価は6営業日続落8800円を割り込み、約2週間ぶりの安値水準となった」

*市場の日銀に対する落胆ぶりがよく表れています。

これが、市場の、日銀による追加緩和見送りに対する厳正なる評価です。いつまで、日銀は馬鹿なことをうつうつとほざき続けるのでしょうかね。そのままにしておけば、日本が壊れてしまうまで続けるような気がしています。上念司氏が言う通り「まさに近衛内閣末期」の様相を呈していると断じるよりほかはありません。

お聞き苦しいところがあったとすれば、国難の意識ゆえの激語とお見逃しください。
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