美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

明治初年の反乱氏族増田宋太郎―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その4)(宮里立士)

2014年08月07日 10時32分54秒 | 宮里立士
明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その4)


宮里立士

目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(その2)
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成(その3)

第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動(今回)

・・・門閥制度は親の敵・・・


若き日の福沢諭吉

「増田宋太郎は、史上に知られた人物ではない」とは、かれの伝記の著者松下竜一の言である。確かに著名な歴史辞典を繙いても増田の名前は見いだせない。そこでまず、本論は西南戦争に至るまでの増田の足跡を追うことによって、かれの人間像を描くことから始めたい。(注1)
             *
増田栄太郎は、嘉永二年(一八四八)二月二三日(注2)、豊前国中津、今の大分県中津市、城下弓町に父久行、母刀自子の長男として生まれた。幼名は久米丸。姉は五人いたが、ふたりが早く亡くなり、カジ、サエ、イシの三人が長じ、弟に半助ひとりがいた。弟は後に名を真坂と改め、岡本姓を冒し、同志として最後まで兄と行を共にしている。

かれの生まれた場所には、現在「増田栄太郎先生誕生之碑」が建っている。そして、増田が暗殺しようとした福沢諭吉の旧居とは隣合わせとなっている。そこを訪れてみると、福沢は郷里が生んだ最大の偉人として、その旧居も立派に整備され、屋敷内に記念館まで備えられている。それに比べ、増田の旧居は石塀で囲われた空き地に碑のみ建つ、見るからに侘しいたたずまいである。ふたりの郷里で占める大きさの違いが如実である。(注3)

十五石二人扶持。これが増田家の家格であった。身分は御供小姓。下士である。中津藩に限らないことではあるが、徳川幕藩体制のもと身分差別は厳密に行われ、上級武士と下級武士とでは、同じ武士でも非常な隔たりがあった。中津藩は特に上級武士(上士)と下級武士(下士)の区別が厳格な藩であり、下士出身の福沢に「門閥制度は親の敵」(注4)と、痛憤させたほどであった。

福沢に『旧藩情』という、郷里中津のひとびとに対して新時代に臨む心構えを示した文章がある。そのなかで福沢は中津藩における上級武士の下級武士に対する差別と、そのことから因って来たる両者の反目とを事細かく論じている。上士と下士の「分割統治」は、封建時代、一藩安定の秘訣とも成り得たものであった。しかしながら、それは同時に個人の伸長を抑制するものであり、且つ、中津藩発展を阻害する要因でもあった。福沢はその弊害を指摘してこれからの時代、上士と下士とはお互い協力して中津のみならず日本の発展に尽くさねばならないと主張する。「数百年の間、上士は圧制を行ひ、下士は圧制を受け、今日に至り之を見れば、甲は借主の如く乙は貸主の如くにして、未だ明々白々の差引を為さず」、「双方共にさらりと前世界の古証文に墨を引き、今後期する所は、士族に固有する品行の美なるものを存して益これを養ひ、物を費やすの古吾を変じて物を造るの今吾と為し、恰も商工の働きを取て士族の精神に配合し、心身共に独立して、日本国中文明の魁たらんことを期望するなり」(注8)。

明治になって、士族とひと括りにされた武士身分も、江戸時代においては、実に複雑な身分差別を蔵していたのである。いずれの藩においても、上級武士・下級武士の断絶とその断絶からくる上級武士の勢威・下級武士の冷遇とが顕著であった。徳川幕府は、人間を細かい身分の網の目で身動きできないようにすることによって、社会の変動を防ぎ、延いては封建体制の維持を計った。下級武士の出である福沢にとって、しかしそれは理不尽な社会体制であり、とうてい容認できないものであった。(注6)

福沢のみに限らない。才質に恵まれながらも下級武士に生まれたが故に、為す所なく屏息させられていた者は多かった。徳川時代、かれらは農工商の身分に対し為政者として臨まねばならないとされていた。しかしかれらは現実には、それにふさわしくない境遇に押込められていたのである。幕末から明治前半期、社会秩序が混乱し、実力で以って働かねばならなくなった時期、最も活動的であったのが下級武士出身であった理由は、徳川時代におけるかれらの社会的位置づけと関連して考えねばならない。(注7)

増田の言動からは身分差別に対する憤りといったものは特に見いだせない。が、その経歴からはかれも下級武士の家にうまれたがゆえに、藩内で冷遇されていたことがみてとれる。かれは中津藩校の進修館ではなく、私塾道生館に学んでいるのである。藩校進修館は上士下士関係なく入学することができたというが、それでも上士と下士との間にある差別は歴然としており、これを嫌って下級武士の子弟の多くが藩校ではなく、私塾に通った。『大分県教育百年史』第三巻資料編(1)に幕末から明治年間まで中津にあった私塾の一覧が掲げられている。十八の私塾、私立学校が挙げられ、増田が学んだ道生館もそのなかに掲げられている。(注8)

道生館は渡辺重石丸(いかりまろ)の開く塾だった。渡辺重石丸は中津の神職家にうまれたひとで、その家は重石丸の祖父重名以来、国学を以て知られた家系であった。重名は宣長の門人であり、寛政三奇人のひとりである尊王家高山彦九郎とも交流があった。かれは二豊(豊前、豊後)国学の開祖とも称せられている。そして重石丸の兄重春も国学者として著名な人物だった。重石丸のひととなりは、狷介不羈。幼少のころの逸話として、いったん怒りを発すると狂った如くとなり、刀を以て柱に切りつけたといい、長じて大事を起こさないかと母親を心配させたほどであったという。(注9)増田の母は重名の娘であった。故に増田にとって、重石丸は従兄にあたる。この熱烈な尊王家の指導のもと増田も尊王攘夷家となった。

尊王攘夷は幕末の時代精神であった。この精神を奉ずる者に下級武士出身者が多かった。それは、封建体制のもと逼塞させられていた下級武士が、この精神の中に己が活路を見いだしていたことを示している。中津藩における尊攘派は道生館一党のみであった。これは、徳川体制に従順な守旧的な藩において、尊王攘夷がどういう位置を占めていたかを暗示している。

増田の幼少期について伝わるはなしはあまりない。九歳のとき最初の門人として道生館に入門したことが知れるだけである。「門下ノ士百ヲ以テ数フ和魂漢才宋太郎之レガ冠タリ」と、増田に関する最も早い著作である『増田宋太郎遺稿』(注10)中の略伝は伝えている(略伝の著者は同書の編者でもある、増田の従弟大橋奇男(くすお)。以後、同書を『遺稿』とよび、同書中の略伝は「略伝」として引用する)。豊前中津は幕末九州にあっても、動乱から遠い地域であり、勤王佐幕の問題で深刻な争いは、ここでは起こっていない。これは近在の地域では考えられないほどのどかなはなしである。

変転する時勢を横目に、それと縁遠い中津で、増田は道生館の仲間たちと浩然の気を養いながら、奔走の機会を伺っていた。慶応二年(一八六六)四月十四日、第二次長州征討の出兵督促のため中津を訪れた幕吏森川主税を、増田は道生館の仲間十数人と語らって斬ろうとしたことがある。増田の志士としての活動の第一歩であった。これはしかし師である渡辺重石丸の反対によって実行にまでは至らなかった。中津は海を隔てて長州と近く、尊王攘夷の意気に燃える増田は自然、この幕末随一の尊攘藩に親しい気持ちを抱いていた。にもかかわらず、中津藩全体から見ると、増田の親長州的態度は少数派のものであり、わずかに道生館に依るひとびとに共有された態度であった。中津は周辺の慌ただしさから離れ、太平の眠りのなか、未だ目覚めていない。

もうひとつ前年の末、目立った活動がある。木子岳騒動と称せられる、隣接する天領日田郡代襲撃未遂事件である。活発な尊攘運動のなかった豊前豊後にあっても、尊攘運動の奔走家が出なかったわけではない。ただかれらは生地を飛び出して京都など外で奔走していたのである。そのような奔走家たちと尊王攘夷の志を抱く在地の有志が連携して、幕府代官所日田郡代を襲撃しようとの計画が持ち上がった。しかし計画は事前に漏れ、実行前に郡代の摘発を受けた。この計画には、道生館と繋がりが深く、かつ増田の盟友である宇佐在の盲目の志士柳田清雄(すがお)も加わっていた。しかし捕らえられ獄に下った。日田、宇佐一帯の尊攘家が中心となった企てであったため、増田は計画の中枢には与ってはいない。しかし増田は、摘発を受け中津渡辺重石丸のもとへ避難してきた志士の身柄を、重石丸の命により、当時往来を禁じられていた対岸の長州まで送り届けている。(注11)

慶応四年(一八六八)一月、郡代襲撃未遂事件のあとを受けておこなわれた郡代襲撃未遂事件のあとを受けておこなわれた郡代襲撃事件が(この事件は御許山騒動と呼ばれている)起きた後、既に出獄していた柳田清雄に宛てた増田の手紙がある。ちなみに、この襲撃は成功し郡代は一時占拠された。が、長州藩の介入によって、決起者たちは結局、悲劇的末路をたどることになる。この御許山騒動は赤報隊事件など、明治初年、処々で続発した、官軍に呼応して決起した草莽の志士たちに対する弾圧の嚆矢となった事件であった。(注12)増田、柳田とも重石丸の忠告によって参加を見合わせているが、増田の維新後の歩みを考えるとき、維新の年、増田近辺でこのような事件があったことは予兆めいたものを思わせる。手紙のなかで漢詩が賦されている。「病中感憤之余、得一詩」(病中感憤のあまり、一詩を得る:書記者、読み下し)

戊辰正月花山院挙義旗于馬城峯、時余偶臥病憤激不能
自己賦此似諸友
憤世憂身涙如雨 尊王討幕義分明
憤然張目奮双腕枕上長刀鳴有声

(戊辰(ぼしん)正月花山院、于馬城峯(うばじょうほう)、義旗を挙ぐ。時に余たまたま病に臥し、憤激能わず
自己の賦、此れ諸友に似たり
憤世憂身、涙、雨のごとし 尊王討幕の義、分明す
憤然、目を張り、双腕を奮い、枕上長刀、声を有し鳴る:書記者読み下し)

増田は常に行動への激情に駆られながらも、慨嘆のみして過ごしていた。ときあって駆け出そうとしても、師の重石丸に押し留められていた。手紙にも「尚々一藩中可共語大義者一人も無之残念之至也」(尚々一藩中共に大義を語る者一人も之れ無きは残念の至りなり:書記者、読み下し)とあるように、これは中津という因循な譜代藩にあっては致し方ないはなしであったかもしれない。

増田が維新を迎えるまでにおこなった尊攘活動とは、つまりこの程度のものであった。したがって増田は幕末の、それこそ過酷な、権力闘争を垣間見ることなく、維新を迎えたわけである。

明治維新は多くの志士の殉難と冷徹な権謀術数の上に成り立った。そこには本音と建前の乖離と使い分け、そして使い分けを駆使することによっての目的達成とがあった。維新とは国体の発露であると信じていた増田にとって、維新のそのような側面はおよそ理解のできない面であったろう。明治になって始まるかれの、いささか滑稽な奔走活動を考えるとき、増田が維新の権力政治的側面を知らなかったということは、見落とすことができない点といえそうである。

***

原注(1)松下竜一『疾風のひと――ある草莽伝』(朝日新聞社 昭和五四年)11ページ。かぎかっこ内も同ページからの引用。なお増田宋太郎の伝記的事実は、同書に拠るところが大きいことをあらかじめ記しておく。他に熊谷克己『増田宋太郎伝』(大正二年)にも負うところが大きいのだが、これは松下も指摘する通り、粗放の感を免れない。増田の伝記としては、松下が著したものがもっとも完備している。以後、同著のことを松下著書として引用する。
 ところで本文冒頭における松下の指摘であるが、確かに現代もっとも代表的な日本史辞典である吉川弘文館『国史大辞典』の人名項目には増田の名は見いだせない。その他、河出書房刊『日本歴史辞典』、吉川弘文館『幕末維新人名辞典』などに当ってみてもかれの名前は見いだせない。しかしながら、『国学者伝記集成』第二巻(昭和九年)にはかれの人名項目がある。また大分郷里の歴史辞典、たとえば『大分歴史大辞典』などには、増田は明治初年活躍した人物として比較的大きく取り上げられている。増田については、かつての同志岡部伊三郎が明治四〇年(一九〇七)、史談会において「中津人増田宋太郎国事奔走等之件」として語っている(『史談会速記録 第弐百参拾八輯(しゅう)復刻版 昭和四九年)。他に増田を太平洋戦争中、「国士」として復権的に顕彰した香原健一『西南戦役中津隊、先陣ほぎ奮戦史』(昭和十七年)、影山正治『明治の尊攘派』(大東出版部 昭和四二年[『公論』 昭和十八年正月号初出])がある。また市井三郎が増田を論じた「反体制へかけた情念――増田宋太郎」(谷川健一編『明治の群像』三所収 三一書房 一九六八年)と『明治維新の哲学』(講談社新書 昭和四二年)がある。その他、石田圭介「増田宋太郎と自由民権」(「新勢力」一〇三号)。近年には、黒木健五『増田宋太郎と中津隊の記』(松永印刷 平成二年)がある。

(2)増田の生年については、諸家に異同はないが、誕生月日については三月二十三日とするもの、六月とするものと分かれていたという。しかし松下の調べたところによるとこれらは誤りであったと本文記述の月日に訂正している。「増田宋太郎歯ぎしりの生」(西日本新聞連載第二回 昭和五二年二月一一日)。以後、同連載を松下新聞連載と呼んで引用する。

(3)一九九五年八月、筆者の実見による。

(4)「福翁自伝」(前掲選集第一〇巻所収) 一三ページ

(5)かぎかっこ内ふたつとも、前掲選集第一二巻所収 五六ページ。

(6)『旧藩情』から引用してみよう。前注書四二~三ページ。旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。其身分、役名を、精細に分てば百余級の多きに至れども、之を大別して二等に分つ可し。即ち上等は、儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は、祐筆、中小姓厠格、供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、其数の割合、上等は凡そ下等の三分の一なり(中略)第一、下等士族は、何等の功績あるも、何等の才力を抱くも、決して上等の席に昇進するを許さず。稀に祐筆などより立身して小姓組に入りたる例もなきに非ざれども、治政二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、其下等中の黜陟(ちゅっちょく)に心を関して昇進を求れども、上等に入るの念は、固より之を断絶して、其趣は、走獣敢て飛鳥の便利を企望せざる者の如し(中略)足軽は一般に上等士族に対して、下座とて、雨中、往来に行き逢ふとき、下駄を脱いで路傍に平伏するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢へば下座平伏を法とす。啻(ただ)に大臣のみならず、上士の用人格たる者に対しても、同様の礼を為さざるを得ず。(中略)独り上等と下等との大分界に至ては、殆ど人為のものとは思はれず、天然の定則の如くにして、之を怪しむ者あることなし(権利を異にす)中津藩における上級武士、下級武士については、広池千九郎『中津歴史』(明治二四年)一七三~八二ページも参照した。

(7)鈴木正幸「主権国家・国民国家・日本近代国家」(同編『比較国制史研究序説』所収 柏書房 一九九二年)及び園田碑英弘「郡県の武士」(同著
   『西洋化の構造』所収 思文閣一九九三年[平成五年])参照。

(8)三五~七ページ 大分県教育庁大分県教育百年史編集事務局編 昭和五一年。なお中津藩における教育については、同一巻通史編(1)一一五~九、一六二~四、二五三~七ページ及び大分県社会教育資料第一二輯『藩政時代の教育』(大分県社会課 大正十四年)二〇九~二一五ページも参照。

(9)重名については、前掲『国学者伝記集成』参照。重石丸については、松下著書十六~八ページ、及び上田賢治「渡辺重石丸考」(国学院大学日本文化研究所編『維新前後に於ける国学の諸問題』所収 昭和五八年)参照。重石丸には自叙伝的草稿として『鴬栖園遺稿』があるというが、筆者は未見。

(10)大分県立図書館郷土資料室蔵(整理番号k288sh31 複953)。

(11)以上、主として松下著書四七~六二ページ及び『増田宋太郎伝』三~九ページに拠る記述。
   
コメント

明治初年の反乱氏族増田宋太郎(その3)・宮里立士

2014年04月26日 15時39分10秒 | 宮里立士
明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その3)

宮里立士


目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(その2)
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成(今回)

・・いつか「死」を迎えねばならない人間は、自分を越えたものを信じることができなければ、その生を全うすることも難しい存在である・・


ヘンリク・シェミラツキ「ローマの牧歌的風景(釣り)」

近代社会とは、伝統社会の束縛から個々の人間の活動を解放したところに成立したとは、第一節で指摘した。しかしそれは伝統社会のなかで生きる人びとが、近代の成立を、諸手を上げて、喜んで受入れたことを意味するものではない。近代社会とは、「個」としての人間のあり方を価値あるものとして認知し、積極的に擁護しようとするものである。だがその反面、近代社会とは、「個」の集積によって成り立ち、「個」に生活の基盤を与える、社会そのものに独自の価値が存在することを認めない意識、あるいはその価値を軽んずる意識の確立によって成り立つ社会である。しかしいつか「死」を迎えねばならない人間は、自分を越えたものを信じることができなければ、あるいはそこに価値あるものを置かねば、その生を全うすることも難しい存在である。伝統社会とは、たとえイデオロギーであったとしても、自分を越えたもの、人間を越えた価値が確かに存在することを、その社会のなかに生きる人びとに、説得力を以て示しえた社会であった。それは現代のわれわれが社会に託するイメージ、個人の自立と連帯によって成り立つ社会とは、異なる意識構造によって捉えられた社会認識によって可能となった。(注18)

つまり伝統社会とは、そのなかに生きる人びとにとっては、かけがえのない「世界」、そこに棲家を定めるしかない「ねぐら」として存在したのである。それはかれらにとって、人間存在すべてを覆い尽くす全体なのであって、社会と名づけて対象化し、分析できる存在ではなかった。(注19)

近世日本に引きつけてこのことを考えてみよう。鎖国に基づく江戸幕藩体制の確立は、日本列島全体に、自足的なひとつの政治経済圏を創出した。それは、閉鎖的で流動性は乏しくとも安定性の高い、ささやかながらゆとりと落ち着きのある社会であった。(注20)現在の視点からすれば、数々の問題点が見えないわけではない。しかしそれでもそこに住む人間たちにとっては、己が所を与えてくれる社会であった。その社会、「世界」が、黒船来航によって終焉を余儀なくされたのである。当時の日本人たちにとって、それはまさしく、われらの「世界」の存亡の危機として認識されたのではなかったか。

当時の、幕末明治の日本人にとって、その「世界」を万国に対峙しうる近代国家に造り変えることは、迫られて選んだ道であった。そしてそれは結局のところ、自らの住む社会、われらの「世界」を守るために為された、歴史的転換と言いかえることも可能なできごとであったのだ。

このことを第二節の最後で指摘した国権と民権の問題と関連させて考えてみよう。「国権を確立して、いかに民権の充実におよぶか」は、明治期全体において考えられた問題であると先に指摘した。それは反乱士族たちも共有する問題意識であったとも述べた。国権の確立と民権の充実とは、端的に言って、近代国家建設の意図を明らかにした表現である。すなわち、自生的に近代を生み出し得なかった日本が、対外的危機に触発されて近代国家を日本に建設しようとする意思の表明であった。しかしわれらの「世界」を守るために選んだ近代国家の建設は、当時において、西欧化以外のなにものでもなかった。そうしてそれは、それまでの自足的な社会の組換えを目指すものであった。とすれば、これは矛盾ではないか。

明治国家はこの矛盾を強いられながらも、近代化に邁進した。そしてこの明治日本の抱える矛盾ゆえに多くのきしみと混乱を引き起こした。その矛盾は、反乱士族たちにも無縁なものではなかったはずである。いやむしろ、この矛盾の存在ゆえに、かれらは決起したというべきではないだろうか。

なぜ明治日本は、維新によって、伝統「世界」に引導を渡し、この日本に近代国家を建設しようとしたのか。

国権論者の前身ともいえる攘夷家から「民権論者」へと変貌し、士族反乱の総決算としての西南戦争で斃れた反乱士族増田宋太郎を取り上げる所以は、実にこの明治日本に内在する矛盾を考えることにある。この論考は、そのためのひとつの試みを為すものである。


原注
・注18:デュモンは、前掲書(『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』のこと――筆写人注)のなかで西欧近代社会に成立した個人主義も、ひとつのイデオロギーであるという。そしてそれと伝統社会における全体論と比較し、検討している。

・注19:ピーター・ラスレットはイギリスにおける工業化以前の社会を「われら失いし世界」と呼び、その特徴を「愛情で結ばれた親しい人びとのあいだで、馴れ親しんだモノにとりかこまれて進行した時代、何もかも人間的なサイズであった時代」と述べている。しかし工業化によって、「そのような時代は過ぎ去」ったという。(『われら失いし世界』三一ページ 川北稔・指昭博・山本正訳 三嶺書房 一九八六年 原著 Peter Laslett, THE WORLD WE HAVE LOST 1983)

・注20:『朝日百科 日本の歴史7 近世Ⅰ』(一九八九年)「泰平の世」(朝尾直弘執筆)及び『朝日百科 日本の歴史8 近世Ⅱ』(吉田光邦・樺山紘一・横山俊夫)参照。

(以上で、序章終了)
コメント

明治初年の反乱氏族増田宋太郎(その2)・宮里立士

2014年04月24日 23時35分14秒 | 宮里立士
明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その2)

宮里立士


目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(今回)



・・歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか・・

研究史においては、明治初年に続発した士族反乱とは、征韓論争という「十六世紀的絶対主義と十九世紀的絶対主義との対立」の、十六世紀的絶対主義の側が起こした反乱であり、「当時の国民的課題とは全く相反する」、「一片の近代化の志向性をもみいだすことはできない」(注7)、「歴史に逆行する反革命運動であり、それが敗退するのは歴史的必然」(注8)であった、と位置づけられている(注9)。つまり士族反乱は、維新変革と自由民権運動の間にあって、後二者が歴史の進歩をあらわしているのに対し、ひとり歴史の進歩を阻害する反動であり、後二者とは対蹠的存在なのである。故に両者の関係とは、水と油の関係であるべきであって、もし双方に何らかの関連があるとしても、それは無視してしかるべきもの、その関連がどうしても無視することができないほどに強い場合にのみ、それは維新変化の、自由民権運動の、進歩の度合いの不徹底さを示す要素として歴史的進歩の負の側面と理解されてきた。だが、歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか。

なぜ士族反乱が反動なのか。それはかれらが明治初年、なによりも優先されるべき近代的国家機構の整備、資本主義の確立、といったことには一顧だにせず、征韓という対外的膨張の即時断行に狂奔し、士族独裁体制の確立を国内的には目指して、明治政府が行った武士の特権の剥奪を、旧に復することを目的としているのみであったからなのである。

そこには、すでに明治政府の主流派指導者すら構想していた民撰議員開設への展望、江戸時代と変わらぬ重い地租負担に喘いでいた農民層への眼差、そして当時最大の外交懸案であった条約改正問題への対処、という近代初頭の日本が真に受け止めねばならない諸問題に対する配慮がひとつもなされておらず、士族中心の侵略主義的発想のみあって、近代日本の歩みについて全く思念が行き届いていないというのだ。氏族反乱は故に、直接生産者たる農民層を排除して行われ、しかも旧藩以来の割拠主義と藩家臣団意識すら克服できず、時期的にも地域的にも極めて近接して決起されていながら、各反乱は連繋することもなく、明治政府によって各個撃滅されてしまった。(注10)

明治維新の絶対主義的部分でも最も救い難い部分が結集して、起こした騒動のように指弾されてきた士族反乱であるが、当時においてかれらが、呉下の阿蒙(いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉――筆写人注)のように、飛び抜けて蒙昧な手合いであったのか。もしそうであるならば、たとえば明治政府の掲げた市民平等の改革に対して、幕藩体制期そのままの身分差別の温存を訴え、あるいは時代錯誤も甚だしい要求を掲げて起こった農民一揆はどう考えればよいのだろう。(注11)自由民権運動の中でも、最も急進的な大井憲太郎一派が武力を以って朝鮮半島に乗り込み、騒乱事件を起こして、それを梃子にして日本における自由民権運動の前進を期した大阪事件はどう捉えればよいのであろうか。(注12)

もちろんこれらの事例は明治前半期における農民闘争の、自由民権運動の、歴史的限界として否定的に評価されている。しかし同じように歴史的限界を背負った士族反乱だけ、なぜ中身に立ち入った検証もなされずに、全否定の対象とされねばならないのか。それは士族反乱が歴史的進歩の方向を向いておらず、どう考えても旧時代の復権を目指した動きにみえるからであろうか。

だが、たとえば佐賀の乱の首謀者江藤新平が、明治政府きっての開明指導者のひとりであり、その決起文が「夫(それ)、国権行はるれば、則、民権随て全し」と書き出されているのは、どう考えればよいのか。(注13)廃刀令に抗議して何ら成算なく立ち上がった神風連の面々には、まず最初から征韓の断行やら士族独裁体制の確立などといった発想すらなかったことをどう説明するのか。(注14)西南戦争に至るまでの西郷隆盛の去就がなぜ朝野を問わず、日本全土注目の的であったのか。士族反乱が士族中心の国家体制を目指したとして、現実的にいって武士勢力の武力闘争の中から生まれて日の浅い新国家を、とりあえず担うことのできたのは、その後身たる士族たちではなかったか。そもそも既得権を何の異議申し立てもできずに奪われた士族が、武力行使というかたちであれ、抗議の意思を表わすことに全く否定的であってもいいのであろうか。

士族反乱を全否定し、黙殺する態度とは、無意識ではあれ、明治政府の敷いた近代化コースのみを日本近代黎明期、唯一の、あるいは至当の、道として追認する発想によってのみ可能となるのではなかろうか。(注15)

もちろん士族反乱に否定的な論者は同時に、明治政府の上からの近代化が、いかに民情を無視した国家優先の強引なものであったかを強調する論者でもある。しかし政府首脳の専制性はひとまずおいて、明治政府の目指した西欧流近代に即した近代化の方向性は、問題点が多々あったとしても、歴史的進歩の当然な流れであると、このような論者にも是認され、むしろ一層の前進、進歩の継承こそが正しい道であると論じられてきたのではないか。だから、明治政府の専制性が露骨に現れてきたとき、民衆はみずから立ち上がり歴史の前進を期し、そのなかから日本における市民革命の実現を展望すべきであったと考えたがゆえに、士族反乱のあとに盛り上がる自由民権運動に対して、極めて高い評価を与えてきたのではないか。そのため自由民権運動の末期、武装蜂起となって現れた激化事件を、人民の、専制政府に対する当然の抵抗運動であったと、先のような論を展開する者は、称えてきたのではないか。同じ明治政府への反対者といっても士族反乱の一派とはわけが違うのである。(注16)

反乱士族たちがどれだけ歴史的進歩の展望を持っていたか、確かに疑わしい。だが、かれらとて明治初年の現実の中で、自らの主張を貫くために立ち挙がったはずである。そこには明らかにかれらなりの国家展望があった。征韓といい、士族独裁制といい、それらが本当に反乱士族らの目指したものかどうか検討の余地はあると思うが、それは幕末からひき続く問題、端的にいって対外的危機、とのかねあいのなかで考えてみる必要があるのではなかろうか。(注17)

本格的士族反乱の端緒となった佐賀の乱の、先に引用した決起文「夫、国権行はるれば、則、民権随て全し」の国権と民権。士族反乱の徒ですら掲げねばならない題目としてあったこの二つ。国権の確立あって、そののちに民権が整えられる、という発想は、当時、そんなに突飛な発想ではなかったはずである。いかにして国権を確立して、民権の充実に及ぶか。この問題は明治期全体においてあらゆる識者を巻き込んで、考えられた問題であったはずである。反乱士族たちの念頭にあった問題意識も新時代に孤立したものではなかったわけである。


*筆写人より:参考までに、明治初年の士族反乱と農民一揆を年代順に列挙しておきます。(オレンジが士族反乱、紫が農民一揆)

・1874.1 赤坂喰違(くいちがい)の変 右大臣岩倉具視が征韓派の高知県士族武市熊吉らに襲撃された事件。
・1874.2 征韓を主張する征韓党が下野した前参議・江藤新平を擁して起こした士族反乱。

・1874.6 わっぱ騒動 酒田市の過納租税の返還を求めた一揆。県令三島通庸によって弾圧される。わっぱ(木でできた弁当箱)で配分できるほど過納租税があるという意味からついた名称。
・1876.2 伊勢騒動 三重県からおこった地租改正反対一揆で、愛知・堺・岐阜の三県にも波及。
・1876.10 神風連(敬神党)の乱 大田黒伴雄を中心に、熊本士族が廃刀令に反対して挙兵。
・1876.10 秋月の乱 宮崎車之助(しゃのすけ)を中心とする福岡県旧秋月藩士族による反乱。征韓と国権拡張を主張。
・1876.10 萩の乱 前参議前原一誠を中心に山口県士族らがおこした士族反乱。広島鎮台兵により鎮圧。

・1876.11 真壁騒動 茨城県真壁一帯におこった地租改正反対一揆。
・1877.2~9 西南戦争 西郷隆盛を擁しておこした最大の士族反乱。
・1878.5 紀尾井坂の変 内務卿・大久保利通が石川県士族島田一郎らに暗殺された事件。

                                           (『詳説 日本史図録 第6版』山川出版社 より)

原注
・注7:後藤靖「士族反乱と民衆騒擾」(青木書店 一九六七年)、第一章「士族反乱の構造」参照。かぎかっこ内。第一は二六ページ。第二、第三は七四ページ。

・注8:同上「士族反乱と民衆騒擾」(岩波講座『日本史一四 近代Ⅰ』所収 一九七五年)、三〇三ページ。

・注9:小池ウルスラは研究史における士族反乱の位置づけを整理して次の四つの傾向を指摘している。(1)中央集権的統一国家形成途上における藩閥・独裁主義への反対運動(2)維新に貢献した尊王攘夷主義者を主とした封建支配階層の、権力統一過程から脱落しようとする不安、不満の爆発。(3)封建的特権の維持や回復を目指して近代国家の成立に抵抗する保守的運動。これは多くの研究者がとる立場である。(4)直前の(3)の立場に対して士族反乱のなかに進歩性を見いだし、このなかから民権運動の萌芽である「有司専制」への抵抗をみようとする視点。しかし士族反乱については本文で述べた位置づけ、即ち先の整理に従えば(3)に該当する位置づけが研究史において一般的のように見受けられる。小池も多くの研究者がこの立場にたつと指摘している。そして(4)は長年、研究史上主流を占めてきた(3)の立場に対する再検討を促す姿勢から近年、提起された視点である。(1)についていえばこれは強引な中央集権化に対する抵抗運動という、明治初期の政治対立を指摘しているのであって、士族反乱そのものの位置づけを明確化したものとはいえないと思われる。なお(3)の代表者として小池は、井上清とともに後藤を揚げている(「士族解体と士族反乱」 伊藤隆編『日本近代史の再構築』所収 山川出版社 一九九三年)。

・注10:後藤前掲書、同じ章の論述に基づく。本節における士族反乱の研究史上の位置づけは、主として後藤の見解に基づいて、記述している。

・注11:鶴巻孝雄「民衆騒擾と社会意識」(岩波講座『日本通史 第十六巻 近代1』所収
一九九四年)参照

・注12:大阪事件については、松尾章一『増補・改訂 自由民権思想の研究』(日本経済評論社 一九九〇年)、第五章「大阪事件の思想史的位置」を参照。かれらのなかには日清戦争後、朝鮮半島における日本の「国権」保持のため、韓国王宮に乗り込んで王妃を惨殺した閔妃事件の関与者もいるという(上村希美雄『民権と国権のあいだ 明治草莽思想史覚書』葦書房 昭和五一年 三二二ページ)。

・注13:黒龍会編『西南記伝』上巻二(明治四一年)、四二四ページ。正式には「決戦之議」と題されている。

・注14:神風連という、当時にあっても特異な一党についての内実は、渡辺京二『神風連とその時代』(葦書房 昭和五一年)を参照した。

・注15:戦後の代表的な進歩的歴史家羽仁五郎は、その著『明治維新』(岩波新書 昭和三一年)で明治政府の進歩性を高く評価している。また羽仁の教えを受けた井上清も『西郷隆盛』(中公新書 一九七〇年)のなかで、維新以後の日本の開明ぶりを同じく高く評価している。

・注16:激化事件中、等しく論者がその革命性を高く評価している事件は、秩父事件である。しかし近年の研究動向において、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」とみることに疑問が投げかけられているという(森山軍治郎「秩父事件とフランス革命」 前掲 岩波講座『日本通史 第十六巻 近代Ⅰ』月報)。

・注17:たとえば先に名をあげた自由民権運動きっての急進派馬場辰猪の演説にも、ヨーロッパ帝国主義に対抗するためには、武力を背景としてでも清国に日本との提携を迫る必要性を訴えるものがあるという(萩原前掲書二四六ページ)。
コメント

明治初年の反乱氏族増田宋太郎 ・宮里立士 (その1)

2014年04月23日 18時07分47秒 | 宮里立士
当ブログの常連執筆者のひとり、宮里立士氏が、先月の三月二六日午後八時半、那覇市赤十字病院にて逝去なさいました。直接の死因は静脈瘤破裂による大量出血。享年四八歳。志半ばでこの世を去らざるをえなかった当人の胸中を思うと、なにをどう言ったらよいのやら、言葉が見つかりません。だれよりも当人がそうでしょう。せめて、手元にある彼の遺稿をアップし、ひとりでも多くのひとびとの目にふれることを願うばかりです。その死を美化する気など毛頭ないのではありますが、その陽気な笑い声と地黒の、クリクリと目のよく動く丸顔とを思い浮かべると、宮里氏はいま極楽浄土にいるに違いないと信じられてならないのです。彼は、この世に残るわたしたちに嫌な後味をなにひとつ残さずに、たったひとつ沖縄の海のような透明な記憶だけを残して、あの世へ旅立って行った人であります。

美津島明


***


明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その1)

宮里立士




目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年
第二節 研究史における士族反乱の位置
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成

第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動
第二節 道生館について――増田宋太郎の人間形成
第三節 東奔西走の日々
第四節 皇学校・共憂社・田舎新聞

第二章 反乱士族への道――西南戦争前後
第一節 「討薩」から親西郷党への転身
第二節 征韓論について
第三節 西南戦争への呼応

第三章 決起の理由・檄文の検討を通して
第一節 檄文について
第二節 方今我神州ノ勢ヲ熟視スル二
第三節 此時二際シ宜シク外勢ヲ張リ
第四節 曩日前参議江藤前原氏ノ如キ、国権ノ不立ヲ憂慮シ、
第五節 以テ内ハ一国ノ元気ヲ振起シ、
第六節 今聞西郷公闕下二イタラントス

終章 日本近代のなかにおける反乱士族増田宋太郎
第一節 「国権」と「民権」の関係について
第二節 「一日接すれば・・・・・」――逸話をめぐる考察から
第四節 「情死」をめぐって

*本文中の原注( )は、節ごとにその末尾にまとめてあります。筆記者注は、本文中で( )内にその都度つけます。

序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年

″・・・だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった・・・″

まず、増田宋太郎についてのひとつの逸話から始めよう。

嘉永二年(一八四九)豊前(いまの大分県――筆記者注)中津藩に生まれたかれは、幕末維新期、当時の青年としてはめずらしくはないが、熱烈な尊皇攘夷家であった。しかし、だからといって幕末、尊攘運動において特に奔走したというわけではない。維新回天の年かぞえ年わずかに二十歳で、しかも徳川譜代の中津藩士であってみれば、幕末維新の風雲には馳せ参じ切れなかったのであろうか。ただ藩内で気勢を上げる程度であった。

ところで、中津藩出身者の内、幕末いち早く世に現れた人物に福沢諭吉がいる。三度の洋行を経て、著した『西洋事情』は好評嘖嘖(「さくさく」と読む――筆記者注)とし、東京で慶應義塾を開いていた福沢は、既に洋学の大家であり、新知識人の筆頭ともいうべき存在であった。この福沢は、増田には又従兄にあたるひとでもあった。

逸話とは明治三年(一八七〇)(注1)、福沢が老母を東京へ呼び寄せるため中津へ帰省したとき増田が、この又従兄を暗殺しようとしたというものである。

福沢からすれば、十五歳程年下の「子供のやうに思ひ、かつ住居も近所で朝夕往来」し、「宗(ママ)さん、宗さんといつて親しく」思っていた増田が、「なんぞはからん、この宗さんが胸に一物、恐ろしいことをたくらんでゐて、そのニコニコやさしい顔をして私方に出入りし」ていたその理由が暗殺のための偵察であったとは、よもや思いもしなかった。「いよいよ今夜は福沢を片づけるといふ」晩、福沢宅に客が来た。主客は酒を夜更るまで飲み明かした。増田はその間、外の垣根で中を伺って立っていた。夜遅くまで待っていたのである。しかし、どうしても客の帰る素振りのみえないのに業を煮やし、暗殺を「余儀なくおやめになつたといふ」。

『福翁自伝』に出てくる逸話である。(注2)この逸話は、後の西南戦争(明治十年〔一八七七〕――筆記者注)にあって西郷軍に加担し斃れた士族反乱の徒、増田宋太郎にいかにも似つかわしい話である。が、しかしその一方で増田は中津にあって自由民権運動の先駆けと目された人物でもある。そして西郷軍中、宮崎八郎(宮崎滔天の兄――筆記者注)の熊本協同隊と共に最も民権派的といわれた中津隊を率いて戦っている。となると、これは先の攘夷家増田のイメージとは若干のずれが生じてくる。

明治の民権家の大半が、元をただせば攘夷家であったという事実に鑑みれば、増田の変身も驚くに足らないかもしれない。福沢暗殺未遂事件から西南戦争まで六年半。増田も熱烈な尊王攘夷家から民権家へ転身したのであろうか。が、それではなぜ不平士族の復古的反抗といわれる士族反乱に呼応して立ち上がったのか。

増田は一体、なにを考えていたのだろうか。

明治維新とは、尊王攘夷家たちの開国和親政策への集団的転向により成り立ったものであった。つまり増田の歩んだ道も固陋家から開明家へという、広い意味においては時流に沿った歩みであったわけである。とするならば、増田はなにか勘違いをして士族反乱に呼応したのだろうか。本来明治政府に出仕してもいいようなもの。だが、何分明治政府と繋がり薄い中津藩出身者であったために、つてなくして一旗上げるべく西郷軍に加わったのか。それとも
反政府の気概に偽りはなく、ただ西南日本に生まれた故に士族反乱の徒と共闘しただけで、真実にはその後に盛り上がる自由民権の中に活路を見いだすべき人間であったのか。増田は歴史という舞台で、出どころを間違えて飛び出し、足早に退場しただけの存在なのであろうか。

明治という時代、多くの青年が用意された大舞台に飛び出しそれぞれ、稽古の暇もないながら、それでもみずからの役割を演じ抜いた。増田宋太郎とてその中のひとりといえる。増田のみに限らない。幕末から明治期にかけて、実に多くの奔走家が現れた。“草莽”という言葉に相応しいひとたちであった。(注3)その奔走家たちがわずかなときの差によって、尊王攘夷、倒幕維新、自由民権と、唱える題目を変えて、何かに取り憑かれたように駆けずり廻り、斃れていった。かれらを突き動かしていたものは何だったのか。

それを歴史的概念の中で説明することもできる。対外的危機の克服、近代国家確立のための模索、変革期における政治闘争の熾烈、と、だがたとえば、いまからたどる増田宋太郎の生涯をこれらの概念の枠内で考察するとどうなるか。

確かに増田宋太郎の意識、行動を歴史課程の中に位置づけ分析することは可能であろう。だがこれから論じていくが、それらの概念で考察し、歴史過程の中で位置づけて評価してみたのなら、増田という人物はあまりにオリジナリティに乏しく、ありふれた人物である。明治文明開化を領導した福沢諭吉のように、あるいは明治新社会を拒絶し、己が国学を固守して、旧時代さながらの神国思想を確立した増田の師渡辺重石丸(いかりまろ)のようには、増田は自立した思想をもって時代に臨んだ人物ではなかった。幕末から明治初年の時代精神と、あるときは寄り添い、またあるときはおくれ、新思潮に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて己が本然の性を持して生きたひとであった。そこにはもちろん時代との誠実な格闘はあった。が、その格闘の中からみずからの思想的営為を大成させることなく、かれは歴史から消えていった。

増田宋太郎という人間は、時代精神の借り着を着て、ついに自前の思想を持たずに斃れたひとであった。しかしそれを以って増田を単なる歴史の端役として見過ごしていいのであろうか。

幕末から明治の新時代へという、急速に変転する社会の中で、生きることの難しさを「恰も一身にして二生を経(ふ)るが如し」と、『文明論之概略』緒言中に福沢は書きしるしている。(注4)そのことばの噛みしめかたはひとそれぞれであろうけれど、それは維新の変革に際会したひとすべての胸に沁みとおることばであったはずだ。

だが、ひとはたとえ二生を生きねばならないとしても、やはり己れ一身を以って生きて行かねばならず、この一身が、ふたつに裂けてしまうのでもない限り、世の中がいかに変わろうが、その生き方に断絶があるわけはない。

よしんば、生き方に大きな変化があろうとも、それは断絶による変化なのではない。積み重ねられた体験による変化なのだ。そしてその生き方とは、己れ一身の、生きた連続性によって裏打ちされたものなのである。増田は己れ一身で確立した思想というものを持ち合わせていなかったかも知れない。単に借り着を着て奔走しただけかもしれない。しかしながら、かれにはかれにしかできない生き方があった。その生き方を、現在の視点から、無知蒙昧な思考の所産と否定し去ることはたやすい。だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった。

近代社会とは、伝統社会の束縛から個々の人間の自由奔放な活動が社会に絶え間ない変革を促すところに、その特徴がある。(注5)ならばそして、日本にかろうじて近代が成立したというのなら、それは幕末から明治にかけての奔走家たちの活動に拠るところが大きいとはいえないだろうか。個人の活動の中から社会の変革が起こるのだ、という意識は、かれら幕末から明治にかけての奔走家たちの共有する認識であった。追い求める理想の実現のためのひとつひとつの実践こそが世の中を変えて行くのだ、という確信こそが大きな変革を引き起こす誘因たりえた。たとえその中に、西欧流近代の範疇に収まりきらない理想を追い求めた奔走があったとしても、われわれはその理想を、というよりもそれを追い求めた人間を、嗤(わら)うことなどできはしない。なぜならわれわれは、たとえ西欧流近代からみていかに歪んでいようとも、宋太郎のような人間の生き方によって、新たに扉が開かれた近代社会の中で生きているのだから。そして明治の近代国家とは、つまりそのような生き方の、無数の集積によって形づくられた国家であったのだ。

拠ってたつ立場のちがいなどこの場合関係ない。たとえば自由民権運動の代表的理論家でありながら、明治十九年(一八八六)三十九歳の若さでアメリカ、フィラデルフィアで窮乏のうちに死んだ馬場辰猪のことを萩原延壽(のぶとし)は「性急な歩行者」といった。(注6)それは明治の藩閥政権打倒を夢見るあまり、自らの思想を大成することなく、遂に亡命同然の姿でアメリカへ渡りかの地で永眠した馬場に対する愛惜の言葉である。幕末から明治変革の時代、「性急な歩行者」は数多くいたのである。われわれは増田とてそのなかのひとりに算え入れてもいいのではなかろうか。

原注
・注1:以後、本論は当時の慣行に従って、年表記は元号を主とし、西暦はかっこ書きとする。ただしひとつの節に同年、あるいは二、三年の近接した年表記が出てくる場合、基本的に最初の年表記のみ西暦をかっこ書きし、以下西暦は略している。また同じ年をくりかえし述べるときも略すこととする。なお明治五年(一八七二)を以って、暦は太陰暦から太陽暦に切り替えられている。よって、本論もこの年を以って年月日は太陽暦に拠って表記している。なおこれらか頻繁に用いることになる明治初年の期間であるが、本論では、明治一〇年(一八七七)、西南戦争終結までの期間を指して使うことにする。

・注2:福沢選集第十巻(岩波書店 一九八一年)所収、二二二~三ページ。前段落かぎかっこ内すべて、同ページからの引用。増田はこの前後にも二度にわたって、福沢暗殺を企てたという。第一回目は福沢が東京から中津へ帰省の途中立ち寄った大阪において、増田に兄事する朝吹英二をして(この人は後に慶應義塾に学び経済界の重鎮的存在となる)福沢を刺さしめようとしたもの。第二回は本文中で述べたもの。第三回は福沢が中津出発のとき。同志数人で福沢暗殺を議しているうち紛糾し、気を逸したというもの。『増田宋太郎伝』、『疾風のひと――ある草莽伝』などに記述されている。しかしこれらの暗殺計画がどれだけ本気で計画されたことか、これは後者の著者松下竜一も指摘するように疑問である。本文でみた通り、客が帰らないというだけで暗殺を簡単に止めているのである。松下は中津における反洋学熱を高めることが目的の暗殺計画であって、同志の気勢さえ上がれば、『もはや一福沢を斃すことは無用』と増田は判断していたのではないかと推測している(「福沢諭吉暗殺者としての増田宋太郎」『福沢手帖』第十五号所収 昭和五三年)。なお前記二著については、第一章注1で改めて詳しく紹介する。以後、注に掲げる文献の発行年はすべてすべてその文献の奥付けによって記す。

・注3:草莽とは、「特定の階級をさす階級概念ではなく、むしろ一つの意識または階層をこえて受容された、意識概念・政治的概念であった」との指摘がある(高木俊輔『幕末の志士』中公新書 昭和五一年七ページ)

・注4:福沢選集第四巻所収(岩波書店 一九八一年)、九ページ。つづけて福沢はいう、「一人(いちにん)にして両身あるが如し」と。

・注5:近代社会と伝統社会における人間存在のあり方の違い、近代における「個人主義」の誕生についてはルイ・デュモン『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』(渡辺公三・浅野房一訳 言叢社 一九九三年)、第一部「近代イデオロギーについて」参照。原書 Louis Dumont, Essais sur l`individualism 1983

・注6:萩原延壽『馬場辰猪』(中央公論社 昭和四二年)
コメント

宮里立士氏・沖縄の政治状況の「今」  (イザ!ブログ 2013・12・16 掲載)

2013年12月28日 05時50分07秒 | 宮里立士
沖縄の政治状況の「今」
                          宮里立士

先日、大東会館で開催された大山晋吾先生主宰の武士道研究会に参加しました。

大山先生は、昨年まで靖国神社に勤仕され、現在は沖縄一の宮である波上宮の神職を勤めておられます。私は、昨年二月、先生が波上宮に赴かれる際の壮行会に誘われたこともあり、今回も参加しました。「沖縄の現況と敬神崇祖の土壌」と題されたご講話で、古くから沖縄にも天照大神を祀る社があったことや、神道の根本精神である「敬神崇祖」の念が沖縄の人びとに昔から今に至るまで脈々と受け継がれていることを実感されたことなどが披露されました。昨年十一月に沖縄をご訪問された天皇皇后両陛下を歓迎するパレードが那覇市で行われ、七千人の人びとが行進したことも話されました(マスコミは一部を除きこのような事実は報道していません:宮里)。そして、翻って沖縄の政治社会状況についてお話がありました。

現在、沖縄の政治問題の大きなポイントのひとつに普天間基地の名護市辺野古地区への移設問題があります。中国の一方的で横暴な防空識別圏の設定で、新たな段階に入った尖閣問題も睨み、その早急な解決が心ある人びとから望まれています。それは沖縄のなかでも変わりありません。しかし、鳩山民主党政権の普天間基地移設の「最低でも県外」という空約束で、前回の名護市長選で移設反対の稲嶺進氏が容認派の現職・島袋吉和氏を僅差で破り、辺野古移設が進まなくなってしまいました。

それから四年近くが経ち、形勢はまた変わりつつあります。タテマエだけの稲嶺市政で名護市は疲弊し、来年一月十九日の市長選に向けて移設容認派が盛り返して来ているようです。その証拠に「基地統合縮小」につながる辺野古移設支持の署名が県内だけで五万名に達しているとのことでした。また、人口六万千八十人の名護市で、この署名が一万を超えたことも教えられました。

特にもともと名護市と別区域で、戦後、さまざまな事情から名護市に編入された辺野古地区では、行政や経済において、中心地から何かと不利な立場に立たされ、住民の大多数は移設容認です。これらの事情を大山先生は懇切にお話されました。たしかに、このことは米軍に好意的な辺野古地区のホームページを観ても解ります(【辺野古】-沖縄県名護市辺野古区のホームページへようこそhttp://www.henoko.uchina.jp/base.html)。マスコミが取り上げる辺野古の反対派のテント小屋は地区外、あるいは県外から来たプロ市民のアジトのようなものです。同地区の大多数の住民は迷惑に感じています。私もかつて辺野古を訪れたとき、その雰囲気を感じました。

先生のお話を伺い、沖縄の現況の変化、というか、沖縄の人間としてそのことを承知していた私も意を強くしました。しかし、とはいえ、今回、名護市長選で保守系候補の一本化に失敗し、二人の候補が立つことで共倒れが危惧されてもいます。前副市長で自民党県連推薦の県議・末松文信氏と、前市長の島袋氏のふたりです。しかも、この両人は移設問題をこじらせた当事者であるとの批判もあります。元防衛次官の守屋武昌氏は、島袋、末松両氏は辺野古移設をできるだけ、「引き延ばし」「二枚舌」を使い、時間稼ぎをして、国から取れる限りの「カネ」を搾り出そうとしたと、自著の『「普天間」交渉秘録』で批判的に描いています。もちろん、一方の立場からのもので真偽は解りません。しかし、残念ですが、基地関連の国庫補助に依存しなければ、やっていけないと、沖縄、特に中北部の、首長が思い悩んでいるのも事実です。末松氏は、仲井真知事に移設問題の下駄を預けた「アイマイ戦略」で乗り切ろうとしているようです。それに不満の島袋氏は明確に「移設賛成」を掲げて出馬しています。従来の責任を取るために、火中の栗を拾おうとする覚悟と信じたいところです。

この二十年の間、名護市長選の争点は実は「辺野古移設」の一点です。しかも市長選は前回以前にすでに三回、容認派が勝利を続けてきました。その分、四年前の鳩山民主党政権のできない「公約」は罪深かった。現在、移設反対を掲げる稲嶺市長も、その前は名護市職員として辺野古移設の行政に取り組んでいたそうです。それが前回の市長選で「風を読んで」、俄か反対派として当選した風情があるとも聞きます。

これらのことを思いあわせると、ほんとうのところ何とも気が滅入ってきます。国政が責任を持って考えるべき「国防」「安全保障」の混乱に振り回され、そのツケを「オキナワ」が払わされているように思えてならないからです。

こういう不幸な沖縄の政治状況の「今」が変わることを冀ってやみません。
コメント