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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その3)中国人の歴史意識 (美津島明)

2015年12月24日 19時19分39秒 | 歴史
松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その3)中国人の歴史意識 (美津島明)



国民党政府と中共政府は、南京事件を「南京大」と称してきました。本多勝一氏は、『中国の旅』(1972)において、それを南京大「虐」殺と読みかえ、学校の教科書に載るほどに日本国内にその言葉を普及させました。

松尾氏によれば、「」は、中国人の歴史意識に深く根差した言葉であって、日本人が、それを「虐殺」と読みかえて、「あった、あった」と国の内外に触れ回るのは愚かにもほどがある、ということになります。中国人の歴史意識に即するならば、敵に対して降伏を拒み、城門を閉ざしたならば、城内の生きとし生けるものが皆殺しにあうのは、当然のことなのです。それが「屠城」であり「」なのです。

言われてみれば、日本人に、そういう考え方や感覚はありません。第一、「城」についてのイメージが、日本と中国とではまったく異なります。中国では、都市全体が城壁でぐるっと囲まれたものを「城」というのです。つまり中国では、都市=要塞なのです。同じことは、ヨーロッパについても言えます。だから、おそらくヨーロッパ人の精神構造にも、「」という歴史意識は組み込まれているはずです。洋の東西を問わず、「大陸」の歴史は過酷なのです。

松尾氏が、「」をめぐる中国人の歴史意識を如実にしめす格好の資料として提示しているのは、『揚州十日記』(ようしゅうじゅうじつき)です。日本において人口に膾炙しているとは言い難い当記録文学について、以下、解説しておきます。テキストは、『中国古典文学大系56 記録文学集 松枝茂夫編』(平凡社)に収録されたもので、『東洋文庫36』に収録されているものと同じです。

『揚州十日記』の著者は、江蘇省江都県(すなわち揚州)の王秀楚という人です。市井の読書人であることがうかがわれるだけで、そのほかのことはなにも分かっていません。二段組の細かい字で十五ページ分の当書は、明朝滅亡の翌年、すなわち清の順治二年(一六四五年)、満清の軍隊が南下して揚州城を攻略したときに行った「大」の記録です。本書は、秀楚が自分と自分の家族を中心として、自分たちの身にふりかかったこと、目の当たりにしたこと、感じたことをありのままに飾らずに書きつづったもので、著者の恐怖や臓腑がえぐられるような痛哭の念が直に読み手に伝わってくる記録文学の傑作です。本書を訳した松枝茂夫氏は、解説で「これほど強烈な印象を与える作品は、ひろく中国文学を見渡してもそう数多くはないと思われる」と述べています。

では、内容に入っていきましょう。なお揚州は、南京の北東に位置し、いまなら南京から高速道路で一時間ほどの距離です。

崇禎(すうてい)十七年(一六四四年)、李自成が北京に入り、崇禎帝は首をくくって自殺しました。これで明朝は事実上滅亡しましたが、広い中国大陸のこと、明朝の残党がなお方々でそれなりの力を保っていました。李自成を破り、翌年の四月、揚州に南下してきた満清の多鐸(とど)は、明朝の臣下で揚州を管轄していた史可法に対して再三再四降伏勧告をします。しかし史可法は、それを受けずに峻拒し、揚州の城門を閉ざしてしまいます。史は敵将に下ることを潔しとしなかったのです。

四月二五日、満清の軍隊が市内になだれ込んできました。そうして史可法を捕らえこれを斬りました。清軍が揚州城内で「大」を展開したのは、それからの十日間のことです。いくつか引いてみましょう。

ひとつめは、二五日の夜の場面です。

やがて日が暮れて、大勢の兵士が人を殺している声が門外から筒抜けに聞こえてきた。そこで屋根に登って漸く避けた。雨がことさらにひどく、一枚の毛布を四、五人ずつで一緒にかぶったが、髪の毛まですっかり濡れ通った。門外の泣き叫ぶこえが耳をつんざき、生きた心地もしなかった。

次は、二六日の様子です。

どこにもかしこにも幼児が馬の蹄(ひづめ)にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑(はらわた)は泥にまみれて、その泣き声は曠野(こうや)に満ちていた。途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。血が水にはいって、碧と代赭(たいしゃ)が五色に化していた。池はそのために平らになっていた。

「代赭」が分からなかったので調べてみたら「一般に、赤土から作られる天然の酸化鉄顔料の色をさす。やや明るい茶色。茶色より赤みと黄色みが少し強い」とありました。

次は、二七日から引きます。

やっと人心地がついたかと思った途端に、殺せ殺せという声が間近に迫り、刀の金具の音が響いた。つづいて痛ましい叫び声が起こり、声をそろえて命だけはと哀願するものが数十人あるいは百人以上にも達した。一人の兵卒に行き会うと、南人は自分たちの人数がどんなに多くても、みな首を垂れて這いつくばい、頸(くび)を伸ばして刃を受けるのだった。一人として逃げだそうという気を起こす者もいなかった。

極度の恐怖によって心のちぢこまってしまった人々がどういう行動に出るのかが、生々しく語られています。

最後にもうひとつだけ引きましょう。三〇日、過酷な状況下ともに助け合ってきた長兄が、酷い目にあう場面です。いささか長くなります。

突然、地響きする足音と同時に、痛ましい悲鳴が私の度肝をぬいた。ふり返ってみると、垣根の向こうで長兄が捕まっていた。兄は兵卒と立ち向かっていたが、力の強い兄は、とうとう兵卒をふりきって逃げ、兵卒はそれを追って行った。その兵卒というのは前の日私の妻を引きづって行きそしてまた捨てたあの男であった。兄が半時たっても帰って来ないので、私ははらはらしていた。そこへ突然長兄が走って来た。丸裸にさんばら髪であった。兵卒に迫られて、やむをえず私のところへ命乞いの金をもらいに来たのであった。私はたった一つ残っていた銀塊を兵卒に差し出した。しかし兵卒は非常に怒って、刀をふりあげて兄を打った。兄は地上に伏しまろび、全身血みどろになった。彭児(筆者の息子――引用者注)は兵卒にすがりつき、涙を流して許してとたのんだ〔彭児はそのとき五歳であった〕。兵卒は子供の着物で刀の血を拭うと、またしても打った。兄は今にも死にそうになっていた。ついで私の髪をひっぱり、金を出せといって、刀の峰でめった打ちにしてやめなかった。私は金がなくなったことを訴え、「どうしても金でなければとのことでしたら、甘んじて殺されましょう。ほかの物でしたら上げられます」というと、兵卒は私の髪を引っぱって洪氏の家に行った。私の妻は衣類その他を二つの甕(かめ)の中に入れて、石段の下に伏せてあったのを、全部あけて、何でも好きなものを取るようにいうと、金や珠の類を一つ残らず取ったばかりでなく、服のよいものをも択んで取った。子供の首に銀鎖を掛けてあるのを見ると、刀で引きちぎって行った。行きがけに私をかえりみて、「おれが貴様を殺さずとも、きっと誰かが貴様を殺すだろうぜ」といった。さてこそ城を洗うという風説はもはや確かであると知った。

長兄は、このとき受けた傷が致命傷になって、五日後、絶望のうちに息を引き取りました。

このようにして、四月二五日から翌月の五日までの揚州「大」で、約八〇万の人々の命が奪われたといわれています。むろん、強姦・略奪もすさまじいものでした。

国民党と中共によってねつ造された南京「大」が、中国の人々によって受け入れられたのは、その意識の奥深くにこのような歴史のイメージが生々しく息づいているからなのでしょう。

それとまったく異なる歴史感覚を有する日本人が、南京「大」を南京「大虐殺」と読みかえて真に受けるのは、確かに、おかしなことであり、もうすこし踏み込んでいえば、愚かなことでもあると言えるでしょう。

では、松尾氏の動画「第四回」をごらんください。

南京大虐殺 研究について(その3) 松尾一郎  (第4回)
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今年、いちばん面白かったMV (美津島明)

2015年12月22日 12時13分06秒 | 音楽
今年、いちばん面白かったMV (美津島明)

私は、衛星放送の音楽番組で、流行りのMVを観て、あれこれと勝手な感想をぶつぶつ言うのが、なかば趣味のようなものになっています。当ブログであまりそれをやり過ぎると、政治・経済関係の論考を前面に打ち出している現状とのバランスが悪くなりかねない、という危惧があって、派手にやるのを控えています。一応、いろいろと考えているわけではあります。

それはそれとして、もうすぐ今年も終わりです。いろいろと観てきたMVのなかで、「これはよく出来ている」とビジュアル的に感心したもののなかの、私なりのベスト・ワンを、ご紹介しておきましょう。対象は、国の内外を問わず、今年リリースされたものとします。

海外部門ベストワンは、Coldplay の「Adventure Of A Lifetime」です。よくは分かりませんが、かなり売れたのではないでしょうか。ぼんやりと観ていても、最後は、大いに盛り上がり、愉快になること請け合いです。 切れ味鋭いユーモアセンスが光っています。ギター・シンセサイザーの使い方が魅惑的でもあります。これ、どうやって撮ったのでしょうね。

Coldplay - Adventure Of A Lifetime (Official video)


国内部門ベストワンは、perfumeの「STAR TRAIN」です。いつものような、シャープで優雅なパヒューム・ダンスをほとんど伴わない、シンプルな作りのMVが、かえって新鮮で衝撃的です。決然とした意志を感じさせる、力強い楽曲です。十年前にメジャーデビューしてからずっと彼女たちに楽曲を提供し続けてきた中田ヤスタカ氏の、節目を迎えた彼女たちへのプレゼント、といったところでしょう。perfumeのファンではない人でも、何かを感じ取るのではないか。そう思うのですが、さて。

[MV] Perfume 「STAR TRAIN」
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松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その2)幕府山事件をめぐって (美津島明)

2015年12月18日 01時52分12秒 | 歴史
松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その2)幕府山事件をめぐって (美津島明)


日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日)

今回の松尾氏のお話しは、〈「虐殺派」は、日本軍による「大虐殺」があった、と言っている。しかし、彼らは、その定義を明らかにしていない。にもかかわらず、「虐殺はあった」という。それはおかしい。また、国際法違反があったと主張するが、それもなかった。〉とまとめることができるでしょう。

これに関連する話として、次のようなことがあります(以下は、田中正明氏の『「南京事件」の総括』(小学館文庫)の祖述・引用です)。昭和五九年(一九八四年)の歳末に雑誌『諸君!』が、「虐殺派」の洞富雄氏と「中間派」の秦郁彦氏と「まぼろし派」の鈴木明氏・田中正明氏の四人を集めて、座談会を開きました。

その座談会の席上、田中氏が「″大虐殺″とは何かという定義からはじめましょう」と口火を切った後、次のようなやりとりがありました。

田中 ″大虐殺″とは何かという定義からはじめましょう。私はやはり、当時の日本軍が計画的、組織的に虐殺をやったかどうか・・・発令者がいて、命令を伝達する者がいて、かつ実行者がいたのかどうか。そういう計画性の有無を論じたいと思うんですよ〉
(これに対して洞氏)〈賛成ですね。ぼくは、大虐殺という言葉は好きじゃないんです〉


では、話がうまくかみ合って、大虐殺の定義が共有されることになったのでしょうか。田中氏は、そうではなかった、と言います。

賛成というのが、定義からはじめることに賛成なのか、それとも私の定義に賛成したのかわからないが、すぐその口の下から洞氏は「もっとも、大虐殺にはちがいありませんがね、あれ、一体、いつ頃から言い出されたんですか」といっている。この「大虐殺にはちがいありませんがね」の一句は校正の時、氏が追記したものである。だから論理が目茶苦茶である。大虐殺の定義をしようというのに、「賛成です」と賛成しておきながら、「もっとも、大虐殺にはちがいありませんがね」と言うのであるから、話は噛み合ってこない。

松尾氏が、「虐殺派」が主張する「虐殺」には定義がない、と言っているのがよく分かるくだりです。

ちなみに、田中氏によれば、洞氏は、オフレコとして、本多勝一氏が『中国の旅』のなかで、中国で言われている南京″大″を″大虐殺″と翻訳して書いたのが、″大虐殺″のはじまりではなかろうか、という意味のことを言ったそうです。これは、動画中で松尾氏が言っていることと符合します。というか、このくだりを念頭に置いて、松尾氏が発言したのかもしれません。

とりあえず、虐殺の定義をしておきましょう。田中氏の議論を参考にして、〈虐殺とは、発令者と命令の伝達者と実行者によって遂行される組織的・計画的大量殺戮のことである〉とします。ナチスのユダヤ民族に対する一連の振る舞いを想起すれば、分かりやすいのではないでしょうか。

次に、いわゆる「南京大虐殺」も定義しておきましょう。「一九三七(昭和十二)年十二月十三日の南京陥落の翌日から六週間の間に、女・子供を含む南京市民や無抵抗な中国軍兵士の捕虜(国民党、現台湾政府軍)を含む約三〇万人が殺害されたとされる事件」。松尾氏のサイトからの借用ですが、私は、これでいいのではないかと思います。

「南京大虐殺」の定義をすると、早速問題になるのは、「無抵抗な中国軍兵士の捕虜」の殺害です。「虐殺派」からすれば、それこそが国際法違反であり虐殺である、というわけです。具体的には、第13師団の山田支隊(山田栴(せん)二少将)麾下(きか)の歩兵第六十五連隊(会津若松市・両角業作大佐)が十二月十四日、幕府山附近でとらえた国民党軍の敵兵一万四七〇〇人に対する処置をめぐって、すなわち幕府山事件をめぐって、「虐殺派」と「まぼろし派」が、論争を繰り広げてきました。とらえられた敵兵の数が最大だからでしょう。

無抵抗な捕虜の殺害は、当時においても国際法違反すなわち戦争犯罪であって、虐殺と称してもよいように思われます。ところが、話はそう単純ではないのです。

幕府山事件を論じるに当たって、私たちは、少々面倒くさい理論的な手続きを経る必要があります。その論点の核心は、「日本軍がとらえた国民党軍の敵兵一万四七〇〇人は、果たして『捕虜』と呼びうるのか」です。

松尾氏によれば、当時の国際法において、捕虜には次の要件があります。すなわち、➀武器を携行していること②敵軍であることが遠方からでも分かるような明らかな標識があること③統率者がいること④軍服を着ていること⑤白旗を掲げること、の五つです。

この五要件は、きわめて重要です。なぜなら、幕府山事件のみならず、南京事件に登場する国民党軍の敵兵たちには、共通して③の「統率者がいること」という要件が決定的に欠けているというよりほかはない からです(いわゆる「便衣兵」の場合、そのほかの四要件もすべて欠けています)。端的に言えば、〈日本軍は、敵兵の処置をしたことは確かだが、少なくとも「捕虜」の殺害などしていない、つまり、国際法違反など犯していない。だから、敵兵の処置に関して虐殺があったとはいえない〉ということになるのです。話が錯綜するといけないので、その詳細については後ほど触れます。

松尾氏は、このようにきわめて重要な視点を提供しています。それゆえ、これを鵜呑みにするわけにはいきませんから、私なりにいろいろ調べてみました。すると、この捕虜の五要件には、少なくとも次のふたつの根拠があることが分かりました。

ひとつめ。田畑茂二郎著『新訂国際法』より。「交戦資格を有しないものが軍事行動に従事する場合には、敵に捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人としての処罰を受けなければいけない」。つまり、➀交戦資格を有しないこと②軍事行動に従事すること③敵に捕らえられたこと、の三つの要件がそろえば、捕らえられた敵兵は、「捕虜」ではなくて「戦時重犯罪人」として扱われなければならない、と述べられています。

では、交戦資格とは何でしょうか。それは、ハーグ陸戦条約(一八九九年採択・一九一一年日本での公布)第一条「交戦資格」に規定されています。

一  部下の為に責任を負う者その頭に在ること
二  遠方より認識し得へき固著の特殊徽章を有すること
三  公然兵器を携帯すること
四  その動作につき戦争の法規慣例を遵守すること


これが、松尾氏による捕虜規定のふたつめの根拠になります。

以上を念頭におきながら、幕府山事件に具体的に触れることにしましょう。松尾氏の話は、いささか簡略に過ぎるところがあるので、以下、田中正明氏の『「南京事件」の総括』を祖述・引用しながら話を進めましょう。

当事件の真相を明らかにするために、鈴木明氏は、昭和四七年、仙台に第13師団の山田支隊・支隊長・山田少将はじめ、当時の関係者数名を訪ねて、その真相を『「南京大虐殺」のまぼろし』で明らかにしようとしました。当著によれば、山田少将はこの大量の敵兵の処置に窮し、意を決して揚子江の中洲に彼らを釈放することにし、護送して目的地の近くについたとき、暴動が起き、彼らのうち約1000人が射殺され、日本側将兵も死傷した、とあります。

ところが、昭和五九年八月七日の「毎日新聞」は、「元陸軍伍長、スケッチで証言、南京捕虜一万人虐殺」という大見出しで、第十三師団の山田支隊麾下・歩兵第六十五連隊の伍長・K氏が多数の敵兵を揚子江岸に連行して一万三五〇〇人(当初、捕らえられた敵兵は一万四七〇〇人)をみな殺しにしたと証言した、という記事を掲載しました。それは、従来の説をくつがえす計画的・組織的な虐殺説を補強する証言内容でした。続いて、あの本多勝一氏もK氏の同趣旨の証言を『朝日ジャーナル』に連載し、1万三五〇〇人の虐殺の模様と〈その虐殺は軍司令部からの命令である〉という趣旨の報道をしました。

K氏というのは、小金井市在住(昭和六二年三月当時)の栗原利一氏のことです。栗原氏は自分の意思とは全く逆の報道をされたことに対して毎日に抗議を申し入れました。氏は、中共側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の虐殺数30万・40万という人数のいい加減さに腹を立て、これに反論するために記者に話しをしたのですが、それを曲解・歪曲されて報道され、匿名の中傷や悪罵をあびて困っていると抗議したのです。

田中氏も電話で栗原氏に真意をただしてみたそうです。氏は電話口で、「毎日新聞にも本多氏にも、言いもしないことを書かれた。自分の本当に言いたいことは書かないで、結果的には逆なことになってしまった。悔やんでいる」と言ってしきりに嘆いていたとの由です。

田中氏は栗原氏に二度電話をしましたが、なかなかアポイントがとれなかったので福島に赴き、当事件に関係した、第六十五連隊の連隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)に会ってインタヴューをしました。

その概要を、田中氏の『~総括』から引きましょう。

➀わが方の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約三分の一の一五〇〇足らずとなり、そのうえに、へとへとに疲れ切っていた。しかるに自分たちの十倍近い一万四〇〇〇の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。
(南京市郊外の幕府山のふもとの――引用者補)上元門の、校舎のような建物に簡単な竹矢来(竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い――引用者注)をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した。
③二日目
(十二月十五日。南京陥落の翌々日――引用者注)の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホッとした。その間逆襲の恐怖はつねに持っていた。
④彼らを縛ったのは彼らのはいている黒い巻脚絆(まききゃはん)。殆ど縛ったが縛ったにならない(きちんと縛れない)。捕虜は約四〇〇〇、監視兵は一〇〇〇人足らず、しかも私の部下は砲兵で、小銃がなくゴボー剣
((銃剣の別称――引用者注)のみ。出発したのは正午すぎ、列の長さ約四キロ、私は最後尾にいた。
騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険阻(けんそ)となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声(かんせい)ともつかぬ異様な声が起きた
最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一ぱいであった。
⑦静寂にかえった五時半ころ、軽いスコールがあり、雲間から煌々(こうこう)たる月が顔を出し、″鬼哭愁々″の形容詞のままの凄惨な光景はいまもなお眼底に彷彿たるものがある。
⑧翌朝私は将校集会所で、先頭附近にいた一人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵六人が死亡、十数名が重軽傷を負った旨を知らされた。
⑨その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終わったと記憶する。中国側の死者一〇〇〇~三〇〇〇人ぐらいといわれ、葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった。わが軍の被害が少なかったのは、彼らは逃亡が目的だったからだと思う。


以上の引用のなかで、「捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず」とあるのは、先に述べた「捕虜」の要件のうち、少なくとも「②敵軍であることが遠方からでも分かるような明らかな標識があること③統率者がいること④軍服を着ていること」の三つが満たされていないことは明らかです。つまり、この一万四〇〇〇人の敵兵は、「捕虜」ではなくて「戦時重犯罪人」である、というよりほかはありません。

ここで、信夫淳平著『上海戦と国際法』からの次の引用に着目していただきたい。

非交戦者の行為としては、その資格なきになおかつ敵対行為を敢えてするが如き、いづれも戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重罪に処せらるるのが戦時公法の認むる一般の慣例である

先の引用中の、「騒動が起きた 」「突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声(かんせい)ともつかぬ異様な声が起きた」「最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し」とあるのは、明らかに信夫氏の「非交戦者の行為としては、その資格なきになおかつ敵対行為を敢えてするが如き」行為に該当するものと思われます。とするならば、日本軍が彼らを「戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重罪に処」したのは、当時の戦時国際法に照らして、決して違反行為とは言えないことになります。

もっと根本的な、(国民党側にとっては致命的な)事実があります。それは、南京陥落を目前に控えて、日本側は降伏勧告をしました。ところが、中国国民党の蒋介石は降伏勧告を無視し南京死守を命じて、南京を戦場にした のです。そして蒋介石と司令長官の唐生智は逃亡し、南京を混乱状態に陥れました。

これが、なにゆえ根本的で、国民党側にとっては致命的な事実と言えるのでしょうか。ここでふたたび、ハーグ陸戦条約をごらんください。

ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則)
 第三十六条 休戦は、交戦当事者間の合意をもって作戦行動を停止するものとする。期間の指定なき時は、交戦当事者は、いかなる時点においても再び交戦を開始する事が可能である。ただし、休戦条件に順じ、所定の時期にその旨を通告すべきものとする。


司令長官唐生智はすでに逃亡しており、「休戦の意」はもちろん「休戦条件」の提示もありませんでした。だから、戦闘は継続していた、というよりほかはありません。そういう状況下において「突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声(かんせい)ともつかぬ異様な声が起き」、「最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱」すという異変が起こったのです。それを、日本軍が敵対行為と認識したのはいたしかたのないことであった、と私は考えます。 山田支隊は、「交戦当事者は、いかなる時点においても再び交戦を開始する事が可能である」という当然の権利を行使したのです。それゆえ、幕府山における同支隊の行動は、当時の国際法に照らして、少なくとも違法とはいえないことになります。

また、「非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した」のですから、同支隊は、きわめて困難な局面においても戦闘員と非戦闘員とを区別する理性を有していたとも私は考えます。

南京攻略戦における国民軍兵士たちの惨状の責任は、日本軍にはなくて、蒋介石と司令長官の唐生智にこそある。これが、さしあたりの私の結論です。

では、「南京大虐殺 研究について」第三回をごらんください。第二回は、おもに従軍慰安婦のことが述べられているので飛ばしました。

南京大虐殺 研究について(その2) 松尾一郎  (第3回)


参考資料
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-871.html 〈幕府山事件と「審問なき処罰の禁止」について~戦時国際法上合法説〉
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n155583 〈”捕虜の処刑”は虐殺か?~「南京事件」肯定派「ゆう」氏を論破してみました〉
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松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その1) (美津島明)

2015年12月10日 11時37分50秒 | 歴史
松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その1) (美津島明)

今回から、松尾一郎氏のyoutube動画「南京大虐殺 研究について」を一回分ずつ掲載していこうと思います。一回分は、10分程度です。
(松尾一郎氏のサイト「南京大虐殺は、ウソだ!」http://history.gr.jp/~nanking/

南京事件に関して、日本の論壇は、「虐殺派」と「まぼろし派」と「中間派」に分かれています。そうして、「虐殺派」と他の二派(そのうちとくに「まぼろし派」)とは、水と油のような関係にあります。というか、犬猿の仲。

そのなかで、松尾一郎氏は、「まぼろし派」に属する論客であると思われます。つまり、〈南京「大虐殺」などというものなどはなくて、通常の戦争である南京攻略戦だけがあった〉と考える立場ですね。そういう氏の動画をシリーズで掲載しようと思ったのは、「まぼろし派」の言説を流布しようと思ったからではありません。彼が南京問題と真摯に向き合おうとしている姿勢に心を動かされたからです。

南京事件に関して、私自身がどう考えてきたのかを手短に話しておきましょう。

私が南京事件と自分なりに真剣に取り組んだのは、三五歳のころのことでした。いまから二〇年あまり前のことです。そのときに取り組んだテキストは、本多勝一氏の『中国の旅』と『南京への道』と『天皇の軍隊』でした。大学時代、生協に置いてあるのが目に焼き付いていたんでしょうね。また、洞富雄氏の著作も読んだような気がします。つまり当時の私は、「虐殺派」の本丸を読み込んだ。のみならず、相当に深い影響を受けてしまったのです。

『戦争論』をはじめとする小林よしのり氏の一連の仕事は、私にとって、そんなトラウマ状態を脱却するのに、大いに役立ちました。氏のいまの仕事はあまり評価できませんが、当時の活躍ぶりは目覚ましいものがありました。小林氏の諸著作を読み進めるうちに、本多勝一氏の、中国人に対するインタヴューが、すべて、中共独裁政権のお膳立てのもとになされたものであることへの疑念がふくらんできたのです。

仕事として依頼されるのでもないかぎり、今後私が、本多勝一氏の一連の中国物を読み返すことはないような気がします。ささやかな体験を通じて、「虐殺派」に首をつっこむことで読み手になにがもたらされるのか、よく分かっているからです。まあ、要するにろくなものではありません。カルト宗教にひっかかるようなものなので、これから南京事件を考えたいと思っていらっしゃる若い方たちは、「虐殺派」の著書は、とりあえず避けた方がよいでしょう。「まぼろし派」と「中間派」の諸著作で免疫を作っておいてから触れたほうがよろしいのではないでしょうか。

では、何から読めばいいのか。僭越ながら、当動画紹介シリーズに目を通していただければ、少なくともひどい目にあうことなく、何を読めばいいのかが分かり、南京事件についてバランスのとれた形で自分なりの考えを進めることができるようになる。そう心がけております。

さて、当動画の内容に触れておきましょう。

松尾氏によれば、南京事件研究は、大きく三種類に分かれます。

ひとつめは、「実証派」です。これは、南京事件を、一九三七年七月七日の盧溝橋事件からはじまる一連の戦闘状況の流れのなかでとらえようとする立場です。この立場からの主な著作は、偕行社の『南京戦史』と田中正明氏の『南京事件の総括』です。氏によれば、とくに田中氏の『~総括』は必読、との由です。当著は、小学館文庫になっています。とりあえず買ってありますが、まだ読んでいないので、いまのところ何ともいえません。

ふたつめは、「証言派」です。これは、南京攻略戦に従軍した人々の聞き取りから、南京事件の真相にアプローチしようとする立場です。その代表格は阿羅健一氏で、私たちはその成果を小学館文庫の『「南京事件」日本人48人の証言』で目にすることができます。松尾氏が、「この本を持っていなければ話にならない」と言っていますが、その通りであると思います。

みっつめは、「プロパガンダ派」あるいは「宣伝派」です。これはなにも「南京大虐殺などなかった」という自分たちの主張を広く宣伝しようとする人々、という意味ではありません。南京事件を、中国・国民党や中共の宣伝あるいはプロパガンダとしてとらえることによって、その真相に迫っていこうとする立場のことを意味しています。その代表は、鈴木明氏の『新・南京大虐殺のまぼろし』(飛鳥新社)と北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文春新書)です。鈴木氏の『~まぼろし』はまだ持っていませんが、北村氏の『~探求』は、確かに必読です。彼らの仕事の成果を踏まえて、松尾氏は、『プロパガンダ戦「南京事件」』(光人社)に「国民政府宣伝組織図」を掲げました。下の図がそれです。図をクリックしていただければ、拡大されて見やすくなります。



では、「南京大虐殺 研究について」第一回をごらんください。

南京大虐殺 研究について(その1) 松尾一郎  (第1回)
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三島由紀夫『文章読本』と映画『少年時代』の感想 (再掲載・美津島明)

2015年12月08日 21時44分35秒 | 日記
日記がわりですみません
今日は、文学の読書会と映画鑑賞会という趣味的に充実した催しを楽しむ一日を過ごしました。文学の読書会は、もうかれこれ四年になるでしょうか。気心の知れた仲間と地味に続けています。普...




当文章中で、「三島由紀夫が、〈自分が読んだ中で最も神に近い美人をあげろと言われれば、それはリラダンの「ヴェラ」である〉といっている一節が妙に記憶に残ってしまったので、ぜひ読んでみたい」という意味のことを言いました。その後、岩波文庫の『フランス短編傑作選』(山田稔編訳)に収録されているのを見つけたので、さっそく買ってきて、読んでみました。短編ながらも読みごたえのある小説でした。じっくりと読み進めると、最愛の美しい妻を亡くしたダトール伯爵の哀しみが、読み手の心を少しづつ浸してゆき、おぼろげながらも、その女性のイメージが浮かんでくる仕掛けになっています。いまでも、この小説の余韻に身を任せようとすると、切ない気持ちが、地下水のように音もなく自ずと湧いてきます。巻末の作者紹介を引いておきましょう。

オーギュスト・ヴェリエ・ド・リラダン(一八三八~八九):名門貴族出身の伯爵。ブルターニュ地方に生まれ、後にパリに移住。詩才をボードレールに認められ、彼を通じポオやワグナーを知りつよい影響をうけた。またヘーゲル哲学にも傾倒した。没落貴族として、ときには浮浪者にまで身を落とすほどの極貧を経験したといわれるが、精神の高貴さを失うことなく、十九世紀後半のブルジョア的功利主義、物質主義、科学主義を呪いつづけ、反俗的な夢想、超自然的世界の賛美のうちに孤高を守った。最期は施療院で友人マラルメに見とられて窮死。生前はボードレール、マラルメ、ユイスマンらごく一部の人にしか認められなかったが、死後、象徴主義の先駆者として高く評価された。「ヴェラ」は一八七四年に「神秘的な物語」という副題つきで雑誌に発表され、後、彼の代表作の短編集『残酷物語』(一八八三)におさめられた。(後略)
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