松尾一郎氏の動画を通じて「南京事件」を考える(その3)中国人の歴史意識 (美津島明)
国民党政府と中共政府は、南京事件を「南京大」と称してきました。本多勝一氏は、『中国の旅』(1972)において、それを南京大「虐」殺と読みかえ、学校の教科書に載るほどに日本国内にその言葉を普及させました。
松尾氏によれば、「」は、中国人の歴史意識に深く根差した言葉であって、日本人が、それを「虐殺」と読みかえて、「あった、あった」と国の内外に触れ回るのは愚かにもほどがある、ということになります。中国人の歴史意識に即するならば、敵に対して降伏を拒み、城門を閉ざしたならば、城内の生きとし生けるものが皆殺しにあうのは、当然のことなのです。それが「屠城」であり「」なのです。
言われてみれば、日本人に、そういう考え方や感覚はありません。第一、「城」についてのイメージが、日本と中国とではまったく異なります。中国では、都市全体が城壁でぐるっと囲まれたものを「城」というのです。つまり中国では、都市=要塞なのです。同じことは、ヨーロッパについても言えます。だから、おそらくヨーロッパ人の精神構造にも、「」という歴史意識は組み込まれているはずです。洋の東西を問わず、「大陸」の歴史は過酷なのです。
松尾氏が、「」をめぐる中国人の歴史意識を如実にしめす格好の資料として提示しているのは、『揚州十日記』(ようしゅうじゅうじつき)です。日本において人口に膾炙しているとは言い難い当記録文学について、以下、解説しておきます。テキストは、『中国古典文学大系56 記録文学集 松枝茂夫編』(平凡社)に収録されたもので、『東洋文庫36』に収録されているものと同じです。
『揚州十日記』の著者は、江蘇省江都県(すなわち揚州)の王秀楚という人です。市井の読書人であることがうかがわれるだけで、そのほかのことはなにも分かっていません。二段組の細かい字で十五ページ分の当書は、明朝滅亡の翌年、すなわち清の順治二年(一六四五年)、満清の軍隊が南下して揚州城を攻略したときに行った「大」の記録です。本書は、秀楚が自分と自分の家族を中心として、自分たちの身にふりかかったこと、目の当たりにしたこと、感じたことをありのままに飾らずに書きつづったもので、著者の恐怖や臓腑がえぐられるような痛哭の念が直に読み手に伝わってくる記録文学の傑作です。本書を訳した松枝茂夫氏は、解説で「これほど強烈な印象を与える作品は、ひろく中国文学を見渡してもそう数多くはないと思われる」と述べています。
では、内容に入っていきましょう。なお揚州は、南京の北東に位置し、いまなら南京から高速道路で一時間ほどの距離です。
崇禎(すうてい)十七年(一六四四年)、李自成が北京に入り、崇禎帝は首をくくって自殺しました。これで明朝は事実上滅亡しましたが、広い中国大陸のこと、明朝の残党がなお方々でそれなりの力を保っていました。李自成を破り、翌年の四月、揚州に南下してきた満清の多鐸(とど)は、明朝の臣下で揚州を管轄していた史可法に対して再三再四降伏勧告をします。しかし史可法は、それを受けずに峻拒し、揚州の城門を閉ざしてしまいます。史は敵将に下ることを潔しとしなかったのです。
四月二五日、満清の軍隊が市内になだれ込んできました。そうして史可法を捕らえこれを斬りました。清軍が揚州城内で「大」を展開したのは、それからの十日間のことです。いくつか引いてみましょう。
ひとつめは、二五日の夜の場面です。
やがて日が暮れて、大勢の兵士が人を殺している声が門外から筒抜けに聞こえてきた。そこで屋根に登って漸く避けた。雨がことさらにひどく、一枚の毛布を四、五人ずつで一緒にかぶったが、髪の毛まですっかり濡れ通った。門外の泣き叫ぶこえが耳をつんざき、生きた心地もしなかった。
次は、二六日の様子です。
どこにもかしこにも幼児が馬の蹄(ひづめ)にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑(はらわた)は泥にまみれて、その泣き声は曠野(こうや)に満ちていた。途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。血が水にはいって、碧と代赭(たいしゃ)が五色に化していた。池はそのために平らになっていた。
「代赭」が分からなかったので調べてみたら「一般に、赤土から作られる天然の酸化鉄顔料の色をさす。やや明るい茶色。茶色より赤みと黄色みが少し強い」とありました。
次は、二七日から引きます。
やっと人心地がついたかと思った途端に、殺せ殺せという声が間近に迫り、刀の金具の音が響いた。つづいて痛ましい叫び声が起こり、声をそろえて命だけはと哀願するものが数十人あるいは百人以上にも達した。一人の兵卒に行き会うと、南人は自分たちの人数がどんなに多くても、みな首を垂れて這いつくばい、頸(くび)を伸ばして刃を受けるのだった。一人として逃げだそうという気を起こす者もいなかった。
極度の恐怖によって心のちぢこまってしまった人々がどういう行動に出るのかが、生々しく語られています。
最後にもうひとつだけ引きましょう。三〇日、過酷な状況下ともに助け合ってきた長兄が、酷い目にあう場面です。いささか長くなります。
突然、地響きする足音と同時に、痛ましい悲鳴が私の度肝をぬいた。ふり返ってみると、垣根の向こうで長兄が捕まっていた。兄は兵卒と立ち向かっていたが、力の強い兄は、とうとう兵卒をふりきって逃げ、兵卒はそれを追って行った。その兵卒というのは前の日私の妻を引きづって行きそしてまた捨てたあの男であった。兄が半時たっても帰って来ないので、私ははらはらしていた。そこへ突然長兄が走って来た。丸裸にさんばら髪であった。兵卒に迫られて、やむをえず私のところへ命乞いの金をもらいに来たのであった。私はたった一つ残っていた銀塊を兵卒に差し出した。しかし兵卒は非常に怒って、刀をふりあげて兄を打った。兄は地上に伏しまろび、全身血みどろになった。彭児(筆者の息子――引用者注)は兵卒にすがりつき、涙を流して許してとたのんだ〔彭児はそのとき五歳であった〕。兵卒は子供の着物で刀の血を拭うと、またしても打った。兄は今にも死にそうになっていた。ついで私の髪をひっぱり、金を出せといって、刀の峰でめった打ちにしてやめなかった。私は金がなくなったことを訴え、「どうしても金でなければとのことでしたら、甘んじて殺されましょう。ほかの物でしたら上げられます」というと、兵卒は私の髪を引っぱって洪氏の家に行った。私の妻は衣類その他を二つの甕(かめ)の中に入れて、石段の下に伏せてあったのを、全部あけて、何でも好きなものを取るようにいうと、金や珠の類を一つ残らず取ったばかりでなく、服のよいものをも択んで取った。子供の首に銀鎖を掛けてあるのを見ると、刀で引きちぎって行った。行きがけに私をかえりみて、「おれが貴様を殺さずとも、きっと誰かが貴様を殺すだろうぜ」といった。さてこそ城を洗うという風説はもはや確かであると知った。
長兄は、このとき受けた傷が致命傷になって、五日後、絶望のうちに息を引き取りました。
このようにして、四月二五日から翌月の五日までの揚州「大」で、約八〇万の人々の命が奪われたといわれています。むろん、強姦・略奪もすさまじいものでした。
国民党と中共によってねつ造された南京「大」が、中国の人々によって受け入れられたのは、その意識の奥深くにこのような歴史のイメージが生々しく息づいているからなのでしょう。
それとまったく異なる歴史感覚を有する日本人が、南京「大」を南京「大虐殺」と読みかえて真に受けるのは、確かに、おかしなことであり、もうすこし踏み込んでいえば、愚かなことでもあると言えるでしょう。
では、松尾氏の動画「第四回」をごらんください。
南京大虐殺 研究について(その3) 松尾一郎 (第4回)
国民党政府と中共政府は、南京事件を「南京大」と称してきました。本多勝一氏は、『中国の旅』(1972)において、それを南京大「虐」殺と読みかえ、学校の教科書に載るほどに日本国内にその言葉を普及させました。
松尾氏によれば、「」は、中国人の歴史意識に深く根差した言葉であって、日本人が、それを「虐殺」と読みかえて、「あった、あった」と国の内外に触れ回るのは愚かにもほどがある、ということになります。中国人の歴史意識に即するならば、敵に対して降伏を拒み、城門を閉ざしたならば、城内の生きとし生けるものが皆殺しにあうのは、当然のことなのです。それが「屠城」であり「」なのです。
言われてみれば、日本人に、そういう考え方や感覚はありません。第一、「城」についてのイメージが、日本と中国とではまったく異なります。中国では、都市全体が城壁でぐるっと囲まれたものを「城」というのです。つまり中国では、都市=要塞なのです。同じことは、ヨーロッパについても言えます。だから、おそらくヨーロッパ人の精神構造にも、「」という歴史意識は組み込まれているはずです。洋の東西を問わず、「大陸」の歴史は過酷なのです。
松尾氏が、「」をめぐる中国人の歴史意識を如実にしめす格好の資料として提示しているのは、『揚州十日記』(ようしゅうじゅうじつき)です。日本において人口に膾炙しているとは言い難い当記録文学について、以下、解説しておきます。テキストは、『中国古典文学大系56 記録文学集 松枝茂夫編』(平凡社)に収録されたもので、『東洋文庫36』に収録されているものと同じです。
『揚州十日記』の著者は、江蘇省江都県(すなわち揚州)の王秀楚という人です。市井の読書人であることがうかがわれるだけで、そのほかのことはなにも分かっていません。二段組の細かい字で十五ページ分の当書は、明朝滅亡の翌年、すなわち清の順治二年(一六四五年)、満清の軍隊が南下して揚州城を攻略したときに行った「大」の記録です。本書は、秀楚が自分と自分の家族を中心として、自分たちの身にふりかかったこと、目の当たりにしたこと、感じたことをありのままに飾らずに書きつづったもので、著者の恐怖や臓腑がえぐられるような痛哭の念が直に読み手に伝わってくる記録文学の傑作です。本書を訳した松枝茂夫氏は、解説で「これほど強烈な印象を与える作品は、ひろく中国文学を見渡してもそう数多くはないと思われる」と述べています。
では、内容に入っていきましょう。なお揚州は、南京の北東に位置し、いまなら南京から高速道路で一時間ほどの距離です。
崇禎(すうてい)十七年(一六四四年)、李自成が北京に入り、崇禎帝は首をくくって自殺しました。これで明朝は事実上滅亡しましたが、広い中国大陸のこと、明朝の残党がなお方々でそれなりの力を保っていました。李自成を破り、翌年の四月、揚州に南下してきた満清の多鐸(とど)は、明朝の臣下で揚州を管轄していた史可法に対して再三再四降伏勧告をします。しかし史可法は、それを受けずに峻拒し、揚州の城門を閉ざしてしまいます。史は敵将に下ることを潔しとしなかったのです。
四月二五日、満清の軍隊が市内になだれ込んできました。そうして史可法を捕らえこれを斬りました。清軍が揚州城内で「大」を展開したのは、それからの十日間のことです。いくつか引いてみましょう。
ひとつめは、二五日の夜の場面です。
やがて日が暮れて、大勢の兵士が人を殺している声が門外から筒抜けに聞こえてきた。そこで屋根に登って漸く避けた。雨がことさらにひどく、一枚の毛布を四、五人ずつで一緒にかぶったが、髪の毛まですっかり濡れ通った。門外の泣き叫ぶこえが耳をつんざき、生きた心地もしなかった。
次は、二六日の様子です。
どこにもかしこにも幼児が馬の蹄(ひづめ)にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑(はらわた)は泥にまみれて、その泣き声は曠野(こうや)に満ちていた。途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。血が水にはいって、碧と代赭(たいしゃ)が五色に化していた。池はそのために平らになっていた。
「代赭」が分からなかったので調べてみたら「一般に、赤土から作られる天然の酸化鉄顔料の色をさす。やや明るい茶色。茶色より赤みと黄色みが少し強い」とありました。
次は、二七日から引きます。
やっと人心地がついたかと思った途端に、殺せ殺せという声が間近に迫り、刀の金具の音が響いた。つづいて痛ましい叫び声が起こり、声をそろえて命だけはと哀願するものが数十人あるいは百人以上にも達した。一人の兵卒に行き会うと、南人は自分たちの人数がどんなに多くても、みな首を垂れて這いつくばい、頸(くび)を伸ばして刃を受けるのだった。一人として逃げだそうという気を起こす者もいなかった。
極度の恐怖によって心のちぢこまってしまった人々がどういう行動に出るのかが、生々しく語られています。
最後にもうひとつだけ引きましょう。三〇日、過酷な状況下ともに助け合ってきた長兄が、酷い目にあう場面です。いささか長くなります。
突然、地響きする足音と同時に、痛ましい悲鳴が私の度肝をぬいた。ふり返ってみると、垣根の向こうで長兄が捕まっていた。兄は兵卒と立ち向かっていたが、力の強い兄は、とうとう兵卒をふりきって逃げ、兵卒はそれを追って行った。その兵卒というのは前の日私の妻を引きづって行きそしてまた捨てたあの男であった。兄が半時たっても帰って来ないので、私ははらはらしていた。そこへ突然長兄が走って来た。丸裸にさんばら髪であった。兵卒に迫られて、やむをえず私のところへ命乞いの金をもらいに来たのであった。私はたった一つ残っていた銀塊を兵卒に差し出した。しかし兵卒は非常に怒って、刀をふりあげて兄を打った。兄は地上に伏しまろび、全身血みどろになった。彭児(筆者の息子――引用者注)は兵卒にすがりつき、涙を流して許してとたのんだ〔彭児はそのとき五歳であった〕。兵卒は子供の着物で刀の血を拭うと、またしても打った。兄は今にも死にそうになっていた。ついで私の髪をひっぱり、金を出せといって、刀の峰でめった打ちにしてやめなかった。私は金がなくなったことを訴え、「どうしても金でなければとのことでしたら、甘んじて殺されましょう。ほかの物でしたら上げられます」というと、兵卒は私の髪を引っぱって洪氏の家に行った。私の妻は衣類その他を二つの甕(かめ)の中に入れて、石段の下に伏せてあったのを、全部あけて、何でも好きなものを取るようにいうと、金や珠の類を一つ残らず取ったばかりでなく、服のよいものをも択んで取った。子供の首に銀鎖を掛けてあるのを見ると、刀で引きちぎって行った。行きがけに私をかえりみて、「おれが貴様を殺さずとも、きっと誰かが貴様を殺すだろうぜ」といった。さてこそ城を洗うという風説はもはや確かであると知った。
長兄は、このとき受けた傷が致命傷になって、五日後、絶望のうちに息を引き取りました。
このようにして、四月二五日から翌月の五日までの揚州「大」で、約八〇万の人々の命が奪われたといわれています。むろん、強姦・略奪もすさまじいものでした。
国民党と中共によってねつ造された南京「大」が、中国の人々によって受け入れられたのは、その意識の奥深くにこのような歴史のイメージが生々しく息づいているからなのでしょう。
それとまったく異なる歴史感覚を有する日本人が、南京「大」を南京「大虐殺」と読みかえて真に受けるのは、確かに、おかしなことであり、もうすこし踏み込んでいえば、愚かなことでもあると言えるでしょう。
では、松尾氏の動画「第四回」をごらんください。
南京大虐殺 研究について(その3) 松尾一郎 (第4回)