美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一の、これ基本でしょ その5 Brexitからナショナリズムを考える

2016年10月30日 22時11分08秒 | 由紀草一


当論考には、激動の世界情勢を、しっかりとした思想的足場を確認しながら論じようとする姿勢、良きバランス感覚が感じられます。そこには、学ぶべき多くのことがらがあると感じました。(編集長 記)

***

 日本の知識人にBrexitが気に入らないのは、民主主義が彼らの気に入るように働かなかった以上に、彼らの気に入らないように動いたからでしょう。つまり、ナショナリズムの方向を選択してしまったようなところが。
 日本、だけではないでしょうが、特に戦後日本では、ナショナリズム、いやその前提の国家(nation)は、は悪しきもの・オクレたものの代表でしたし、今もある程度はそうです。私の若い頃でも、「日本のことを考えたら」なんて言ったら、「国家の枠を超えた、世界全体の観点から広く考えるべきじゃないか」なんてよく返されたもんです。まあ、日本にしろ世界にしろ、単なる若造からは無限に遠いところにあり、要するに観念に過ぎないことは同じでしたので、こんな議論もできた、ということなんですが。
 それから、「国境線なんて人間が勝手に決めただけ」とか、「国家がなければ戦争なんてないんだ」とか、よく聞きました。今もありますか? その種の感情を表現したものとして、世界的に有名な代表例と言うと、やっぱりこれでしょうかね。

Imagine there's no countries    想像してごらん 国なんてない、と
It isn't hard to do          そんなに難しいことじゃないよ
Nothing to kill or die for     殺したり死んだりする値打ちのあるものなんてない
And no religion too         そしてまた、宗教もない
Imagine all the people      想像してごらん すべての人が
Living life in peace         平和な生活を送っているところを


 お若い方は知らないかもしれないので一応述べますと、これはロックミュージック史上最も有名なスーパーバンド・ビートルズの、リーダー格だったジョン・レノンというシンガーソングライター(これも古い言葉ですね。自分で作った歌を自分で歌う人のことです)が、ソロになってから出したimagineという曲の、2節目(2コーラス目と言うんですか?)です。
 1971年の発売で、かなりヒットしました。当時は、1950年代に始まった「怒れる若者たち」(angry young men)ムーブメントの末期で、若者による社会運動(日本では全学連とか全共闘とかいう大学生たちが暴れた、アレです)から、精神面に重きを置いたヒッピー文化だのニューエイジとか呼ばれる流派が、アメリカでは盛んになった頃です。レノンはそこで、一方のカリスマに祭り上げられたのです。実際「イマジン」は、この派の主張の一つを、美しく歌い上げています。
  しかし、ここにはレノン個人にとっての危険もありました。カリスマは歌だけではなく、生き方でも理想を体現すべきだ、なんて思われたりしますから。「Imagine there is no possessions(所有物なんてないんだと想像してごらん)なんてこの歌の最後のほうで言っていた男が、ニューヨークの超高級アパートでリッチな生活をしてるなんてインチキだ、許せない」なんて人間も出てきます。レノン殺害犯人の動機については、ジャック・ジョーンズ『ジョン・レノンを殺した男』(堤雅久訳)を読んでもけっこう複雑で、一概にこうだとは言えないのですが、上のような感情も実際に口から出ています。
 それは結局こういうことです。レノンは、国家や既成宗教へのこだわりは最初からなく、当時流行したマントラなんたら言う(今風に言えば)スピリチュアリズムからも早くに醒めて、「平和に生きるただの人間」しかない、という心境に達したらしいのです。
しかし、「ただの人間」が「ただの人間」になれと言われても、けっこう難しい。そこまではあまり思いが及ばなかったようです。
意地悪くみれば、レノンのような、功なり名を遂げた人間だからこそ、「命をかけるに値するものなど何もない」と平気で言えるのではないでしょうか。あらゆる国家や宗教の帰属意識から離れた「一個の人間」には、多くの場合、なんら積極的な意味は見いだせません。
なるほど、安定した生活は、それが失われた人間にとっては、最も切実に希求されるものでしょう。しかし、人間というものはまことにやっかいな生き物で、衣食住がとりあえず充たされたら、往々にして「それ以上」を望んでしまうのです。他の動物との最大の違いは、毎日ほぼ同じように過ぎて行く安全で安定した生活の最中に、「こんな人生、退屈で、惨めだ」なんて考えてしまいがちな独特の、過剰な感性にこそあります。
そこから、レノンのような大スターは、「国家や宗教なんてなくても生きていけると言ったお前がリーダーになって、俺たちをひっぱっていって、新たな『意味』を見せてくれ」なんて要求されることも出てきます。
 ところがレノンのほうでは、「そんなのまっぴらだ、おれはただの男だ、そう生きたいんだ」と、「ゴッド」(ソロになってからの最初のアルバム『ジョンの魂』所収。1970年)という歌の中では言っています。「ただの男」ではなくなったからこそ、それを望む、もう一段上の贅沢。ふざけた野郎だ、と恨まれることも、正当とまでは申しませんが、ありがちではありますね。

 そこで、国家です。これはいわゆるアイデンティティ、ここでは帰属意識と言い換えておきますが、そう呼ばれる巨大な「物語」の、「意味」の供給源であったのだし、今もあり続けています。だからこそ危険だ、とも言えるのですが。
 それで、そもそも、国家とは何か。大昔のことは措いて、近代国家成立の要件を、考えてみましょう。このあたり、後の本論に密接に関係しますが、長広舌を揮いすぎると、何の話だか我人ともにわからなくなってしまう恐れがありますので、思い切って大雑把に、いわば一筆書きで述べます。読者諸賢には、いい加減にもほどがある、と思われましたら、よろしくご叱正のほど、お願いします。
まず産業の進展。そのためには何より、物品の交換がスムースに行われなければなりません。陸路・海路の整備による交通の便はもとより、度量衡、つまりものの単位をできるだけ統一する、そして何より肝要なことが二つ、①統一された通貨(貨幣と紙幣)の体系と②同一の言語=国語、が確立されていなければなりません。
 次の段階、と言って、時間的・構造的な順序は本当はよくわからないのですが、叙述の都合上、次に、と言います、このようにしてできたルールを守らせ、また輸送の途中で物品を奪うような、山賊・海賊などの輩から人々を守る、武装集団とそれを率いる権威ある首領が必要となり、彼らがふつういわゆる権力者となります。
 ところで、この時、往々にして、ルールそのものが彼らから出ているように見えるのが妙ですね。これはまあ、錯覚なんですが。モーゼが「殺す勿かれ」を神の言葉として伝える前から、殺人は悪いことだと考えられていたんでしょうし。しかし、それを守ることは神の意志だとされると、ルールが神聖な権威あるものに見えますし、またその神聖なるルールをもたらした立法者legislatorとして彼らは権威づけられる。この回路が確立されたところに、統治のメカニズムという意味での「国家」が成立します。
  ここではまだナショナリズムは出てきません。それは、一度確立された権威・権力同士の争い、つまり戦争、のために使われるのです。
 同じ過去と文化(箸でご飯を食べる、というような)とを持つ民族という集団は、もちろん事実存在しますが、ここへきてその価値がめいっぱい強調されます。強調されるあまり、同一民族の中にもこれまた現に存在している地域差localityなどは無視され、破壊されたりもします。例えば、日本でも戦前戦後にざらに見られたように、国家の近代化の過程で、地方の荒廃が進む場合があるのです。故郷愛patriotismがナショナリズムの基だというのは、この点では無理を含んでいると言わねばなりません。
 それから、栄光ある国家、それを具体的に、「敵と戦って、敵から守る」という形で、担うべき存在として「国民」はどうか。これによって初めて、食ってチマチマした仕事をして寝るだけの庶民が、巨大な歴史的な存在になれる、ような気がする、という。
 これもまた、くだらないインチキだ、と言う人がいるのに不思議はないです。煽てられて戦場へ行って、病に倒れたら、日本軍に、ひいては日本国から見捨てられ、悲惨な境涯をたどる国民の姿は、大岡昇平「野火」や、それより以前の日露戦争時、田山花袋「一兵卒」などに描かれています。
だいたい、「国家の栄光」そのものが非常に怪しい。ぎりぎりのところ、人々をおだてて、戦場に駆り出すために作られたインチキに過ぎないのではないか、とも思える。そうだとしたら、どんなインチキか。最初に歌を取り上げたので、これが一番端的に表現されている国歌をちょっとみてみましょう。「イマジン」と比べるなんて、あんたヒマジンだね、と嗤われるのは甘んじて受けるとして。
 イギリスの、事実上の国歌(national anthemだから、文字通り国家を讃える歌、です)はGod save the Queen「神よ、女王陛下を救い給え」で、Long live our noble Queen「我らの高貴な女王の命長からんことを」の歌詞など、我が「君が代」に似てますよね。君主の弥栄(いやさか)を祈る、その感情を共有する者たちと信じられている「国民」。逆に言うと、「国民」は、栄誉を担うという行為を通じて、歴史的な存在である君主=国家と一体化し、自らも歴史的な存在となる契機を得る、と。
  なんたることか、そもそも君主とはそれほどの存在か。人民の膏血を絞ってぬくぬくと永らえているのがどこの国でも実相ではないか。それを国家の栄光の象徴とは、ほとんどマゾヒスティックな転倒であり、そんな認識が広く、長く共有されねばならないのだとしたら、それこそ、「国家の栄光」そのものが、根拠のないデタラメであることの何よりの証拠ではないか。
  と、反国家主義者の代弁をしてみましたが、いかがですか?
 その君主国・イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ合衆国はどうかと言えば、国歌で、独立戦争時、一昼夜にわたる敵の猛攻撃に耐えて、砦の上に翩翻と翻るstar Spangled Banner「星煌く旗」=「星条旗」が歌われています。君主はもちろん、ネルソンやウェリントン、それからウェイド元帥などの、将軍名も出てこないところがミソかな、と思います。独立Independenceという形で国家を成立せしめたのが最初から名もなき兵士=国民、いや、「人民」が相応しいかな、であったとされるところが、アメリカという国家の新しさではあるんでしょう。
 では、こういう国家なら正当と言えるのか? そうすんなりとは言えません。独立戦争時だって、「戦争で死ぬくらいなら、イギリスに従属したままでいいや」と思っていた人もいるんじゃないかと思いますが、そういうことは言えなくする、少なくとも非常に言いづらくするのも、ナショナリズムの大事な働きです。つまり個人的な自由は制限する、その力がなかったら、ナショナリズムなんて、いいにつけ悪いにつけ、問題にならないでしょう。
仮に、独立戦争は合理的でもあれば道徳的にも正しかったとしても、その後のアメリカが、大国になるにつれて、いつもそんなに理にかなった行動をしているとは簡単には言えません。ベトナム戦争や第二湾岸戦争を戦った兵士たちは、いかなる栄光を味わったのでしょうか?
 この場合、決して見逃せない要素がありそうです。二十世紀後半のアメリカは、大英帝国に代わる帝国になったのです。四年に一度帝王を選挙で選ぶ帝国。軽くて、無自覚な、だらしない帝国ではあるが、帝国には違いない、とこの国の歴史家兼ジャーナリストのマイケル・イグナチエフも言っています(が、最近はもうそうではない、とエマニュエル・トッドが言っています)。
 「故国を守る」という意味の、普通の素朴なナショナリズムからは離れた、自由と民主主義を「人類普遍の原理」として、世界中に、時には武力を使って、押し付けようとしてきたのが第二次世界大戦後のアメリカです。理念が事実正しくて、武力で押しつけるのも正しい、としたら、アメリカへの帰属意識・忠誠心、という形の、ナショナリズムも正当化されます。一回りして、もとにもどるというわけです。
それが怪しくなっているところが、アメリカにとっても、世界にとっても問題なのです。
   しかしいずれにもせよ、明らかに言い得るのは、大勢の人を現に動かす力という点で、宗教以外の観念(=フィクション)としては、国家しか見当たらない、ということです。国連常設軍なんて、今では話題に上ることすらないでしょう。アメリカのためなら命を懸けるという人は少しはいても、「世界平和」なんて単なる抽象観念のために身命を投げ出そうなんて人はほとんどいないことは、これでもわかります。

 ブレグジットを忘れたわけではないのですが、私の興味は常に原理的なところにありますので、それに沿ったところを言おうとして、前提が長くなってしまいました。
 イギリスが、かつて世界の覇者であった大英帝国の栄光を忘れかね、ヨーロッパ連合の一部であることに甘んじてなどいられない、というのがブレグジットを決めた大きな要因だったとしたら、それは愚かだ、というのもわかります。ただ、自分たちが選んだわけでもない欧州委員会なんたらが決めた決定に従わねばならんなんておかしい、という感情なら、民主主義国家としてはまっとうです。
 そこでブレグジットの是非は次の尺度で考えられなければなりません。EUは、一国のナショナリズムと、同伴関係にある民主主義、それらを超えるだけの価値あるものをもたらすのか、否か。
 まず、産業の進展・大規模化に資すると言う意味では、近代国家成立条件の一つを拡大したものと言えます。通貨の統一は実現しましたし。
 それから、国家エゴイズムと呼ばれるものは、EUにはないのか? あるいは弱まったか? 念のために申し添えますと、それは同胞意識の半面です。異邦人に対する同国民なんですから、その連帯意識の裏には、絶えず連帯の「外部」にいる者たちへの敵愾心、軽くても警戒心があり、つまりは排除の意識と無縁ではあり得ません。だからこそ、戦争で一番有効に使えるわけでして。
 EU内部に限って言えば、エゴイズムは軽減された、と言えるでしょう。欧州連合軍事参謀部(EUMS)、いやそれ以前にNATOがあって、ヨーロッパ各国は、独自に戦争を始める権利こそ手放していませんが(それがなかったら、もはや国家ではない)、緊密な集団防衛体制を構築しており、この内部で戦争が起きることはまずあり得ません。
 それはすばらしい……かと言えば、そもそもどうしてNATOができたのか、誰もが知ってますね。ソ連に対抗するためには、ヨーロッパ各国が協同し、アメリカの力をも借りる必要があったからです。つまり、警戒心・敵愾心はベースの部分にあったわけで。
 EUの中心課題は経済ですね。ECはEEC(欧州経済協力機構)の拡大版ですし、そこに、汎ヨーロッパ的経済活動をより円滑にするために、司法と行政の協力体制を繰り入れたのがEUです(この単純化はあんまりだという場合は……以下前と同じ)。ヨーロッパ全体にまたがる広大な地域で、大規模な経済活動を展開し、早い話がより金を儲けるための機構。そこにはアメリカやら中国に対する、敵愾心とは言わぬまでも、対抗意識を見て取るのは容易でしょう。
 以上から要するに、EUが具体化したグローバリズムは、必ずしもナショナリズムの対抗原理ではなく、超克しようとする試みでもなく、むしろナショナリズムの延長だ、と言い得ます。ただ、図体が大きいと、内部の人には外部が見えにくくなるので、対抗心・敵愾心が具体的に、激しくならずにすむ、ということはあるかも知れません。

 それはそれでけっこうである、少なくとも害はない、としても、ここへきてよく言われるようになったグローバリズムの弱点があります。経済規模が大きくなると、確かに大儲けする人はいるのですが、儲からない人はますます儲けが少なくなる。つまり、貧富の格差が開く、いわゆるマタイの法則、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」事態が露骨に見えるようになっている、と。
  理由はざっと二つ考えられます。
(1)EUに限らず、グローバリズムを牽引しているのは国際金融資本だということ。つまり巨大な投資機関が、広い範囲から金を集めて、これまた広い範囲で使い道を探す、それが国境の壁を低くする具体的な、第一の利点だと考えられています。資本による利益が労働による価値創出を上回るのは資本主義の変わらぬ姿であり、貧富の差が開く要因だ、とはトマ・ピケティ以来常識になったようです。総体としての資本が大きくなるなら、この傾向に拍車がかかるのは全く当然ということになるでしょう。
(2)移民・難民問題。人・モノ・カネの移動を自由にすれば、近代化の過程でたいていの国が経験したように、貧しい地域から豊かな地域への人口の流入は必ず起こります。そこに国家という枠までなくなれば、結果として、豊かな国は、言葉や文化の違う人々との共生を強いられるわけです。「国なんてないんだと想像してごらん」なんて、想像しているだけならいいですが、実際問題として生活の場で「異邦人」と直面したら、そんな簡単なわけにはいかない。その実例は、現在のフランスやドイツ、それからアメリカでも、たくさん見つかるでしょう。
   純粋に経済的、いや経営的な面でも、言葉が不自由でもできるような単純労働は、給料が安くても雇ってもらいたがる移民・難民にまわるでしょう。かくして労働価格が下がり、安い賃金で働かなくてはならない人が増えます。だからこそ、経営者サイドは移民・難民を受け入れたがっているのでしょうが。
   以上の弱点は、単にEU内のグローバリズムがまだ発展途上にあるからで、将来は解消可能なものでしょうか。(1)の問題は、資本主義である以上根本的には解決不可能であるにしても、社会全体が豊かになり、底上げが起きて、下層のほうにも十分な金が回れば、皆さん、文句ないんですよね?
だいたい、18世紀イギリス発の産業革命以来、①産業が大規模化して、多くの商品が生産される→②その商品を買わせるために、労働者の給料を上げる→③以前よりは多くの金を得た労働者=消費者に買わせるために、より多くの商品が生産される、この循環でいわゆる先進国は出来上がりました。トリクルダウン理論がこういう意味だとすれば、長い目で見れば実現しているのです。
 もっと肝心なことは、貧乏人が多少とも金持ちになるやり方を、人類がこれ以外には見つけていないところです。
   ただし、そうであるにしても、今現にある不満をそのままにしておくことはできません。
それにもまして問題だと思うのは、グローバリズムはある面では近代国家の論理を受け継いで発展させたものだとしても、同朋意識という不合理なものは含まないところです。産業の発展・拡大のためには役立ちそうにないですから。
  というところを逆に考えると、国家は、産業の野放図な展開にブレーキをかけることで、逆に資本主義社会を支えてきたのではないか、と見えてきます。保護貿易によって国内の産業を守る、というだけではありません。もっと基本的なところで国民を守る義務が国家にはある、と考えられるところで、です。
  例えば、資本主義である以上、競争は避けられません。そうであれば、競争のルールは公正でなければならない。各種の規制(談合のような、非公式の隠されたものまで含む)によって正常な競争が阻害されているなら、それはできるだけ取り払おう、というのが小泉規制緩和だったわけです。これは原理的にはまちがっていません。
が、競争なら必ず、勝つ人と負ける人が出てきます、ってこれ、トートロジーですね。公正な競争が行われているなら、才覚や努力が足りない事業者が負けるのが、つまり正しいわけです。とは言え、目に余る散財をしたわけでもなく、まずまず普通には真面目に仕事をした人が、競争に敗れた場合、「そんなの、自分のせいなんだら、自分でなんとかするしかない」なる「自己責任論」だけで、すべてすますわけにはいかんでしょう? あまりいい生活はできない、ぐらいはしかたないとしても、食うに困るほど貧窮したら、やっぱり何かのケアは必要だ。そのケアをするのは、国家以外にないんではないですか?
  いやあ、実際の国家は、そんなことやってないんだよ、と言われるかもしれず、その証拠も見つかることでしょう。それでも、最低限、「国はやるべきことをやっていない」と非難することはできます。国際金融資本が相手では、「そんなもん、知らんよ」でおしまいですよね。
そのケアに密接に関連する話ですが、「富の再配分」なる考え方。これも、資本主義そのものからは出てきません。「公正なルール内の競争で、懸命に努力して、たくさんの金を稼ぐことができた。それに対して、国や世間が力を貸してくれたわけではない。それなのにどうして、他人よりたくさん税金を納めなければならんのか」と問われた場合、合理的な答えを出すのは難しいですよね(「いや、答えられる」という方は、是非お聞かせください)。税金が、よく説明されるように、公共物や公共サービスへの対価だとしたら、累進課税はもちろん、課税率なんてのがそもそもおかしい。全員同額払う、でなければならんはずでしょう。
  ここでは「社会の安定」という次元の違うことが考えられているわけです。貧富の差が甚だしいと、貧しい側の不満、その不満は正当な時もそうでないときもあるでしょうが、どちらにしてもあまりに溜まると、暴動などにつながる社会の不安定要素になる。だからそれは宥めなくてはならない。その配慮をするのは国家の義務であり、その義務を全うするために、実はあまり理屈に合ってないようなやり方で税金を取り立てる権力も与えられている、というわけです。
  そして、国家が現に累進課税などを実施できるのも、国家内の、同朋意識があるから です。より正確には、同朋意識があるものとみなしてさしつかえないという意識なら、あるとみなしてさしつかえない、ぐらいのところで、現に政治が行われているからです。
さらに、こういうこともあります。
  福島の原発事故のとき、在日米軍のうち何人かが、被災地の救援と復興に赴きました。「トモダチ作戦」と言われましたね。美談として語られることもあるんですが、作戦中何人かの兵士が被爆して、障害が出たとして、現在東京電力側に補償を求めて訴訟を起こしています。小泉純一郎がわざわざ渡米して、彼らと面会し、「これは見過ごせない」と涙を流したのは、どうでもいいとしまして。
 この事件については、同時期に同じ場所で活動していた日本の消防士や自衛隊員の方々には障害がは出なかったのか、出ても、訴えてはいないのかな、などなど、いろいろ疑問が持たれます。それも置いといて、何人かが被爆したのは事実であるとして、痛烈に感じられたのは、在日米軍は、日本の「トモダチ」であるとしても、「同胞」ではないんだな、ということです。「トモダチ」に期待できることは、限られているのです。

 以上、いろいろ申し上げましたが、「ナショナリズムとグローバリズムのいいところは伸ばして、悪いところは抑えるようにしよう」なんてご都合主義的折衷主義からは一線を画したいために、こうなってしまいました。できるだけかいつまんで申しますと。
  資本主義は、生き延びるためにはどうやら拡大が宿命づけられているらしい。それなら、国境を越えて産業が拡大していくグローバリズムは、ある程度は必然です。そうなればなるほど、国家の重要性は増し、その美点と、それが裏返された弱点も、拡大されて見えてくるようになるでしょう。
 それで、結局どうなるのか? わかりません(笑)。ブレグジットは、反グローバリズムの動きであるのは確かですが、単なる反動なのか、それとも、今後の世界の主流になるのか、つまり、現行のグローバリズムは捨て去られ、新たなナショナリズムの時代になるのかどうか。なかなか見ものではありますね。自分の生活を守るのだけでも、庶民にはなかなかたいへんではありますけど、できるだけ余裕をもって、興味深く見守っていきたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費増税問答(その3) (小浜逸郎)

2016年10月23日 11時11分29秒 | 小浜逸郎

笹子トンネル崩落事故の現場写真

産経新聞編集委員・田村秀男氏が、今朝の同紙7面に「国会は増税ドグマを払拭せよ 消費税災厄、未だ去らず」という論説を載せています。そのなかかから、印象的な記述を引いておきましょう。「安倍首相が10%への増税を重ねて延期したのは、国家・国民の利益を優先する当然の選択だ。しかし、消費税増税による恐るべき日本経済への災厄を直視しようとする声は国内では依然として少数派にとどまる。増税すなわち財政再建・日本再生という破綻した論理が幅を利かせている。税制改正法案の国会審議では、与野党とも消費税増税の何が問題なのかを真摯に討論し、日本を沈めるドグマを払拭すべきではないか」。緊縮財政は国を亡ぼす。それが分からない国会議員は、議員バッジをつける資格がない。私は、そう考えています。(編集長 記)

***

Q9:もう少し質問させてください。
「もう(国内で)モノが売れなくなっている」という状態がありますね。これは例えば車や携帯電話や各種サービス業など、すでに大体の人が手に入れてしまい、市場が飽和して、商品としての機能充実やサービスも熟しきって新たな需要を喚起できないという状態がけっこうあるんではないかと思います。それには社会構造や人口構成の変化も関係していて、資本主義先進国のある種の行き着く先なのかな? とも思っているんですけど、
・こういうことが内需頭打ちの構造的な原因になってるという理解は正しいと思いますか?
・そしていまのデフレを助長している要因のひとつではないかという疑問についてはどう思いますか。、
この「モノの売れなさ」に対しては、財政出動は経済という面における対症療法としての一定効果と理解すべきであって、社会構造の本質的な改善となると、体制変換のような国家的大問題になると思うのですが。


A9:これは、たいへん重要な問題です。
貴兄の疑問は、半分は当たっていますが、半分は当たっていません。そうして、多くの人が貴兄のように考えているようです。
 当たっているのは、「先進資本主義国では、モノやサービスが余り過ぎて、もう需要は伸びないだろう」とみんなが思い込んでいるために、じっさいに需要が開発されなくなってしまっているという事実。つまり、経済の動向はその時々の心理が大きな決定要因となるという一般的な事実ですね。たしかに、今の日本では、大部分の人がそう思い込んでいて、そのため、実際に内需拡大の方向に経済が動かないということがあると思います。
 しかし、これは結局、「いまはデフレなんだから、デフレが続くのだ」という同義反復のペシミズムを導くだけです。
 内需を拡大しなければこのひどいデフレからの脱却は不可能だという立場からは、この思い込みを取り除く論理を立てなくてはなりません。というよりも、内需は、実際やろうと思えばいくらでも拡大できるし、その条件は、今まさにそろいつつある、というのが真実です。

 具体的にその条件を挙げましょう。

少子高齢化による労働力不足。  
これは、建設業、介護などの福祉の分野で深刻で、他の分野でも早晩そうなっていくでしょう。つまり、これからの日本は、仕事がない状態から、仕事があるのに人材がない状態へと移っていくのです。これは、内需を拡大するまたとないチャンスですし、同時に賃金が上がっていくことにもなります。
 ちなみに、この問題を口にする時に、ほとんどの人は、政府やマスコミが流した、将来の人口減少を理由として挙げますが、これは大きな誤りです。人口減少は、100年、200年単位の長期的な予測で、そのカーブは極めて緩やかです。事実は人口減少が問題なのではなく、そんなには減らない総人口と、急速に減っている「生産年齢人口」(15歳から64歳まで)とのギャップこそが問題なのです。つまり総人口に対する働ける人の割合が減っているからこそ、人手不足が深刻になり、だからこそ、需要が拡大する余地が大いにあるわけです。
 安倍政権は、一方で、この人手不足問題の解決を、技術開発投資による生産性の向上に求めていて、これは正しい方向です。ところが他方では、外国人労働者を増加させる政策も取っています。事実上の移民政策ですね。これは前者の方向と矛盾するだけでなく、ヨーロッパの移民難民の惨状をちょっと見ただけでわかるように、けっしてとってはならない愚策です。外国から安い賃金に甘んじる労働者が大量に入ってくると、賃金低下競争が起き、国民生活がいよいよ貧しくなる方向に引っ張られます。じつは財界はそれを狙っているので、その点で安倍政権、ことに自民党は、財界の圧力に屈しています。また、移民が増えると、深刻な文化摩擦も引き起こされます。
 外国人労働者拡大(実質的移民)政策は、いわゆるアベノミクス「第三の矢」の規制緩和の一環で、ヨーロッパが取りいれてきて失敗したことを目の当たりにしていながら、それを周回遅れで見習おうとしているのです。
 ちなみにここで言う「外国人」とは、その大きな部分が中国人です。中国政府は尖閣問題だけではなく、日本や南シナ海への進出を露骨に狙っていますから、日本が移民政策などを取ると、これ幸いとばかりどんどん押し寄せてくるでしょう。安全保障の意味からもけっしてとってはならない政策です。

超高齢社会による、医療・福祉分野での需要の拡大。
これは、あらゆる分野に波及する可能性を持っていますよね。特に介護にたずさわる人は女性が多いのに、力仕事ですから、パワードスーツなどのAI機器の開発・普及が期待できます。

高速道路網、高速鉄道網の整備による生産性の向上と地方の活性化。
  これは、地図を見るとわかるのですが、計画だけはすでに何十年も前からあるのに、その整備状況はひどいものです。先進国の中で格段に遅れています。
 山陰、四国、九州東周り、北陸から大阪までの各新幹線はまだ出来ていませんし、山形新幹線も中途半端で、鶴岡や酒田や秋田にそのままでは抜けられませんね。北海道新幹線も、札幌まで延ばさなければほとんど意味がありません。同じ地方の高速道路網も、全然整っていません。
 これが整備されていないために、地方の過疎化が進み、東京一極集中がさらに進むという悪循環に陥っています。これは、単に地方が疲弊してゆくという問題だけではなく、災害大国である日本の首都で大地震が起きたら、地方に助けてもらえないということも意味します。
 なおまた、新しい交通網の整備だけではなく、すでに1964年の東京オリンピックの頃に整備された古いインフラが、日本中で劣化をきたしていて、そのメンテナンスがぜひとも必要だという事実もあります。道路、橋、歩道橋、水道管、火力発電所など。こういうことにお金をかけることがいかに大切かは、ちょっと考えれば誰でもわかるのに、多くの人の頭の中には、消費物資の飽和状態というイメージしかないのです。

スーパーコンピューターの開発。
 日本は、この分野で世界で一、二位を争っていますが、蓮舫氏の言う「どうして二位じゃいけないんですか」は、絶対にダメです。すでにスピードでは中国に追い越されていて、省エネ部門(いかにエネルギーを使わずに高性能とスピードを達成するか)でも追い越されかかっています。エクサスケール(100京)のコンピューターが完成すると、コンピューターが自らコンピューターを作り始めるので、2位以下の国はもはや自国でコンピューターが作れず、すべて、1位になった国が作るコンピューターを買わされることに甘んじなければならないそうです。

 総じて、人間の技術の発達史を見ると、需要が頭打ちになるなどということはあり得ないことがわかります。新しい技術は、これまでの困難を克服するだけでなく、新しい欲望を作り出すのです。それがいいことか悪いことかは、この際措きますが。
 なお貴兄のいわゆる「資本主義の行き着く先」という問題は、実体経済における需要の頭打ちというところに現れるのではなく、金融資本の移動の自由や株主資本主義が過度に進んだために、ごく一部の富裕層にのみ富が集まり、貧富の格差が極端に開いているところに現れています。その意味でも私たち国民生活に直接役立つ実体経済の分野に投資がなされなくてはならないのです。


Q10:最後に幼稚な疑問ですが、最近は大新聞さま以外にもいろんなニュースサイト、オピニオンサイトがあり、情報ソースの選択肢自体は多いにも関わらず、例えば経済に明るい若手の企業家などが一見クレバーなことを言うようなケースは多くても、こういったことを一般の肌感覚に照らしてわかりやすく発信するところが少数派な気がするのですが、それはなぜですか。真実をきちんと見つめる人が常に少数派だからですか?

A10:これは残念ながらその通りですね。この傾向は、情報過剰社会になって、ものをよく考える習慣を身につけていない人たちが、いっぱし意見を発信するので、ますます真贋を見分けることが難しくなっていることを示しているでしょう。高度大衆社会は、無限に多様化したオタク社会でもあって、ものごとを総合的に把握する人が相対的に少なくなっていると言えそうです。
 真実をきちんと見つめて正しいことを言うのはいつも少数派です。マルクスは、バカどもが下らない議論をしているときに、「無知が栄えたためしはない!」とテーブルを叩いたそうですが、実際には「まずは無知こそが栄える」というのが正しいでしょう。
 私もそんなに大きなことは言えませんが、これまでの自分のささやかな言論活動のなかでも、聞く耳を持たない奴らに何度言ってもわかるはずがないという残念な感慨をたびたび味わってきました。
 しかし、こと経済に関しては、貴兄以上に音痴だったのですが、少しばかり勉強するうち、きちんとものを見ている人は、たとえ少数でもいるものだということに気づきました。これまで名前を挙げた人たち、田村秀男三橋貴明青木泰樹ら各氏ですが、あと二人、内閣官房参与を務めている藤井聡氏と、経産省官僚ですが独自に言論活動をしている中野剛志氏を挙げておきましょう。ともかくこういう人たちがいるかぎり、こちらも絶望ばかりはしていられないという気になってくるわけです。

(このシリーズはこれで終わります。)


初出:2016年10月07日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費増税問答(その2)(小浜逸郎)

2016年10月18日 15時50分25秒 | 小浜逸郎


当論考中でも触れられている日経新聞が、今日の朝刊で、英エコノミスト誌の翻訳記事を載せています。題して、「トランプ氏が招く米政治の底割れ」。小見出しには、「暗黙の秩序が踏みにじられる」「トランプ氏勝てば政治は汚く残酷に」の文字が躍っています。トランプ候補=悪という印象操作が目立つ記事です。日経はこれまであまり露骨なクリントン候補の援護射撃をしてきませんでしたが、ここにきて、同氏への露骨な肩入れをしはじめました。「翻訳記事だから」というのは、言い訳にはならないでしょう。数ある記事の中から、選挙日を十一月八日に控えたこの時期に、よりによって、当記事を選んだ動機はおのずから明らかです。堂々と論陣を張らないところは、姑息でもあります。「1%VS99%」の「1%」側に利する報道をし続ける日経新聞の「面目躍如」といったところでしょうか。日経新聞は、当論考中にあるように、「1%」の側に立って、消費増税の必要性を率先して唱道してきました。さらには、日本国家をグローバル企業の利益追及の場と化すグローバリズムのいっそうの推進を一貫して主張し続けています。クリントン氏への援護射撃は、その一環といえるでしょう。(編集者記)

***

Q4:消費増税を主張する財務省や御用学者が間違っていることはよくわかりましたが、なぜそういったことがマスコミで言われないのでしょうか? また財務省や御用学者はなぜ真実を隠してソッチに世論を誘導しようとしているのでしょうか?
まずマスコミについては、左翼的偏向などは影響なさそうだから、彼らがそうなってしまう仕組みがよくわかりません。単に不勉強というに尽きるのでしょうか? それとも何か、彼らがソッチへ行ってしまう偏りの根があるのでしょうか?
 そして財務省については、
・本当は真実を理解しているが予算拡大=権益確保のために意図的に世論誘導しているのか? あるいは他の理由もあるのか?
・増税という財務省の悲願は、その本来の意味/無意味を問うことを忘れるほど魔力のあるものなのか?
・あるいは、経済理解には常に諸説あり、現状ではソッチ派がなんらかの理由で(東大閥とか)主流になってしまう(つまり彼らとしては意図的ではなく、本当にソッチが真実だと思っている)のか?
 このへんはどうでしょう。


A4: なかなか鋭い質問です。当然起きてくる疑問で、私もこれについては相当考えてきました。貴兄の言っていることはある程度までは当たっています。これも前回紹介した拙著『デタラメが世界を動かしている』p73~74に書かれているのですが、もう少し展開してみましょう。

 まず、財務官僚ですが、彼らは何らかの悪意とか、作為とかがあってそうしているのではなく、ケチケチ病という一種の強迫神経症と、臆病という不治の病と、長年続いた公共投資アレルギーとに骨の髄まで侵されているのでしょう。単年度会計で収支バランスを取る、ということだけが彼らの習慣的な思考スタイルになってしまっていて、それを抜け出すことができなくなっているのだと思います。いわば彼らは「緊縮財政真理教」なる宗教団体と化しているとも言えましょう。
 なぜそうなるのか。
①ひとつは、彼らが悪しき意味での「秀才」だからです。この連中には、普通の国民が何に関心を持っているかという一番大事なことが視野に入っていません。「経済学」をお勉強して、密室の中でシコシコと机上の空論をもてあそんできた連中です。彼らは、与えられた課題、つまり、国家財政を均衡させるには数字をどう動かせばよいか、ということしか考えていず、そのためには、赤字国債や国債利子の支払いを減らして税収を増やさなくてはならないというテーゼに金縛りになっているのです。先に述べたとおり、税率を上げても税収は増えないのですがね。
②その「経済学」というやつですが、現在幅を利かせている「主流派経済学」は、「すべての個人は利益最大化と効率のために合理的な行動をとる」という機械的な仮定を前提として、数式を用いた理論モデルでガチガチになっています。これは、財務官僚の周りに群がる御用経済学者たちの基本的なスタイルです。そうして複雑難解な経済理論、経済法則なるものを作り上げ、理論と現実とが乖離している場合には、理論の間違いを柔軟に認めるのではなく、現実のほうが間違っているとみなすのです。
 たとえば、彼ら(新古典派経済学と呼ばれますが)の仮定によれば、市場の均衡原理が成り立っている状態では、完全雇用が成り立ち、非自発的な失業者(仕事を探しているのに仕事に就けない人)は存在しないというバカげた結論が導かれます。こういう経済学に依拠している限り、財務官僚も安んじて低所得者層の問題など頭から放逐できるわけです。
③官僚体質と昔から言われますが、彼らは、一度正しいと信じて決めたことは何が何でも通そうとします。現実の変化に応じて柔軟に対応しようという政治判断ができません。その決めたことを貫くための実務能力において、彼らは極めて「優秀」です。
 これは、今の場合で言えば、かつて田中角栄の時代やバブル時代に多少通貨が膨張してインフレになったので、「羹に懲りて膾を吹く」の体で、「決してインフレにしてはならぬ! そのためには倹約せねばならぬ!」という教科書の教えを守り抜いているわけです。そうしてひどいデフレ状況を二十年以上も支えてきました。ちなみに、江戸時代の三大改革は、いずれも倹約の美徳を説いて、産業の振興を抑制したために、経済政策としてはことごとく失敗していますね。
④このDNAは、後続世代にそのまま遺伝します。財務官僚といえども、若い世代のなかには、上司の方針はおかしいんじゃないのと疑っている人はけっこういると思いますが、部内で異を唱えると、必ず出世に差し支えます。官僚とはそういう世界です。

 次に御用学者ですが、彼らは若いころ、エール大学とかハーバード大学とかシカゴ大学とかで、いま言ったように理論経済学を叩きこまれていて、現実に生き生きと対応できるような思考の道具を持っていないのです。「真実」を知っていながら隠しているのではなくて、本当に自分たちが正しいと信じ込んでいるようです。
 つまりエリートとしてのプライドと権威主義とが、真実を見ることを妨げているのですね。だから、たとえば中小企業診断士から身を立てた筋金入りの経済評論家・三橋貴明さんなどから矛盾を突かれると、話を逸らしたり、答えないで黙ってしまったりします。消費税には直接かかわりませんが、日銀副総裁の岩田規久男氏などは、金融緩和だけでデフレ脱却できるという理論(リフレ派といいます)が現実によって裏切られているのに、いっこうにその誤りを認めようとしません。

次にマスコミですが、これは産経新聞特別記者の田村秀男さんのようなごくまれな例外を除いて、本当に不勉強でバカです。財務省や日銀という権威筋の言うこと、やることをそのまま虎の威を借りる狐のように大衆に向かって垂れ流しています。特に経済専門紙であるはずの日本経済新聞がひどい。この新聞は、率先して消費増税の必要性を説いてきました。
 そればかりではなく、景気悪化の指標が歴然と出ているにもかかわらず、政策の批判をせずに、その原因を暖冬のせいで暖房器具が売れなかったとか、原油安が響いたとか、政府が外部要因のせいにするのを鵜呑みにしています。つい先日も、8月の最終消費支出が前年同月比でマイナス4.6%になり、6カ月連続の落ち込みだと伝えながら、その原因を、台風で天候不順が続いたからだ、と平然と書いていました!
 忙しくて考える暇のないサラリーマンのほとんどが、日経を読み、経済紙の言っていることだから正しいだろうと刷り込まれてしまいます。非常に罪が重い。朝日、読売などもこの点では同じです。
 またNHKラジオなどでときおり経済問題特集をやるのをカーラジオで聴くのですが、出てくる経済部記者や論説委員は、ほとんど権威筋の言うことをオウムのように繰り返しているだけです。批評精神などみじんもありません。
 参考までに、先日、日銀が「総括的な検証」を発表した時のNHKのひどさについて、ブログに書きましたので、覗いてみてください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/44d5affc8b33d3b9a0e525ed26c69820

Q5:貴兄は、「政府が通貨発行権を持つので、新たに通貨を発行することで、(すべてではないにしても)ある程度まで借金をチャラにできます。これは動画でも、だからってハイパーインフレなんかにならない」と言ってますが、現実的に問題が起きない程度での借金チャラ化は、およそどの程度までなら可能なのでしょうか?

A5:これに答えるのはちょっと難しい。つまり、仮に1000兆円借金説が正しいとして(正しくないのですが)すべてを通貨発行でチャラにするというのは、やや乱暴な話で、そんな政策を打ち出せば、それこそ緊縮財政派の財務省、学者、エコノミスト、マスコミが、「ハイパーインフレになって国債が暴落する!」と鬼の首を取ったように叫び出すでしょう。要するに、これは、その時々の実体経済市場と金融市場の情勢を踏まえて決定すべきバランスの問題でしょうね。たとえば私が試算したように、政府の負債が100兆円くらいなら、通貨発行でチャラにしてもほとんど悪影響はないと思います。また負債がこれくらいなら、わざわざチャラにする必要がないとも言えますね。

Q6:貴兄はまた、「日銀は広い意味で政府の一部門なので、日銀が買い取った国債を、新規発行の国債(無利子、返済期間無期限)と交換できます。」と言っていますが、これは、通貨発行で負債をチャラにするのと実質同じようなことに思えますが、そういう理解でよいのでしょうか?

A6:通貨発行でチャラにするのと、国債の借り換えとは違います。前者は、実際に通貨が市場に流通するので、巨額ならばインフレ懸念が発生しますが、後者の場合は、日銀と政府とで、書類上の書き換えをするだけです。だから、インフレ懸念も発生しないとてもよい方法だと思います。これは、日本の経済学界で、主流派経済学者に抵抗してほとんど孤軍奮闘されている青木泰樹先生から直接聞きました。

Q7:貴兄はさらに、「政府の負債は、拡大しても返済義務があるわけではなく、また罪悪視する必要は何らなく、国民生活に役立つならむしろ積極的に拡大すべきなのです。特にデフレの時は民間を刺激する必要があるので、これが求められます。」と言っていますが、これはつまり、借金、というより、出資、という方が正確な理解に近いと思ってよいのでしょうか? イコールではないにしても言葉のニュアンスとして。

A7:まさにそのとおり。そういうイメージで国民の多くが捉えれば、何の問題もないのに、財務省やマスコミが「借金」という言葉を使って国民を騙すので、国民は、自分の家計に引きつけて考えてしまうわけです。企業は自己利益のためになると考えたら、投資という賭けに出るために借金をしますが、儲からないと踏んだら融資を受けません。これに対して政府は自己利益のためにあるのではなく、国民の福祉のためにある公共体ですから、儲からなくても「出資」すべきなのです。

Q8:公共事業などで景気が良くなり設備投資などで好景気の影響が循環していくというのは分かりますし、低金利政策も仕組みとしては理解できます。でも低金利政策は行くところまで行っちゃってあまり日銀は有効な手を打てないのかなと理解しているんですがいかがですか。

A8;そのとおりです。日銀の金融政策にはもともと限界があります。一つは、黒田バズーカを続け過ぎて、金融市場の国債が不足しつつあることで、あと3年くらいこのまま続けるとゼロになってしまいます。すると、金融機関は、そのぶん海外のハイリスク商品に手を出す可能性が出てきます。運用が下手なことで有名な年金機構などは危ないですね。でも量的緩和(国債の買い取り)自体は低金利政策のために続ける意味があります。その点からも政府が新規国債を発行する必要があるわけです。
 また日銀は、ついにマイナス金利まで導入しましたが(すべての国債残高に対してではなく、新規発行のほんの一部ですが)、これは市中銀行が日銀に金を預けていると、逆に利子を取られてしまうという仕組みです。この結果、10年物長期国債の金利までマイナスになってしまいました。ここまでやっても、企業は積極的にお金を借りようとしません。それほどデフレマインドが染みついてしまっているのですね。
 それだけでなく、マイナス金利には、銀行の営業を圧迫するという副作用があります。特に中小銀行には痛手でしょう。これが高じると、預金者にも迷惑が及ぶ可能性すらあります。極端な場合、銀行預金にマイナス金利がかかり、みんなが預金を下ろしてタンス預金をしてしまう。そうなると、ますます市場にお金が回らなくなりますから、デフレの悪循環に落ち込みます。
 さすがに黒田総裁は、このたびの「検証」で長期国債の金利がマイナスからせめてゼロになるように誘導すると発表しているようですが、どうやってやるのかよくわかりません。じつは万策尽きているというのが本音でしょう。日銀は「まだできる、まだできる」と意地を張らずに、自分の限界をはっきり表明して、政府に強く財政出動を求めればよいのです。

初出:2016年10月03日 14時17分55秒
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費増税問答(その1)(小浜逸郎)

2016年10月16日 10時29分21秒 | 小浜逸郎


小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」からの転載記事です。消費増税問題は、より多くの一般国民によってその本質が周知されればされるほど、その虚偽が明らかになり、増税凍結、さらには、税率低下さえもが実現可能になります。だから、「知ってしまった者」が「いまだ知らざる者」にどうやって伝えるのかが、きわめて重要なポイントになってきます。その点、当論考は、貴重なドキュメントになっているのではないでしょうか。(編集長記)

***

 さる9月19日、政治経済ジャーナルChannel Ajerに出演しました。テーマは「消費増税の真実」です。
 消費増税は3年後に延期されたので、とりあえず国民の関心から遠のいているように見えます。しかしなお、なぜ増税の必要があるのか、増税には根拠があるのかについて、ふつうの人々に理解が行き渡っているとはとうてい言えません。財務省やマスコミ、一部の経済学者やエコノミストたちは、いまだにその必要を説き、国民をまんまと騙しています。このインチキをしっかり暴いておくことは、たいへん重要です。なぜならば、三年後には必ず増税が実施されるものとほとんどの人がいま思い込んでいることそのものが、直近の経済活動の大きな抑制効果として現れているからです。増税は延期ではなく、少なくとも凍結、本来は増税ではなく元の5%に戻すべきなのです。根拠のない増税論がまかり通ることによって、現在の人々の消費行動や投資意欲を縛っています。人は将来の予想によって現在の経済行動を決めるからです。

 動画は全体で40分ほどですが、初めの15分は、you tubeで無料でご覧になれます。

『第1回デタラメが世界を動かしている「消費増税をめぐる真実」①』小浜逸郎 AJER2016.9.19(9)


*当動画をすべて見るためには、プレミアム会員(¥1,050/月税込)になる必要があります。以下のURLをクリックしていただけば、そのための手続きがしていただけます。http://ajer.jp/
なお、プレミアム会員になれば、当該サイトでUpされたすべての動画を視聴することができます。

 
 さてこれを見た私の親しい知人から長い質問メールをいただいたので、それに応答しました。以下、2回にわたってその質疑応答を掲載します。なお質問は、より一般的なものにするために私が勝手に整理し、また応答のほうも若干修正したところがあります。

Q1:貴兄は動画のなかで、増え続ける社会保障費の財源のためにも増税は必要だという論理に対して、「お金に色はない。歳入で税収が増えたとしても歳出を決めるのは財務省と各省庁との折衝で決まる。特別会計で使い道を決める法律でも通すなら別だが、そんな議論はなされていないのだから、国民だましのトリックにすぎない」と言っていますが、「でも、財布全体の支出増に対して収入を増やさなきゃ、ということ自体は考え方として間違っていないのでは?」という反論があったらどうなのでしょうか。この反論が正しければ、社会保障を抑えるか税収を増やすかどちらかは結局しなくてはならないのではないでしょうか。
 あるいは、この動画の趣旨は、家計を「喩え」に用いて、何とか収入を増やすかそれとも我慢して節約するかと考えるのと、政府の歳入歳出とは本質的に違う、ということなのでしょうか。


A1:収入を増やさなければならないというのはその通りです。社会保障費を抑えるわけにはいかないし、抑えるべきでもありません。しかし税収を増やすだけがその方法ではありません。
 社会保障費のためには、特例国債(赤字国債)を発行すればよいのです。特に長期国債の利子がマイナスにまで落ち込んでいる現在、特例国債によって賄うのは絶好のチャンスであり、理にかなったことです。もちろんその償還は将来の税収からということになるのですが、後に述べるように、「国の借金1000兆円」というのはデタラメですから、新規国債発行を政府が(まして国民が)恐れる必要はもともとないのです。
 また、社会保障費でなく、現在ぜひ必要な高速道路網、劣化した橋などのインフラ整備のためには、赤字国債とはまったく異なる建設国債を発行することができます。これによって公共投資を行った場合には、建設された公共施設が将来も国の資産として長く残るため、いま増税分で償還しなければならないということはありません。

 おっしゃる通り、家計と国家財政とは根本的に違います
 家計は決まった収入によって制約されますが、国家財政は、
①政府が通貨発行権を持つので、新たに通貨を発行することで、(すべてではないにしても)ある程度まで負債をチャラにできます。
②日銀は広い意味で政府の一部門なので、日銀が買い取った国債を、新規発行の国債(無利子、返済期間無期限)と交換できます。
③アベノミクス第二の矢であった「積極的な財政出動」によって公共投資を拡大し、民間経済を活性化させることができます。
④政府の負債が拡大しても、それはそのまま債権者である国民の財産ですから、普通の借金のように法的に返済義務があるわけではなく、また罪悪視する必要は何らありません。国民生活に役立つなら(デフレの時は特に民間を刺激する必要があるので)、むしろ積極的に拡大すべきなのです。
⑤日本国債は、100%円建てなので、①②で述べたように、政府・日銀レベルでいくらでも処理できますから、破綻の危険はゼロです。そこがユーロで借金しなければならないギリシャなどとまったく違うところです。
⑥そもそも国家財政の破綻とは、借金が返せなくなることではなく、誰も新たに貸してくれなくなること、つまり日本政府が国民や金融機関の信用を失って国債を発行しても誰も買わなくなることです。しかしそういうことはこれまで起きたことがありません。日本の国民と国家との信認の関係を考えれば、これからも起こりえないでしょう。
⑦日本は対外純資産(外国に貸している金―外国から借りている金)250兆円を保有しており、世界一の金持ち国です。これを処理することもできます。

 なお、動画でも言っていますが、税率を高くしさえすれば税収が確保できると考えるのは、端的に誤りです。なぜなら、税収はGDPの関数なので、消費税率を高めれば高めるほど、消費や投資が減り、つまりGDPが下がり、結果的にその分だけ税収も減ってしまうのです。これは97年橋本内閣の時に実際に起きたことです。

Q2:いまよく世間で言われているのは、「国債の債務が膨張すると日本経済の信用や格付けが低下し、さらに予算膨張も続く。すると円の信用が低下し、国際発言力の低下やら対外経済の状況悪化を招く。だからそれを避けるために国民全体で国家予算を健全化しましょう。そのためには増税やむなしですね」といった文脈ではないのですか。貨幣価値が「信用」をベースにしている以上、海外の経済格付け会社の評価が下がったり、グローバル経済界を行き来している人々の間に蔓延しているトレンド(つまり、はやりの「気分」)とか、そういったもので信用低下という流れが定着してしまうと、それがどれだけ本質と離れていようと、貴兄の言われる怖ろしい「デタラメな世界」が実現してしまう。それに対する危機感、には一定の根拠があるのではないですか。

A2:まず国際経済の「気分」が円の信用失墜に結びつくことはあるのではないかという懸念ですが、現下の状況では、国際通貨の中で、円は、ドル不安やユーロ危機などが高まった時(実際高まっているのですが)に、必ず避難場所として買われる(両替される)ので、まず信用失墜ということはあり得ません(ただし再び円高に振れ過ぎて輸出がふるわなくなるということはあり得ますが)。
 また格付け会社などは、頼まれもしないのに、勝手に他国の国債の格付けをやっているので、こんな外国人投機筋の思惑を過度に気にするには及びません。それよりも真っ先に大事なことは、日本がデフレから脱却するにはどうすればよいかということであって、それは国家主権を握っている日本政府の決断しだいでいかようにも対策を打てます。それをやらないで、財務省、御用経済学者、エコノミストたちが「国の借金が~」とか「国際的な信認が~」などと根拠のないことを言って国民を騙し続けてきたので、いつまでも景気が良くならないのです。
 デフレとは国内の総需要の不足ですから、政府が内需拡大のために、率先して財政出動を行い、民間のデフレマインドを一刻も早く打払うべきです。ここさえ突破できれば、円高による輸出不振が多少あったとしても、それほど問題ではなくなります。
 なお、国際的な経済の減速はすでに十分認識されていて、先日のG7やG20でも、各先進国が緊縮財政から積極財政へと方向転換すべきだという点で一致しました(頭の硬いドイツ以外は)。このへんは、公式的には言いませんが、安倍首相も2014年の増税による大失敗で痛い目に遭って、ようやく理解したようで、財務省の圧力を何とかはねのけようと努力しています。
 しかし財務省、経済学者、エコノミスト、マスコミのマインドコントロールの力はものすごく、自民党議員もいまだに緊縮財政派が主流で、積極財政派は少数派です。政治家はじつに不勉強なのです。

 また、動画の無料公開部分では言及されていませんが、私は、いわゆる1000兆円の国の借金というのが完全なデマだということを、具体的な数字を挙げて細かく説いています。
 いろいろな算出の仕方が考えられますが、あの放送では(ここがあの放送の一番大事な部分なのですが)、最終的に政府の負債は100兆円足らずだという試算を試みています。
①政府の資産650兆円のうち、流用可能な額が約250兆円。
②財政投融資による特殊法人の借金が160兆円であり、これは税収から返済することが禁止されており、法人が政府に返済すべき。
③建設国債250兆円は、政府の資産に変貌するので、借金と見なす必要なし。
④3年間にわたる日銀の年間80兆円の国債買い取りによって240兆円の負債はすでに消えている。
 よって、1000兆円―250兆円―160兆円―250兆円―240兆円=100兆円
 なお拙著『デタラメが世界を動かしている』P59~P61でも、この試算をやっていますが、こちらは、①の650兆円を全て算入してしまっているので、やや乱暴であるのは否めません。

Q3:「空気」によるデタラメが通ってしまう結果として、誰も望んでないのにグローバル化せざるをえず、誰も望んでいなくても、「日本経済ちゃんとやってます」的な花火を打ち上げないといけなくなる、ということはあるのではありませんか。だからと言って、消費増税がこれらの漠然とした国際的な信認失墜の不安に対する有効な対応策だとは思いませんが、上記のデタラメな危機感への対策として、「少なくとも何か手を打ってます感」を出さなくてはならない、ということはあるのかな、と思うのですが。

A3:一国のデフレ対策をどうするかということと、一定程度の已むをえぬグローバル化(ヒト、モノ、カネの国境を超えた移動)の必要とは話が別です。
 たしかに、IMFなどはバカの一つ憶えのように、何かといえば構造改革せよ、財政均衡を保てなどと偉そうに忠告してきます。IMFはもともと国情もわきまえずに、とにかくある国の財政破綻を過剰に恐れる体質を持っているので、それももっともといえばもっともですが、それに加えて、IMFの中に、財務省べったりで構造改革派の日本人メンバーが入り込んでいて、いかにも国際的権威の衣を着て、それが正論であるかのように押し付けてくるのです。
 しかし、体面を保つためにそうした言い分に従い続けているうちに、デフレからの脱却はますます困難になり、日本の実質賃金はこの三年間で、6%も下がってしまったのです。国民の生活をこれだけ犠牲にしてまで「何か手を打ってます」感などを示す必要があるでしょうか。しかもその「手」なるものが何の解決にも導かれないのです。根拠のない「危機感」のために、大げさではなく、亡国の憂き目に遭いかねません。まさしく「日本経済ちゃんとやってます」的なことを示すためには、デフレを解消して実体経済の活気を取り戻して見せなくてはならないのです。国民経済の全体と、政府の間違った経済政策とを混同してはなりません。

つい熱くなって長々と書きました。お許しください。

初出:2016年09月30日 01時04分10秒
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする