美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

ジャニス・ジョプリンは、空前絶後の、ブルースロックの歌姫である (美津島明)

2015年07月30日 17時29分26秒 | 音楽
ジャニス・ジョプリンは、空前絶後の、ブルースロックの歌姫である (美津島明)



私が、ジャニス・ジョプリンの名を知ったのは、確か高校一年生のときである。彼女が二七歳の若さでこの世からおさらばしたのが一九七〇年のことだから、その死から約四年経ってその名を知ったことになる。そのころ組んでいた″土一揆″という名のバンドが、文化祭で演奏することになり、レパートリーのひとつとして「ムーヴ・オーバー」という楽曲を取り上げることになり、それを歌っているのがジャニス・ジョプリンという女性シンガーである、とバンドのリード・ボーカルのSから教えてもらって、はじめてその名を知ったのだ(ほかに取り上げたのは、高一のガキらしく、ディープ・パープルの『ハイウェイ・スター』とか、そんな感じだった)。Sの家で、その楽曲を何度も聴かせてもらったのだが、自分が受け持つドラム・パートにばかり注意が向いていたせいか、ジャニスのボーカルの印象はほとんど残らなかった。だから、その後、彼女のアルバムを丁寧に聴くこともなかった。彼女のボーカルのすごさを理解するには、当時の私はあまりにも幼かった、ということなのだと思う。どうでもよいことなのかもしれないが、当時Sは、彼女のことを「ショップリン」「ショップリン」と呼んでいたような気がする。だから私は、つい最近まで、彼女の名を「ジャニス・ショップリン」だと思いこんでいた。なにせSは、私より英語ができたので、彼の発音に疑いを持つなんて思いもよらなかったのだ。当時人々が彼女をなんと呼んでいたのか、よくは分からない。

そんなわけで、私とジャニスとは、幸運とは言い難い出会い方をし、その後も、熱心なリスナーと呼べるほどの聴き方をしたことはなかった。そのことは、正直に申し上げておかねばならない。

そんな私にとって、先日の七月二五日(土)にMUSIC AIRの特集番組で観たジャニス・ジョップリンは、衝撃的なものだった。彼女の、魂の奥底からふりしぼるような渾身の歌声にすっかり圧倒されてしまったのである。四〇年の歳月を経て、私の心はやっと彼女の歌声を腹の底から受け入れることができるようになったらしいのだ。歯がぐらぐらしてきたり、全力疾走ができなくなったりはするが、年を取るというのも、まんざら悪いことではないようだ。

たしか番組のはじめのほうで、「サマー・タイム」が放映されたような気がする。印象的なイントロに続き、ジャニスの歌声が聴こえはじめるやいなや、大げさではなく、私は一瞬身体が金縛りに遭うのを感じた。そのむき出しの歌心に身体がぞっとしてちぢこまってしまったようなのだ。〈ジャニスは、こういう歌い手だったのか〉と、私ははじめて気づいたのだった。ビリー・ホリデーのレパートリーとして有名な当曲をジャニスがどう歌っているのか、とっくりとお聞き願いたい。紹介記事によれば、一九六九年のパーフォーマンスのようである。

Janis Joplin - Summertime (Live -1969)


みなさんは、この歌声をどのようにお聴きになられるのだろうか。もともとやわらかくて傷つきやすい、彼女の心が受けた無数の傷の所在を、私は感じる。彼女の心はすすり泣いているのである。学生時代、他人と打ち解けて馬鹿話をすることが苦手で周りから浮いた存在になりがちだったようだし、容貌のことでいろいろと言われたりもしたようだし、尖鋭なポップスのハードな最前線で女性シンガーのパイオニアとして新しい道を切り開くうえでいろいろと無理を重ねたりもしたし、といろいろあったのだろう。世間の無理解やいわれなき誹謗中傷は、いつも彼女の周りに渦を巻くようにして存在していたはずである。もともとはごくふつうの家族思いで繊細な神経の持ち主でもあった人間が、そういう境遇によって深く傷つかないはずがない。こちらが、そういうことを身にしみて分かるほどに年齢を重ねた、ということがあるのだろう。

次にご紹介したいのは、番組中でも放映された「ボール・アンド・チェイン」の動画である。この動画には、次のようなドラマティックな背景がある。

一九六七年六月十六日から十八日にかけて、カリフォルニア州サンフランシスコ市の南に位置するモンタレーで、モンタレー・ポップ・フェスティバルが開かれた。その後のウッド・ストック(六九年)、ワイト島(七〇年)など大規模ロック・フェスの先がけとなったという意味でも、当野外フェスは、歴史に残る伝説的なものであった。出演者を列挙すると、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ママス&パパス、ザ・フー、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス、エリック・バードン&ジ・アニマルズ、サイモンとガーファンクル、ローラ・ニーロなどである。

この、きら星のごときそうそうたる参加メンバーのなかで、当時のジャニス・ジョプリンは、サンフランシスコのバンド、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー の無名のヴォーカリストとして当フェスに参加し、動画にあるような驚異的な歌いぶりを披露した。ママス&パパスのキャス・エリオットが観客席で、神がかり的な熱唱を披露するジャニスに口を開けたまま見入っている約20秒間のシーンが、とても印象的である。この、観客の目に焼き付く鮮烈なパーフォーマンスをきっかけに、ジャニスは、スターダムに一気にのし上がっていくのだった。ちなみに「ball and chain」とは、ひと昔前の映画やアニメなどで囚人が装着されている、鎖に金属球をつけた足かせのことで、そこから、束縛するもの一般を意味するようになったらしい。ジャニスが足をジタバタさせているのは、その意味で理にかなったおのずからの振り付けと言えるだろう。彼女が出だしのところで発声しはじめたときの、低い色艶のある声に接すると、痺れるような感覚が湧いてくる。当楽曲は、黒人女性歌手ビッグ・ママ・ソントンのカヴァーである。

Janis Joplin - Ball & Chain - Monterey Pop


観客のすさまじい反応に興奮し、スキップして舞台裏に戻っていくジャニスの後ろ姿が初々しい。

次に紹介するのは、「maybe」。番組では放映されなかった楽曲である。ジャニス特有の激しい情念を前面に打ち出した歌唱法ではなくて、それを内に秘めつつも、ほろ苦いブルーズの味わいが強く感じられる作品である。彼女の激しさが苦手、という方も、この曲なら許容できるのではないかと思ったのもあるし、彼女の歌心を素直に受けとめることができるナンバーではないかと思ったこともあって、取り上げてみた。いかがだろうか。ハートに沁みわたる歌声ではないだろうか。

Janis Joplin - Maybe


ちょっと上手に歌えるくらいの人気女性歌手に、「歌姫」という称号を気前よく与える流儀が流行って久しいような気がする。江戸時代の人形浄瑠璃『義経千本桜』に「梅ヶ枝うたふ歌姫の」とあるそうだから、その用法には二五〇年以上の歴史がある言葉ということになる。そういう言葉をむざむざと手垢にまみれさすようなまねをするのはしのびない気がする。一時代を画するような大きな存在にこそ、この称号を与えたい。日本であれば、戦後なら、美空ひばりとちあきなおみのふたりだけにふさわしい。ジャニス・ジョップリンは、あえてジャンル分けをすれば、ブルース・ロックの女性シンガーである。その継承者はだれかと考えてみると、ほとんどの人はだれも思いつかないのではなかろうか。その意味で、ジャニス・ジョプリンは、空前絶後のブルースロックの歌姫なのである。欧米系で流通している言葉に置きかえるのなら、〈ジャニスは、ブルースロックにおける空前絶後のディーヴァである〉となるだろう。
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ブライアン・ウィルソンのこと  (美津島明)

2015年07月26日 18時22分43秒 | 音楽
ブライアン・ウィルソンのこと  (美津島明)



昨日、CS放送のMUSIC・AIRチャンネルで、ビーチ・ボーイズの元リーダーのブライアン・ウィルソンと女性ロック・シンガーの草分け的な存在のジャニス・ショップリンの特集番組が放送された。それぞれ興味深い内容だった。今回は、ブライアン・ウィルソンに触れようと思う。

ブライアン・ウィルソンについては、次の逸話が有名であると思われる。1965年12月に発売された、ビートルズの『ラバー・ソウル』から、ブライアン・ウィルソンは、深甚な刺激を受けた。当アルバムは、従来のような、ヒット曲を寄せ集めただけのそれではなくて、一定のコンセプトによって収録曲が緻密に編集されたトータル・アルバムなのであった。そういうアルバムの作り方は、ブライアン・ウィルソンがその脳裡に温めていたアイデアでもあった。それで激しく対抗心を燃やし、『ラバーソウル』を超えるアルバム作りが、彼の目標となった。その結果、翌66年に発表されたのが、ブライアン・プロデュースの『ペットサウンズ』である。



『ペット・サウンズ』はいまでこそロック史上に残る名盤として扱われているが、当時のアメリカでは、その内省的な歌詞と音が、従来のビーチ・ボーイズの外向的なイメージとかけ離れていたせいで、あまり高い評価を受けなかった。一方、イギリスでは全英アルバムチャートで26週連続トップ10入りする大ヒットとなり、当年の『NME』の人気投票では、「トップ・ワールド・グループ」部門でビーチ・ボーイズがビートルズを抜いて1位になった。そうして今度は、当アルバムがビートルズに大きな刺激を与えることになった。その返歌が、翌67年6月に発表された世紀の傑作アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である。当アルバムのプロデューサーのジョージ・マーティンやポール・マッカートニーが「このアルバムはビーチ・ボーイズのペット・サウンズに影響された」と語ったのは有名な話。私見によれば、『ペット・サウンズ』は、確かに『ラバー・ソウル』をしのぐ出来栄えなのである。

ブライアンは、当アルバムが、『ペット・サウンズ』に対する返歌であることを正確に受けとめた。そこで今度は、『サージェント~』を超えるアルバム作りが、ブライアンの目標となった。で、彼は『スマイル』の制作に取り組んだ。しかし、発売の事前広告までされた当アルバムは、ついに完成されることがなかった(『スマイル』のその後の数奇な運命については略する)。諸般の事情が、ブライアンに当アルバムを完成させることを阻んだのである。その結果、ブライアンは精神に変調をきたすようになり、ドラッグの過剰摂取におぼれる日々を過ごすことになった。ビートルズVSブライアンというポップスの神々の闘いは、ひとまずブライアンの自滅によって終止符を打たれたといっても過言ではない。この華麗な闘いの代償として、ブライアンは、約二〇年間、ポップ・ミュージックの表舞台から姿を消すことになる。

話が長くなってしまったが、ブライアンに関してここでそういうことが言いたかったわけではない。番組中で、初期のブライアンが、フィル・スペクターから大きな刺激を受けたという指摘がなされていて、そのことに興味を持ったので、いささかその事実に触れたいと思っているのである。

スペクターが、女性三人グループのザ・ロネッツをプロデュースし、『ビー・マイ・ベイビー』を大ヒットさせたのは、1963年のことだった。まずは、どんな曲か聴いていただきたい。

Be My Baby [日本語訳付き]  ザ・ロネッツ


いま聴いても、なかなかクールで素敵な曲だと思う。当曲では、後にオーバーダビングと名付けられることになる、当時においては斬新な曲作りがなされている。すなわちスペクターは、多人数のスタジオ・ミュージシャンを起用し、録音された複数のテイクを重ねる作業を何度も繰り返すことで、重厚な音を創り出している。その音は、当時「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれた。その「ウォール・オブ・サウンド」に、ブライアンは敏感に反応したのだ。この斬新な音作りに出会うことで、彼は、大衆を楽しませるポップミュージックを作ることと高度な音楽作りとが両立できるという確信を得た。次に紹介する『ドント・ウォーリー・ベイビー』が、スペクターの『ビー・マイ・ベイビー』から多大な影響を受けて作られたものであることは多言を要しないだろう。

Beach Boys - Don't Worry Baby (1964)


これらの曲を聴いていると、邦楽系のポップミュージックをある程度聴いた方なら、大瀧詠一、山下達郎という名がおのずと浮かんでくることだろう。つまり、スペクターやブライアンが作りだした当時の音楽は、後の日本ポップス界の最良の部分に深甚なる影響を与えているのである。ちなみに、スペクターは、後にビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』をプロデュースした。その事実の方がむしろ人口に膾炙しているのかもしれない。
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ご無沙汰しています (美津島明)

2015年07月25日 22時36分55秒 | ブログ主人より
ご無沙汰しています (美津島明)



七月に入ってからは、めずらしく二日に一度のペースでアップしていたのですが、ここに来て滞ってしまっております。

実はいまの私は、二一日から夏期講習会に突入してしまい、それに、足立区公立中学校での夏期補習講座が重なって、スケジュールがけっこうタイトなものになってしまった、という状況下にあるのです。具体的に言えば、朝の5時前後に起床し、足立区の担当中学校に赴き1コマ70分の英語の授業を2コマ分実施し、午後2時ちょっと前に帰宅し軽い昼食をとり、午後3時から9時前後まで、間に晩御飯を挟んで、教え続けます。それを昨日まで四日間繰り返したのですね。

午後9時に仕事から解放されるのかといえば、そうはいかない場合がほとんどでした。足立区の中学校では中2を教えているのですが、初日に教えたbe動詞の文法的な内容を復習するために、前日の夜、補助プリントを作ったりするのです。教えている2クラスには、能力差があるので、同じ進度で教えたり、同じ学習内容を教えたりすることはできないので、結局は、同じ文法内容について、2種類のプリントを作ることになり、毎日プリントを作ることになりました。

そんな感じなので、あまり十分な睡眠時間を確保することができませんでした。それに、けっこう熱いですしね。「だったら、うまく手を抜けばいいじゃないか」という声が聞こえてきますが、サービス業を長くやっているせいで、顧客(この場合、生徒たち)の心をつかまなければ気が済まない性分になっていて、で、顧客の心をつかむには、水面下で命を削るような努力をしなければならないことを骨身に沁みて分かっているので、先のようなことをするほかはなくなるのです。いまの私は、これでぶっ倒れれば、まあ、そこまでの命と腹を決めているところがあります。

これ、別にカッコウつけているつもりはありませんよ。職人気質、あるいは、サービス精神ってのは、そういうもんでしょう、ということです。

そんなわけで、アップがとどこおっているのだ、という事情を説明したくて、さまつな私事を語ってしまいました。おゆるしくださいませ。

今日は公立中学校の授業はお休みでした。で、午後2時まで寝てはしまったのですが、これくらいの文章を書く余裕はありました。明日は自宅で午前中授業があり、午後はひとつ父母面談があるくらいなので、できたら、軽い文章をひとつアップしたいと思っております。

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「公教育における道徳教育」というテーマをめぐって考えたこと(美津島明)  

2015年07月20日 11時33分57秒 | 教育
「公教育における道徳教育」というテーマをめぐって考えたこと(美津島明)  


デロリンマンとオロカメン ジョージ秋山『デロリンマン』より

六月一四日(日)に、由紀草一さんの「道徳という不道徳」という教育講演会がありました。私はそれに司会として参加させていただきました。当企画は、「しょ~と・ぴ~すの会」という由紀さん主宰の読書会の特別企画として催されたものです。私が当会に参加したのは、かれこれ15、6年前のこと。当会は二ヶ月に一度催されます。由紀さんは、公立高等学校の英語の教員であると同時に知る人ぞ知るという教育評論家でもあります。また、演劇評論家でもあり文芸評論家でもある、という多才の人です。もちろん著書も何冊かあります。当日は、由紀さんのお話をじっくりと聞いたうえで、参加者(10名)も思うところを述べ、真摯な言葉のやりとりがなされ、文字通りあっという間の四時間でした。
以下は、当会に参加して、私なりに考えたことです。

道徳教育の必要性が叫ばれるのはどういうときか、思い浮かべてみましょう。それは主に、マスコミで少年(たち)による凶悪な殺人事件が報道されるときなのではないでしょうか。世間は、それらの事件から衝撃を受け、秩序感覚を著しく毀損され、狼狽します。そうして、〈このままではいけない。なんとかしなければいけない〉という思いにかられます。そこで、子どもたちに「命の大切さ」を教えることや「心の教育」やらの重要性が強調され、道徳を教科化して生徒たちに教えるべきであるという声が力を得ることになります。
 そう考えると、道徳教育の必要性が叫ばれることには、それなりのやむをえざる社会心理的な背景が存することが分かります。それゆえ、そういう声が絶えることは今後も決してないでしょう。

とはいうものの、公教育における道徳教育の現状には、由紀さんが指摘なさったようなさまざまな問題点があります。すなわち、「だれが」・「なにを」・「どのように」教え、生徒を「いかに」評価するかをめぐって、さまざまな問題点があるのです。その一例を挙げましょう。平成二六年十月二一日に中央教育審議会が発表した「道徳に係る教育課程の改善等について(答申)」から引きます。教科化された道徳において、生徒の評価はいかにあるべきかについて、次のように述べられています。

道徳性の評価に当たっては、指導のねらいや内容に照らし、児童生徒の学習状況を把握するために、児童生徒の作文やノート、質問紙、発言や行動の観察、面接など、様々な方法で資料等を収集することになる。その上で、例えば、指導のねらいに即した観点による評価、学習活動における表現や態度などの観察による評価(「パフォーマンス評価」など)、学習の過程や成果などの記録の積み上げによる評価(「ポートフォリオ評価」など)のほか、児童生徒の自己評価などの多種多様な方法の中から適切な方法を用いて評価を行い、課題を明確にして指導の充実を図ることが望まれる。

いかがでしょうか。私の場合、これを目にしたとき、現場の教師の負担や心労に思いを馳せて、暗然とした気分に陥ったものです。ここで要求されていることを生真面目に実行しようとすれば、現場の教師の側のかなりの程度の労働強化を招いてしまうはずです。労働強化は、教師と生徒が信頼関係を築くうえでのマイナス要因にはなっても、プラス要因になることは考えにくいですね。10数年前にさかのぼりますが、中学校の通知表に、観点別評価なるものが導入されて、生徒の学力の評価が複雑化し、教師の仕事量が増えてからの教師と生徒との関係は、どことなくギスギスしたものになったような印象があります。たとえば、授業中の挙手の回数をカウントして生徒の積極性を評価する、などというどことなく馬鹿げた評価法が大真面目に導入されたりしたわけです。これはほんの一例ですが、そういうたぐいの評価法が、教師と生徒の信頼関係にとって決してプラスに働かないことは、容易に想像できますね。生徒の道徳性の評価が具体化され現場に降りてくると、そういう悪い方向性が強化されるのではないでしょうか。

ここでは、これ以上道徳教育の具体的問題点に踏み込みませんが、由紀さんがご指摘なさったさまざまな問題点を直視すると、膨大な時間と人手とお金を使って、無駄なことをやっているという印象が禁じ得なくなってきます。厳しく評するならば、「欺瞞的」と形容してもあながち間違いとも言えないのではないか、とも思えてきます。その意味で、「道徳という不道徳」という演題が適切なものである、という気がしてきます。

さらにもうひとつ指摘しなければならないことがあります。先の川崎中一リンチ殺人事件に関して、稲田朋美自民党政調会長がテレビで「最近、少年犯罪の凶悪化が進んでいる」という意味の発言をしているのを目にしましたが、それは事実に反します。少年による刑法犯・検挙人員は昭和五〇年代半ばからほぼ一貫して減少していますし、また、少年10万人当たりの検挙率も10年前の平成一五年を基準にすると激減していると言っても過言ではない状況です。殺人・強姦・強盗・放火の凶悪犯罪に限っても、同様の傾向が見られます。つまり少年犯罪は、刑法犯やさらには凶悪犯においても明らかに減っているのです。

「だから問題はない」と言いたいわけではありません。事実に反する過剰な危機感は、物事に適正に対処するうえでの障害になっても、助けにはならない、と言いたいだけです。

私は、以上のすべてを踏まえても、道徳教育の必要性が叫ばれる社会心理的不可避性はどうしようもなく残ってしまう、と言いたいのですね。少年による凶悪犯罪によって秩序感覚がおびやかされ、動揺した人心は、統治の観点からも、鎮められなければならないのです。政府は何かをしなければならないのです。そのように動揺した人心の鎮撫は、仮に道徳教育が荒唐無稽なものとして全否定されてしまっても、なお残ってしまう政策課題なのです。そこに、道徳教育議論の真のやっかいさがあるような気がします。

そこで思い出されるのが、最近物議をかもしている、元・酒鬼薔薇の『絶歌』の出版中止要求事件です。酒鬼薔薇の快楽殺人の犠牲になった土師淳君(当時11)の父、守さんが十日、代理人弁護士を通じ、「私たちの思いは無視され、踏みにじられた」とするコメントを公表し、出版の中止と本の回収を求めました。この本を読んだ知人によれば、酒鬼薔薇は、かつて自分が実行した快楽殺人を、もう一度筆で丁寧になぞって快楽を味わい直しているとしか思えないような描写をしているそうです。そういう内容を含む本書の出版の中止を求めるお父さんの気持ちは察するにあまりあります。子どもを凶悪事件で失った親の心の時計は、事件当時で止まってしまうといいます。事件の衝撃によって開いた心の傷口は永遠に塞がることがないのです。本書の出版は、その傷口をあらためて広げる所業なのです。そのことに思いを致すと、言論・出版の自由を葵のご紋のように振りかざして本書の出版を擁護しようとする連中はマトモではないという気がしないでもありません。少なくとも、言論・出版の自由は、すべてに優先する絶対の真理などでは決してありえないのです。私は、この件に関しては、無言でお父さんの側に立ちたいと思っています。

思わず筆が滑ってしまいましたが、ここではそういうことが言いたいのではありません。酒鬼薔薇の所業は、道徳教育でなんとか防げるようなものではないのです。快楽殺人者は、楽しくて気持ち良くてしょうがないから人を殺すのです。そういう病んだ心の持ち主に、いくら言葉を尽くして善悪の区別を説いても効果がないことは火を見るより明らかでしょう。むろん法で罰しても、そういう心性は治りません。ここで私たちは、この世に悪魔が実在することを直視する必要があるような気がします。悪魔に対しては、教育や理を尽くした言葉など無効です。おそらくこれは、伝統社会ならば、エクソシストが登場する領域なのではないかと思われます。言いかえれば、強靭な祈りだけがかろうじて悪なるものと対峙しうる限界状況が現代社会においても存在する。そう言えるのではないかと思われます。

それはもはや政治がどうこうできる領域ではありません。しかし、そういう悪なるものは、それが潜在的に秩序感覚の最大の脅威であるという意味で、個人的なものではなくて、公共空間に深く関わる存在です公共性に深く関わるもので、政治が決定的に無力な領域が世界には確実にある。それでも人間社会は、悪なるものにどうにか対処して、自分たちの社会の維持を図る必要がある。総体としての人間は、実のところそういうとんでもなくやっかいな課題を潜在的に抱えて生きているのです。道徳教育の話題とずいぶんと遠いところに来てしまったようですが、私が現状で考えられるぎりぎりのところまで考えたことを削除せずに端的に記しておこうと思います。結局、対処することが困難な課題だけが膨らんでしまったような気がします。

*「公教育における道徳教育」の是非をめぐって、由紀草一氏が、突っ込んだ議論を展開しています。ご興味がおありの方は、こちらをごらんください。「道徳という不道徳」(その1)http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/f093ad2e1fc8bc159ee7313d1fc3192b
(その2)http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/98757582624e786a5d4fcaad99784ad4

〔追加〕「道徳という不道徳」(その3)がアップされました。http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/87de07ebf2538f06ec73d474fb629ea5?fm=entry_related コメント欄に、小浜逸郎氏の投稿があり、それに由紀草一氏が返事を書いています。なかなか興味深いやりとりです。
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ギリシャ問題についてのメモ(その2)――フェイスブックより (美津島明)

2015年07月16日 23時24分07秒 | 経済
ギリシャ問題についてのメモ(その2)――フェイスブックより (美津島明)



ギリシャの財政破綻さらにはユーロ離脱問題についての続報です。

●7月16日(木)「ギリシャ 財政改革法案を可決」(YAHOO!ニュース)
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6167281?fr=fb_pc_tpc

マスコミでは、「これで、ギリシャのEU脱退がなくなって一安心。デフォルトも回避されそうだし、やれやれ」というノリの報道がなされている。私には、ギリシャの財政主権が、EUの緊縮財政派に乗っ取られた、無残なニュースとしか感じられない。緊縮財政派の軍門に下ったチプラス首相が、反緊縮財政の選挙公約に反し、国民投票で示された国民の意思を無視する振る舞いをしてしまったことは間違いない。EUに首根っこをつかまれたなかでの、ギリシャ国政の動揺が、悲惨な末路を迎えることを危惧する。私は、絶望したギリシャ国民が、極右勢力に期待をかけるようなことにならなければよいが、と思っているのである。ギリシャの次の総選挙がいつになるのかは分からない。しかし、「反緊縮財政路線」を選挙公約に掲げた政党が、ふたたびギリシャ国民の心をつかむことは間違いないだろう。今回、極左連合から裏切られた国民が、今度は極右勢力に望みを託す可能性が少なからずあるような気がする。まあ、素人話だから、話半分で聞いていただければけっこうだが。


●7月16日(木)「薬の輸出禁止=国内流通分の不足警戒―ギリシャ」(YAHOO!ニュース)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150716-00000097-jij-eurp

6月から導入されている資本規制の影響で、あらゆる資金の流れが滞っていることが、薬の輸出禁止の原因らしい。薬剤の輸出は、輸出総額のほんの数%にすぎない。輸出総額の35%は石油精製なのだが、資本規制の影響がそこにも及んでいるのだとすれば、ギリシャ経済への打撃は甚大なものだろう。輸出の減少は、端的にGDPの減少をもたらす。緊縮財政の縛りが法制化された現在、私たちは、これからずっとギリシャ経済の惨状を目の当たりにするほかないのだろうか。


●7月16日(木)「アテネで大規模デモ、一部が暴徒化 機動隊が催涙弾発射」(朝日新聞DIGITAL)
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/world/ASH7J1QMMH7JULFA001.html?fb_ref=Default
「財政改革法案は祖父母や両親の世代にはいいのだろうが、自分たちにとっては苦しいだけだ」。これは、財政改革法に反対するデモに参加したギリシャの若者の発言である。このように、緊縮財政は、「子や孫の世代に借金を残さない」ものなのではなくて、子や孫の世代の未来を奪うものであることが、これでよく分かるだろう。いつか言ったことを、いまふたたび、言おう。緊縮財政思想と一定の距離がとれていない論者を、私は、価値ある知識人であるとはまったく思っていない。少なくとも、経済政策に関しては、口をつぐむだけの節操を持っていただきたい。


〔追加分〕
7月11日(土)に配信された、青木泰樹氏の「ギリシャ危機は対岸の火事ではない」(「三橋貴明の「新」日本経済新聞」より)は、とても意義深い論考である。
https://www.facebook.com/mitsuhashipress/posts/513768658788764
財務省シンパのマスコミの緊縮財政肯定論のデマをなで斬りにしたうえで、緊縮財政思想が、ギリシャ経済をずたずたにした道筋を、青木氏は、次のように述べている。なお、引用文中の「PB(プライマリーバランス)目標」とは、「税収だけで、一般歳出(国債費を除く政策経費)をまかなえるようにすること」である。いいかえれば、「基礎的収支を単年度で均衡させる財政目標」である。これが、緊縮財政派の金科玉条であることはいうまでもない。

欧州委員会(EU)、欧州中央銀行(ECB)、国際通貨基金(IMF)という三者、いわゆるトロイカに押し付けられたPB目標を達成しようとして、ギリシャは忠実に増税と歳出削減を履行し、結果的に経済を破綻させました。

5年間でGDPは25%減少しました(日本に置き換えて考えるなら、日本の名目GDPは約490兆円ですから、120兆円以上が消し飛んだことになります)。失業率も平均で26%超、若年層に至っては60%超です。若者が希望の持てない、未来のない国にしてしまったのです。万死に値する所業です。

ここまで経済を破壊して得たものは何か。若干のPB黒字だけです。それによって財政再建はかなったのでしょうか、財政破綻の危機は去ったのでしょうか。とんでもない、PBを黒字化しても財政破綻寸前です。PB目標の達成は、国家の安寧も財政再建も、何ももたらさなかったという歴史的事実が残ったのです。これを教訓とせずして、何を教訓とすべきでしょうか。


安倍政権がいま目標に掲げている「PB目標」なるものが、どれほど国民経済に深甚なる害をなすものであるのかを思い知ることが、われわれ日本人にとって、ギリシャ問題から得られる教訓の最たるものである、と青木氏は主張しているのだ。そのとおりである、と申し上げたい。氏の緊縮財政批判が主流にならない日本言論界の惨状を、私は深く憂慮している。氏が語っているのは、いわば、常識にほかならないのである。

常識といえば、「日本の借金は、1000兆円。GDPの200パーセント超で大変。財政破綻なのだ。ハイパー・インフレなのだ。消費増税なのだ」という、毎度毎度、新聞を三か月に一度の年中行事のように賑わせている記事がある。これは、一般国民にとっては常識になっているのであろうが、会計学のイロハからすれば、噴飯物にすぎない。いわゆる「金融の異次元緩和」の断行によって、日本にもはや財政問題など存在しないのである。私ごときがいくら言い募ってみても、大方は信じないのだろうから、ぜひ、青木氏の言葉に耳を傾けてみていただきたい。それでも信じられなければ、北極か南極に行って、その融通のきかない頭を強烈な冷水に突っ込んでみてはいかがか。
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